第一章 初めてのお客様 


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 窓越しの青い空はどこまでも高く突き抜けていく。
 春うらら。
 つい数週間前までは枯れた草と味気ないコンクリートの壁ばかりが目に入る寒々しい景色
だったのに、今はどうだろう。  どこからやってきて隠れていたのか。タンポポの黄色い花や窮屈な場所から解放されて大き
く伸びをする緑の葉が、コンクリートの地面を突き破って辺りを彩っている。  太陽の光さえも色をどこかのどかだ。 「はぁ。平和だねぇ」  感動のない声で清水香子は言い、天井に向けた口から煙草の煙を噴き上げる。 「せっかくのいい天気なのに、部屋の中が煙で曇っているのは気のせいじゃないわよね」  パソコンのキーをたたき続けながら桐生夏江が非難の目を一瞬向ける。  それを鼻で笑ってあしらった香子が煙草を灰皿に押し付ける。灰皿はすでに吸殻の山で覆
われていたが。 「こうも平和だと仕事なんてない気がしない?」  香子がソファーに体を預け、ブーツを履いたままの足をテーブルの上に投げ出す。  二人がいる一室は、女がいるわりに飾り気のない事務所だった。  部屋の隅に定番の観葉植物が置かれてはいるが、後は品がいいとは言い難い緑のソファー
とタバコの灰がこぼれたガラスのテーブル。二人分のデスクとその上のパソコン。  コーヒーメーカーと小さな赤い冷蔵庫が置かれた僅かばかりのキッチンスペース。  香子はやることがないので仕方なく二人分のコーヒーをマグカップに注ぐと、一つを夏江
のいるデスクに運び、無言で差し出す。 「さっきから何やってるわけ?」  夏江のデスクにジーンズに包まれた形のいい尻を載せ、コーヒーに口をつけながら香子が
尋ねる。  夏江の方は、コンピューターのモニターに赤い縁の眼鏡をかけた目を向けたままコーヒー
をすする。 「あんたがご心配のお仕事の依頼を増やすための営業活動」  夏江が今印刷仕上がったばかりの一枚の紙を香子に差し出す。 「どんな問題も迅速、丁寧に解決いたします。探偵事務所ミルクティー」  声に出して読んだ香子が、顔をしかめる。 「何このイラスト」  やけに巨乳の女捜査官二人が背中合わせで銃を構えて狙いを定めている。  その下には『美人調査官がお待ちしています』などと説明が添えられている。 「美人調査官?」  夏江に紙をつき返し、香子がやってられないとばかりに背を向けて事務所を出て行こうと
する。 「待ちなさい!」  それを夏江が呼びとめると、勢いよく紙を吐き出し続けるプリンターから今しがたの広告
チラシを掲げて言う。 「今日のお仕事その一。チラシ配り」  皮のジャケットを羽織った香子が心底嫌そうに顔をしかめる。 「そんなことしたくないとか、そんな我がままは通用しないから!」  厳格な母親が駄々っ子に言い聞かせるように宣言し、夏江が紙の束を香子の胸に押し付け
る。 「死活問題! もう一か月仕事ないんだから!!」 「だからミルクティーなんて甘ったるい名前がいけないって言ってるのに……」  香子が文句を口にした瞬間、トレンチコートを羽織って同じくチラシ配りに出かける準備
を始めた夏江が、鋭い睨みを放つ。 「グチグチ見苦しい! だいたいあんたはジャンケンに負けたんだから、後で文句を言う権
利はない」  こうしていつもの言い合いを繰り返しながら、二人が事務所のドアを出ていく。  バタンと勢いよく閉められたドアの上にも可愛らしい字体が並んでいた。 ――探偵事務所 ミルクティー  色白な元鑑識捜査員、桐生夏江。同じく元刑事で日に焼けた肌が健康的な清水香子。  二人が手を組めばミルクティー。  そのお味は、さていかがなものでしょう。 「ミルクティー探偵事務所です。どうぞよろしく♪」  普段の事務所での仏頂面が嘘のように、明るいお姉さん気どりの笑顔を浮かべ、夏江がチ
ラシを配っている。  それも駅前で高校生や若い女性ターゲットで声をかけている。  香子が真面目に頭を下げてチラシを差し出しても、大抵無視で通り過ぎられるか、受け取
ったと見せて、チラシが手の中にあったのはほんの1秒という早さで、つまり香子の目の前
で、道に捨てられていく。  その度に相手に聞こえるように舌うちすることを忘れず、振り返って香子を見た相手には、
もれなく凄んだダークオーラというおみやげを送ってやる。  対して夏江は要領よく手渡しているのが不思議でならない。  今もOLの女性を相手にチラシを渡しつつ、「すっごいお肌キレイ!こんなに美人だと悪
い男にも狙われない? 何かあったらすぐに相談してね」などと、友だちなのかと思わせ
るくらいに和やかな会話を一瞬の間にして見せている。  あの人格変化は、もはや病的としか言いようがない。あれは夏江ではない、夏江の中の別
人格のなせる技に違いない。そうだ。きっと夏江の中には会話上手なホステス人格なるもの
がいるに違いない。  チラシなど配る気ゼロで、ジャケットのポケットからタバコを取り出しながら、香子は自
説の正しさを味わうように何度も頷く。  咥えタバコにジッポから火を移したところで、ふいに背後に気配を感じて香子が振り返った。 「あ、あの。このミルクティーっていう探偵事務所の人ですか?」  いかにも優等生な雰囲気の女の子が、チラシを胸の前に示して香子を見る。  制服のスカートも短くすることなく、ワイシャツのボタンも第一ボタンからしっかりと閉
め、リボンも学校指定のものをキチンとつけた黒髪の女の子。  こんな子が探偵なんてものに用事があるんかいね?  香子はタバコの一口目を吸い込みながら相手を吟味する。 「ああ。ミルクティーなんて変な名前の探偵事務所の人間だよ」  優等生とは対照的な、男勝り、はっきり言うならば下品な香子のツーショットは、そこに
いるだけで違和感をがあった。  あの子、あのガラの悪い女に絡まれているのかしら?   そんな視線のおばさんたちが、それでも声はかけずに通り過ぎていく。  女の子の方も、香子の自分とは違う世界に住む人間の空気感に、すでに及び腰になってい
たが、意を決したようにゴクリと唾を飲むと、一歩前進して背の高い香子を見上げた。 「わたしを助けてください。ストーカーにあっているんです」  真剣な目で一心に見つめてくる女の子に、香子が初めて笑顔を見せる。 「ふ〜ん。ストーカーかぁ。了解。悩める乙女を助けてあげましょう」  香子は女の子の肩を抱くと歩き出す。 「夏江! クライアントゲット!!」  目を丸くしながらついてくる女の子に、香子は咥えタバコのままで極上の笑みを浮かべる。
だがそれは、獲物発見の瞬間に見せる野獣の笑みのようでもあった。  



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