外伝 「キスの後」



3 女の子の憂鬱 〈さゆり編〉
    お片付けくらいはやります、と自分で言い出したので、一生懸命に泡を立てたスポンジで お皿を洗う。  井上家のお皿やグラスは、見ただけでこれは高いと分かるような品なので、はじめはおっ かなびっくり触っていたんだけど、それではキレイにならないと、今はピカピカの曇り一つ ないほどに磨きあげる方に専念している。  それにしても――。  泡ぶくだらけになったシンクの中の物をガチャガチャと洗いながら、自然と思考はお皿洗 いから離れて行ってしまう。  だって、幸太郎ちゃんてば、全然わたしに反応しない。  もしかして、わたしって魅力がないのかな……。  自分のその思いにズキンと胸の奥が痛んで、思わず顔を顰める。  本当に痛かった。  胸が痛い。  そっと顔を上げれば、そんなさゆりの思いなど気づきもせず、涼しい顔で新聞など読んで いる幸太郎が目に入る。  新聞なんか読んじゃって。ジジくさいぞ。  なんて悪態をついてみても、コーヒー片手に新聞を広げ、足を組んでいる様は、なんとも 絵になる。そのまま雑誌のオシャレコーナーに載っていても全然不自然じゃない。  こんなかっこいい人を彼氏にできているだけで満足しないといけないのかな。  そんな反省が心を過る。  この頃のさゆりは我がままな欲張りになってしまっていたのかもしれない。  だって、幸太郎ちゃんの隣にいれて、いつだって笑って話ができる立場で、こんな風に朝 も一緒に過ごせて、みんなに公認の彼女って見られている。  たぶん数か月前の自分が今の自分をみたら、なんて恵まれている女だって嫉妬しちゃって いたに違いない。  それなのに、今のさゆりはもっと先を望んでいる。  もっと情熱的に抱きしめられて、愛してると囁かれ、それからキス以上の愛情表現を受け たいのだ。 ―― さゆりがH過ぎるのかな?  脳裏をかすめた、妄想の中の裸体の幸太郎の胸にときめきながら、オホンと咳ばらいする。  その咳ばらいに顔をあげた幸太郎と目が合いそうになって、慌てて目をそらす。  今目があったら、完全にエロイ目で見てしまう。しかも顔は赤くなっていること間違いな しだから、変態女だと見抜かれる恐れがある。  そう。素直に白状しちゃえば、さゆりは、もう3か月ばかり男の人とそういうことはして いない。だから溜まってる?   いやいや、断固違うと主張します。  これは、幸太郎ちゃんのフェロモンにあてられているのです。  誘う美しいエクスタシーが目の前に四六時中いるのに、延々と「まて!」と命令された犬 みたいになってるんだよ。犬だって涎ぐらい垂らすでしょう。  って、さゆりは涎垂らしてないけどね。精神的には垂らしてますが、何か?  とにかく、問題は幸太郎ちゃんなのだ!  こんなにフェロモン撒き散らしてるくせに、どうして手を出さないのでしょう?  それはやっぱり、さゆりのせいなのかな?   お皿の泡を洗いながしながら、悶々と考え続ける。  勢いよく出る水にお皿はピカピカに輝いて行くのに、さゆりの心は鬱々と晴れやかになら ない。  とそのとき、幸太郎ちゃんが新聞の間に挟まっていたチラシを手に言う。 「なんか近所にプールができたらしいよ。割引券だって」 「ふ〜ん」  適当に返事をしながら、でも頭の中で何かが閃いて輝いた。  プール。  そういえば、大きい屋内プールが建設中だったな。  流水プールとか、波のとか、大きい滑り台があったりとかで、ラブリーデートスポットだ と思ったはず。  プールといえば水着。いちゃいちゃ、キャーキャーと叫びながら触れ合える、ドキドキデ ートにもってこいの場所! 「ねぇ、そこ行きたい!」 「え? 今日?」 「うん」  せっかくのお休み、楽しみながら、さらにはお色気でさらに幸太郎ちゃんに迫ってやる!  泡のスポンジを握りしめて心に誓う。  そのさゆりをジッと見ながら、幸太郎ちゃんが仕方なさそうに頷く。 「じゃあ、今日はプールでも行くか」  イェ―――イ!   心の中で歓声を上げて残りの皿を洗う。  窓の外から差し込む光に反射してキラキラ光るお皿は、とってもキレイでさゆりを応援し てくれているみたいに思えるのだった。  
back / top / next
inserted by FC2 system