外伝 「キスの後」



1 モーニングキス・〈さゆり編〉
 わたしって本当に幸せ者。  だって目覚めと同時に目の前にはこんなにキレイな顔がある。  彼氏、井上幸太郎の寝顔を眺めながら思う。  長いまつ毛が頬に影を落としていて、ちょっと開いた口から寝息が聞こえてくる。 ―― ああ、かわいい。  ついつい見もだえしたくなって、でも起こしたらいけないよねと、そっと毛布の下で身じ ろぎする。  大学一のモテ男と評判の幸太郎と恋人と言われるようになって一か月が過ぎていた。  変人だか天才だかしらないけれど、結構かわいい奴である上条時人が巻き起こした事件で 知り合ったのだから、時人にも感謝しないといけないかもしれない。  でもどうせ「ありがとう」なんて素直にお礼を言っても、鼻で「ふん」と笑われるのが落 ちでだと分かっている。  そして「ぼくはお前ごときのために何かをしたことなどない。よくもあんなバカ男といつ も一緒にいられるな。せいぜい妊娠だけはしないように注意することだな」なんて憎まれ口 を叩くのだ。  チッチッチ。時人くん、君も分かってないね。井上幸太郎という男を。  軽そうに見えて、すっごく優しい。そのうえ――。 「はぁ」  幸せなのに、ため息がでるのはどうしてでしょう?  それはこの毛布の中を覗けば分かります。  そっとめくった毛布の中の自分の姿は、今夜こそ悩殺と身につけてきた黒のレースの小悪 魔ちゃん系な下着だったのに、未だにしっかり身につけいます。  そしてその向かいに寝ている幸太郎ちゃんも、しっかりパジャマ着てます。  グスン。そうなのです。わたしたち、未だにキス以上はしていないのです。  こうなったら寝ている幸太郎ちゃんを弄ってしまえと思う。  けれど、そんなに大胆なことはねぇ。わたしも一応乙女の恥じらいはあるんだから。  ということで。  と幸太郎の頬に両手を伸ばす。  男なのにスベスベだな。ただ顔洗ってローションみたいのパシャパシャやってただけなの に。  自分の面倒くさい夜のお手入れの末の肌と比べてブーと頬を膨らませる。  でもやっぱり幸太郎ちゃんも男なんだって証拠で、触れた手の下でヒゲがザラザラと触れ る。  幸太郎ちゃんは体毛が薄いタイプらしくて、ヒゲも薄い。きっとダンディーにヒゲ生やし たいなんて思っても足りないんじゃないかなってくらい。  親指で頬を撫でると、指の下でヒゲが反発して跳ね返るのが分かる。  くすぐったい感触。  それは幸太郎ちゃんも同じだったらしく、「んん」と声を上げて顔をしかめるとうっすら と目を開けた。  まだ焦点の定まらない寝ぼけた目でじーーーっと見つめてくる目に、おはようと声をかけ る。  そしてチュッとキスをする。  だけど、それに返された言葉にあ然、呆然。 「………だれ?」  その一言に、キスしたてのほんわかした気持ちがグシャッと握りつぶされる。  だれ? ってどういうこと? 幸太郎ちゃんの隣に寝てるのは、わたしって決まってない んですか? そんなに他のお姉ちゃんたちと一緒に寝る機会があるんですか?  は! それともお姉ちゃんじゃなくて、お兄ちゃん?  そう言えば、このお兄さん、ちょっとホモ疑惑があったんだった。  わたしの目の前で時人ちゃんと抱き合って濃厚なキスぶちかましてくれたことがあったん だった。愛してるとか宣言して。  だから? だからわたしのこと抱かないの?  ショックの顔のままで恐怖の呪い系思考の囚われていたわたしだったが、それをニヤニヤ 笑って眺めている幸太郎に気づいて我に返る。 「もう、からかってるでしょう!」 「さゆりちゃんだって、いつまでも人のことエロの浮気男って思ってるでしょう」 「ううっ」  実際につい数秒前までそう考えていただけに、言い返せずに言葉につまってしまう。  すると、自分で言ったくせに、幸太郎が眉をへの字に曲げて困った顔になる。 「おいおい、そこは否定しとこうよ。……全く……」  はぁと溜息をついた幸太郎がベッドから起き上がって洗面所へと歩いて行く。  その後を追ってベッドの上で膝立ちになったわたしがその背中に言う。 「ごめんね、幸太郎ちゃん。でも、わたしが思っていたのはちょっと違うんだけど」  その言葉に、寝ぐせの髪を撫でながら幸太郎が振り返る。 「……で、さゆりお嬢様は一体何を考えたのかな?」  にんまりと怖い笑みを浮かべた幸太郎が言う。 「え? ……あのね。実は幸太郎ちゃんがホモだったりして、なんてね」  エヘと笑ったわたしに、幸太郎ちゃんは大きくはぁ〜とこれ見よがしにため息をつく。  そしてベッドの上のわたしの前まで戻ってくると、長いわたしの髪を掴むようにして顔を 上向かせる。  そして濃厚なキスで唇を覆ったのだ。  思わず絡んだ舌に幸太郎の首に手を回してベッドに引きずり込もうとする。  でもそれには乗らないとさっと体を離した幸太郎が、まだ足りないという顔で見上げるさ ゆりの頭をぐしゃぐしゃと撫でる。 「俺のホモ疑惑解けた?」 「……70%くらい」  それをおもしろそうに笑った幸太郎ちゃんが言う。 「上等!」
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