実験 7  飲めよ、食べよの大宴会だぜ!  




「わたしは工学においても医学においてもずぶの素人であり、詳しい話はできません。わたしはただの
画家ですから。でも、わたしが自ら経験したことを通して、人間の脳が高性能なコンピューターである
という何度も耳にしていたことが事実であったことを体感しました。
 わたしは昨年の春に自動車事故に会いました。幸い自分一人の自損事故で済みましたし、この通り体
には異常もでずに、軽く額を切る程度で済みました。
 ですが翌朝目を覚ましたわたしに異常が起こっていたのです。色が見えない。自分が白黒だけで構成
された世界の住人になっていたのです。まるで、昔のモノクロ映画の中に入り込んでしまったようなも
のです」
 村上氏の言葉にそって、スタッフによって背後に置かれたものの一つの布が取り払われる。
 そこに描かれていたのは、白と黒のみで表現された絵の数々だった。真っ黒のリンゴとそれに突き刺
さったフォーク。そしてその向こうにある女性の裸の背中。
 あまりに生き物の匂いがしない。だがそれゆえに見たことのない迫力を見るものに与える絵だった。
 今にも生気のない目をした女が振り返ってリンゴに刺さったフォークを抜き取り、襲い掛かってきそ
うな。あるいは未知の味わいを秘めたリンゴに、フォークを握った手で無表情なままに、だからこその
官能を撒き散らしながらかじりつきそうな。
「白と黒という無彩色の世界の住人になって感じたことはなんでしたか?」
 幸太郎の問いに、村上氏が背後の絵を示す。
「皆さんは、この絵の中のリンゴに食欲を感じますか?」
 村上氏の質問に、会場の中で首を振る人たちが何人も見受けられる。
「そうでしょう。色がない。それだけで食事は味気ないものに変わってしまう。なかなか人間とは繊細
なもののようです。そして苦労したのが夕方の野外を歩くことです。夕日が美しく輝くときに限って、
わたしには全てが白光の中で覆われた物の区別がつかない恐怖の世界に変わってしまう。暗闇の中で歩
くときの不安は皆さんも経験があるでしょう。それの逆。全てが白色に覆われた視神経が焼け付くよう
な世界。完全なホワイトアウトです」
 時人も何度も聞かされた内容だったが、改めてその村上氏の経験を頭の中で想像してみる。きっと、
その全ては楽天的で何事も楽しんでしまおうという性格の彼だからこそ堪えられたのだろうと思った。
 暗いトンネルからギラリと光る太陽光の下に出るときに経験するホワイトアウトでも、たとえ一瞬で
あっても、無意識に目を眇めて早く正常な視界に戻ってくれと思うものだ。
「事故後に色を識別できなくなってしまった。でも見るという目の機能自体が壊れたわけではなかった
ということですね」
 幸太郎の誘導に村上氏が頷く。
「人間の見るという一つの能力をとってみても、わたしたちの体は驚くほど複雑な作業をこなしている
ようなのです。わたしたちは光として物を目で見ます。それを眼球の網膜に映し、それを今度は視神経
から脳に伝えるわけです。見たものが全て情報という形に変形され、神経の中を通って脳に伝えられる
のです。そして脳内の様々な部分に送られ、形を判別する脳、距離感を識別する脳、色を感知する脳、
また見たものを意識させるか否かを判別する脳と、様々な部分を通って、最後に見えたという知覚にい
たるわけです。
 私自身、それほど高度なことをこの脳みそがやってくれていただなんて、これっぽちも知りませんで
したから、もうちょっと丁重にこの頭も使ってやらないとならないと、反省したくらいです」
 村上氏が冗談めかして自分の頭を撫でる動作に、会場から笑いが上がる。
「では村上さんの場合、その色を識別する脳の情報伝達のどこかに失調が起こってしまったというわけ
ですね」
「どうやらそのようですね。そこでここにいる上条君の助けを借りたわけです。わたしはどうしても描
きたい絵があったのです。そのために、どうしても色を取り戻さなくてはならなかった」
 その言葉に頷いた幸太郎が、会場に向って姿勢を正すと立ち上がった。
「ではここで皆さんも一番期待しておられるであろう世界へのデモンストレーションを開始したいと思
います」 
 幸太郎の言葉で、会場がざわめき、イス一脚に一つずつ置かれてたヘッドセットを手にとる。
「上条時人が開発したパメラを使った機能を体感していただきます。パメラが実現したのは、脳内に直
接映像を送り込む機能です。作りあげた映像、またパメラが目となって捕らえた映像を、ダイレクトに
脳内に伝達します」
 幸太郎の説明でヘッドセット二箇所にある電極と繋がったパット部分のシールが外される。そしてひ
んやりとしたゼリー状のパッド部分がこめかみに当てられる。
 会場の誰もがヘッドセットを装着するのに手間取っている間に、幸太郎に頷かれて時人がパメラに向
って歩いていく。
 これが幸太郎の指示で作らされた映像世界の公開だったというわけだ。
 衝撃と感動を混ぜろと言われて苦心した映像だ。
「では未体験の世界へ旅立ちましょう」
 幸太郎の一言で会場の全員が目を閉じる。
 時人はパメラの映像投影開始スイッチをオンにした。


 現れたのは真の闇だった。
 その中で自分の目で自分の手足を見下ろす。
 辛うじて輪郭となって自分の手足が見下ろせる。
 顔の前に翳した手が開いたり閉じたりを繰り返し、ヒラヒラと揺れる。
 本当に自分の目でみているようなリアルな映像に、会場の中で見ていた女性の一人がピクリと自分の
手を動かした。
 そう、これは自分の手ではない。だが、脳はまるで自分の手が動いているかのような映像に錯覚して
しまいそうだった。
 後ろで微かにした足音で振り返る。
 その先でシャーと音を立てて開かれるカーテンの音。
「もう朝よ、起きなさい」
 ベッドの中にいたらしい自分が溢れた光に目を細める。
 四角に切り取られた窓から、光の矢が無数に放たれて目を射抜くような白光の洪水がおしよせる。
 目を手の平が覆う。
 黒く見えた手の平や指。
 やがて気付くのだ。これが白と黒だけで構成された無彩色の世界であるということに。
 部屋全体が陰鬱な灰色で覆われ、窓の外は完全にホワイトアウトしていて眩しくて見ることもできな
い。
 自分の手を見下ろしても、ただのグレーの色の変化の中で人形の肌のような質感をもってそこにある。
 部屋を出る。
 廊下に飾られた花瓶のバラが、真っ黒な固まりとなって刺さっていた。
 距離感を見誤って足を花瓶の載るテーブルにぶつけて、花瓶ごとひっくり返し、水をぶちまける。
 まるで溶けた金属のような銀色に揺れ動く水の流れに後退さる。
「朝食ができているわよ」
 温かい母親の声に救いを求めるように立ち上がると、食卓のあるダイニングに足を踏み入れる。
 テレビがつき、新聞を読む父親の背中が見え、食卓には湯気があがるコーヒーや目玉焼きやサラダ
の載った皿が並んでいる。
 分かるのだ。そこにあるのがコーヒーであることはイメージで。だが目で見る限り、それはただの黒
い、湯気を吐く水のたまりである。目玉焼きもコンクリートで作ったできの悪い模造品。サラダにいた
っては粘土でつくった形ばかり完璧な造形にしか見えない。
「さぁ、食べて」
 とても食べる気になどならない。
 犬が足元にじゃれ付いてくる。
 フカフカした毛の感触を伝えてくれそうなポメラニアン。だがそれも、灰色の毛をまとって飛跳ね
る人形に見える。
 食事に手をつける気にはなれずに外へと出て行く。
 空は薄い灰色で覆われていた。雲が出ているのかも分からない。
 太陽は黒い円となって中空に貼り付いていた。
 耐えられない。こんな世界には耐えられない。
 黒い針のような芝生の上に座り込み、うな垂れる。
 そこにポンと肩を叩いて現れたのは、ストレートの髪を肩で切りそろえた愛らしい少女だった。手
にはパメラを抱いている。
「正常な色の世界に戻りたい?」
 少女が、自分の苦悩を知っているかのように問い掛ける。
 胸に抱いているパメラがモゾモゾとむず痒いように手足を動かしている。
 「うん」と頷く。自分の手を見下ろした視界が滲む。涙だ。
 隣りに膝を抱えて座り込んだ少女が、涙を流す自分の膝の上にパメラを置く。
「パメラとお友達になれば、色が戻るよ」
 人形のように美しい少女が笑いかける。
 銀色と黒で構成された犬のパメラを胸に抱きしめる。
 どうか色よ、戻ってきてくれと願いながら。
 いったん閉じられた目に視界がブラックアウトする。
 そして次に目を開けたとき、自分の灰色だった手の平が、少しずつ色味を持ち始める。
 灰色から黄色い色が生まれ、黒い色素が薄まっていく。赤みが黄色と混じって温かさを持ち始め、青
い色が滲みながら手に凹凸を伝える影を描きだす。
 手の下の膝が肌の色を持ち、履いていたパジャマの白い色の上に乗るパメラのメタリックな姿を見せ
てくれる。
 足元の芝生は黒から深緑の緑へと姿を変え、瑞々しく光を放つ。
 そして、となりに座っていた少女が人形から美しい女の子へと変貌する。
 サラサラと風に揺れる髪は茶色く波うち、光沢をまとっていた。
 ピンク色の触れればプルンと揺れそうな頬と、唇。
 色素が薄く、ときに緑色の光さえも見える茶の虹彩。
 ほほえんだ少女が甦った光の世界に圧倒される自分の手をとり、走り始める。
 そこは、もう家の庭ではなかった。
 庭園だ。
 美しく整備された緑の迷路。咲き乱れる色とりどりのバラが濃厚な芳香を放っている、色彩の楽園。
 様々な濃淡の中で揺れる緑の木々の間を走り抜け、共に飛び交う蝶に目を奪われる。
 そしてその先に現れたのが白い布で覆われた大きなキャンバスだった。
 イーゼルに立てかけられた絵が、風に吹かれた白い布をヒラヒラと舞わせながら待っていた。
 石段の上に、至宝のように森の中に鎮座している。
 女の子が絵の前で自分を立たせると、さっと白い布をめくる。
 

 そこで映像が途絶える。
 現実に戻った観客が次に目にしたのが、照明の落とされた会場の中で唯一光の灯った壇上のイーゼル
に立てかけられた絵だった。
 天使のような薄布をまとった女性が少年を抱きしめる絵。
 傷つき疲れた少年の背中を、溢れる愛情で暖かく抱き寄せる女性は、映像の中の少女が成長した姿に
も、その母の姿にも見えた。
 そしてその女性こそが、村上氏の妻ゆりであることがやがて観客の意識の中に浸透していく。
 映像に、また目の前に晒された崇高な絵に、圧倒され尽くして沈黙していた観客の中に、やがてまば
らに拍手が起こっていく。
 その拍手がやがて連鎖を起したように反応しあい、会場全体を埋め尽くすほどに広がっていく。
 それは想像以上の苦悩を耐え抜いた村上氏を賞賛するものであり、色や見る能力を失った人への希望
を作り出した時人への賛辞であり、沸き起こった感動への感謝の発露でもあった。
 成功だった。
 この時人を讃えるために開かれた会の最高潮は、最高の形で目の前に提示されていた。
 幸太郎は感動に背筋を震わせながら、隣りの時人の手をとり、村上氏とも握手を交わす。
 見下ろす会場を、光の洪水が埋め尽くしていた。
 着飾った美しい男女が自分たちに向って惜しみない賞賛を送ってくれている。
 最高の贅沢だった。
 幸太郎の中で何かが強烈な快感となって駆け抜けた。
「幸太郎」
 呼びかけられ、手を取り合った時人、村上氏が観客に向って頭を下げる。
 目が潤んでくるほどの快感の中で、幸太郎は最後の一仕事とマイクを握る。
「今日の宴に参加してくださった皆様。わずかではありますが、皆様をもてなすための食事が用意され
ています。立食形式ですので、存分にお楽しみください」
 再び頭を下げた幸太郎に、会場から再び拍手が送られ、ざわめきの中で会が終了する。
 この快感はなんだ?
 裾に引っ込んで自分の肩を握った幸太郎は、肩の荷がおりた安堵とともにイスに腰を下ろした。


井上幸太郎ノデータ3

最高ノ贅沢ヲ共ニ味ワエル存在

解析結果 ―― 井上幸太郎ガ好ム人間ハ

 煌ビヤカナ世界ヲ堪能サセテクレル人間


―― 愛ノ時限爆弾 ………… 起動




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