実験 6  何よりも大切なもの 




 ゆりさんに手を取られた時人が、驚きで目を見開く。だが取られた手を振り払うことはできなかった。
その手があまりに優しく、時人の手を包み込んだからだ。
 動揺に瞳を揺らす時人に、ゆりさんが笑う。
「お母さんのおっぱいに触れることが、そんなに恥ずかしいかしら?」
「お母さん?」
 ゆりさんの言葉が理解できずに、時人がその瞳を凝視し、それから背後の村上氏を振り返った。
 目のあった村上氏はまるで仏像のように達観した目で時人を黙って見るばかりで、何一つ語ってはく
れない。だがそこには、時人の全てを否定しない心積もりのようなものが感じられた。
 村上氏の全身が訴えかけていた。
 さぁ、他人に対して閉じてきた心の扉を開いて見ろ。自ら自分に課してきた鎖を解き放ってみろ。頑
なな心を解きほぐせ。解放しろ。
 圧力として体に感じる村上氏の思いに息を飲む。
 村上氏のこの世界から逃げ出すことは許されないのだと分かる空気。
 時人は改めて目の前のゆりさんを見下ろした。
 笑顔で自分を見上げるゆりさんは、その胸にある豊かな双丘を隠しもせずに、それが普通であるかの
ように鷹揚に座っている。
 ゆりさんが時人を受け入れるように、両手を開く。
 その動きで胸の膨らみが、弾むように揺れる。
 乳房の桜色の先端は、触れればきっと絹のような滑らかさなのだろうと時人に思わせた。
 だがそれを見つめる自分の中で、不思議とエロスはなかった。心の中でわきあがってきたのは、飢え
のように湧き上がる抱きしめてもらいたい衝動だった。自分のことを、何があろうと守って側にいれく
れる腕があること。自分を愛しく思ってくれる、決して失われることがないと分かる愛をくれる絆があ
ることを感じたい。
 そんな感情が自分の中にあることに時人は初めて気付き、そしてその感情をどう処理していいのか分
からなくなって身を震わせた。
 正体の分からないものへの恐怖。自分を自分で支えきれないことへの不安。
 だがそんな時人の溢れる思いごと抱きとめるように、ゆりさんが時人の手をぎゅっと力をこめて握っ
た。
「時人くん、目を瞑って」
 穏かに囁く声が、時人の混乱していた思考の間に流れ込む。
「さあ。自分という殻に捕らわれないで。君はまだ、卵の中から出る方法がわからずに迷っているだけ
なのだから。外の世界への不安で殻の中から覗き込んでは、ますます殻を破る方法を見失ってしまった
のだから」
 縋るように見たゆりさんに頷かれ、時人は震えるまぶたをゆっくりと警戒しながら閉じる。
 暗闇の自分の中の世界と向き合う。感じるのは自分の鼓動と、手を握ってくれるゆりさんの温かさ。
 今の自分を見ているのだろう、村上氏と幸太郎の存在もあるのだろうが、次第に二人への意識が薄ら
いでいく。
 ただ闇の中で蹲っている自分を感じるだけだった。
「今時人くんが見ているのは、とてもとても小さかったときの時人くん。お母さんのおなかの中にいた
赤ちゃんの時人くん」
 ゆりさんの誘導で、目の前のうずくまっていた自分の姿が身を丸く縮めて眠る胎児の自分に変わる。
親指を吸って眠る自分がうっすらとほほえむ。
「胎児の時人くんはどんな感じ?」
「………眠ってる。寝てるのに笑ってる」
 目の前の自分が身じろぎする。へその緒が見える。そして自分のいる世界を覆う脈動する水音が聞こ
える。
「時人くんと片時も離れることなく愛情を注いでくれるお母さんを感じているから、赤ちゃんはいつも
幸せの中でいるのよ。時人くんもそう」
 まるで温かい毛布に包まれているまどろみの中にいる幸福感が押しよせる。しかもその毛布ごと抱き
寄せてくれる腕があるのを感じる。
 この感覚はなんだ?
 時人が次に見たのは、生まれ落ちた自分が何重にもなったおくるみの中で眠る姿だった。そして世界
一大事な宝物のように腕に抱いている女がいる。
 顔が見えない。母親だろう女の顔が見えない。どんなに目を凝らそうとも見ることができない。
 今までに何度も夢の中で見てきた映像だった。子どもの頃はよく見たものだった。記憶にない母親や
父親を捜して歩き回って泣き続け、最後に誰もいない自分が拾われた境内にやってくる夢だ。
 ぼくはみんなに嫌われているのに生まれてしまったんだ。だからママにも捨てられた。パパもいない。
 神社の中で生まれた野良猫の子猫が、転がるように走り回り、転んで地面を転がる。そして痛いと訴
えてミーミーと鳴く声に母ネコがのっそりと現れる。
 じっと涙を流しすぎて腫れた目でみる時人を、母ネコが立ち止まって見つめる。
 スッと細められた目が何をいうでもなく反らされ、子猫を咥えると歩き去っていく。
 あんな子猫にも、守ってくれる親がいるのに………。
 だが、いつもはただうちひしがれて、そんな自分の感情すら無いがごとく無視するくせをつけていた
時人の内に、いつもとは違う感情が渦巻いていた。
 ぼくにも、おなかの中で抱いて育ててくれたママがいるんだ。大事な宝物として抱いてくれたママが
いるんだ。
 ぎゅっと手を握った幼い時人は、隣りに立った一人の人影に顔を上げる。
 同じ目線でしゃがみ込んだ髪の長い女が、時人の微笑みかけ、握り締めた手を上から覆って手をつな
ぐ。
 そして髪を、愛しい我が子を見る目でみつめながら撫でてくれる。
 ぎゅっと唇を噛みしめた顔を覗き込む女の顔は、ゆりさんだった。
 ハッと目をあけた時人は、頬を伝い下りる涙の雫を感じながら、今の大人の視点でゆりさんを見下ろ
した。
 目を閉じて見ていた自分の世界と同じように、ゆりさんがぎゅっと握り締めた両手の拳を両手で包み
込むように握り、溢れる感情に唇を噛みしめる時人を慈愛の微笑みで見上げている。
「迎えにいくのが遅れてごめんね。あなたはわたしと村上が昔にどこかで無くしてしまった息子。わた
しがこの胸に抱いて育ててあげたいと願っていた赤ちゃん」
「……お母さん?」
 ゆりさんが目尻に涙を溜めながら微笑む。
「そう。時人くんのお母さんにならせて」
 ゆりさんがそう言うと、握っていた時人の手を自分の方へと引いた。
 導かれるままに時人がゆりさんの前に膝をつき、近づく。
 ゆりさんの両手の腕に抱き寄せられる。
 ゆりさんの膝に頭を預け、頬にゆりさんの柔らかな乳房の温かみを感じる。
 その瞬間、時人の中で何かが弾けた。
 堪えていた嗚咽が口から漏れ始め、涙が溢れ出す。
 子どもの頃から求めていて止まなかったものが何だったのか今わかった。それは自分を大切に抱きし
めてくれる手。誰にも断ち切れない絆。
 もう子どものころのように、そんなものは世界には存在しないと自分に言い聞かせて世界から目をそ
らす自分はいない。
 母猫に甘える子猫に羨望の目を向ける自分に、ちゃんと待っている人がいるよといってあげられる自
分がいる。
 時人は子どものように声を上げると泣いた。
 その姿は、迷子の自分を見つけてくれた母親に安心して泣き出す子どものようであった。


「時人、寝ちゃいましたね」
 初めての感情の発露で疲労したのか、ゆりさんの膝に抱きついたまま寝てしまった時人を、幸太郎が
そっと抱き上げると肩に背負う。
「ああ、涙とヨダレでグッチャリだ」
 横から覗き込んだ村上氏が、ゆりさんのスカートを見て苦笑して言う。
「いいじゃない。赤ちゃんはヨダレ垂れ流しで眠ったり、おぶっている背中で吐いちゃったりするもの
よ」
 ゆりさんが幸せそうな明るい笑みで言って立ち上がる。
 幸太郎は担ぎ上げても起きる様子のない時人を見ながら言う。
「なんででかい赤ちゃんだ」
 眠る時人の頭の向こうに、色の入り始めた村上氏の絵があった。
 そこには生まれた我が子を抱き、乳を与えるゆりさんの笑顔が描かれていた。
 乳を口に含んでいる小さな赤子は、決して自分から去ることがない愛情を確信しながら、その大きな
黒い瞳で母親をじっと見つめていた。
「これが息子か」
 村上氏が幸太郎の背中にある時人の顔を覗き込んで言う。
 複雑なような、嬉しいような微苦笑を浮かべて時人を眺める。
 その村上氏が、一瞬眉を顰めて目を閉じると頭を振る。
「どうしたの、あなた?」
 バスローブを羽織ったゆりさんが村上氏の変化に気付いて声をかける。
 村上氏がゆっくりと目をあける。そして自分の手を見下ろし、それから時人の顔をじっと見つめる。
「……あ〜あ、瞼が真っ赤に腫れてるな」
 その言葉にゆりさんが口に手を当てる。
「あなた、色が………」
 幸太郎も肩越しに村上氏を見つめて目を見開く。
「ああ。見える」
 村上氏が、時人の眠る頬に手を当て、微笑んでいた。


上条時人ノデータ3

ユリサン ―― 優シク包ンデクレル、温カイ腕ヲ差シノベテクレル女性

解析結果 ―― 上条時人ガ好ム人間ハ

 押シ付ケデハナク、自分ニ優シク触レテクレル人間


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