実験 6  何よりも大切なもの 




 緊張の面持ちで村上氏のアトリエの中に入る。
「おはようございま〜す」
 先を行く幸太郎の能天気な挨拶の声が羨ましい。なぜにそんなに平常心でいられるのだろう。これか
ら立ち会うのは村上氏とゆりさんの悲願とも言うべき絵を描く場であり、自分も関係者である実験の成
果が問われる場であるのだ。
 そのうえゆりさんのヌードだというのだから、平常心を保てる方がおかしい。
「し、失礼します」
 俯き加減にアトリエに足を踏む入れた時人は、どこにゆりさんが裸でいるのか分からないと伏せ目で
幸太郎の背中を探す。
 だが聞こえたのはあまりに長閑な笑い声。
「この人ったら珍しいこともあるのね、緊張して昨日の夜何回トイレに起きたかしら?」
「へぇ〜、村上先生でも緊張することなんてあるんですか?」
「おい、人を無神経みたいにいうな。俺は繊細な芸術家だぞ。うまく色を描き出せるか考えただけで自
分の才能を疑わしく思う気持ちで絶望したくなるし、ゆりだってきれいに描いてやりたいし」
「あら、わたしならいつだってキレイだから、あなたが気にしなくてもキレイに描けるわよ」
「そうですよ。それにこの前の実験のときの絵だってすごい素敵でしたよ」
「そ、そうか? やっぱ俺って天才?」
「うんうん。天才」
 ガウンを羽織ったゆりさんが村上氏の肩に手を置き、子どものように両手でやる気ポーズをとる村上氏
を、幸太郎がうまく口車にのせた満足顔で頷いている。
 なんだ。まだゆりさん裸じゃなかったんだ。
 一気にホッとした時人が、足を踏み出した瞬間だった。
 ゆりさんの肩からガウンがハラリと落ち、白い肌の胸元までが露わになる。
「そろそろ始めるでしょう?」
 なんとも軽やかなゆりさんの声を聞きながら、時人が後退さる。
「うっ………」
 僅かに出たうめき声に幸太郎が時人の存在を思い出して振り返る。
 だが振り返った幸太郎の顔が笑みから驚きへと変わり、再び揶揄の笑みに戻る。
「時人……」
 三人の視線に晒されて立ち尽くした時人の横まで歩いてきた幸太郎が、ポケットからハンカチを取り
出して時人に差し出す。
「何?」
 警戒心バリバリで聞き返した時人に、幸太郎がかわいそうな子を見る目で苦笑いする。
「気付いてない? 鼻血」
「え?」
 慌てて手で鼻を押さえた時人の手に、血の感触が伝う。
「ほら」
 その手の中にハンカチを押し込まれ、時人は恥ずかしげに俯きながらそのハンカチを使わせてもらう。
「おまえの裸もまだまだ色香漂うらしいな」
「ほんと、嬉しいわ」
 無邪気に手を取り合って喜んでいる村上夫妻が、唯一の救いであった。


「天才坊や、おまえが俺に色を教えてくれ」
 頭に装置を装着した村上氏が下書きしたキャンバスの前で時人に命じる。
「え? ぼくが?」
「そうだ」
 すでにそれは村上氏の中で固まっていた決意のようで、迷い一つなく言い切る。
 目を瞑った村上氏の頭の中に、下書きしたゆりさんの絵が甦っているのだろう。だが、それはまだモ
ノクロのままなのだ。
「でも、ぼくより幸太郎の方が芸術的な分野は強いはずだから」
 村上氏への装置のセッティングをしながら、時人が幸太郎を見やる。
 自分の名前をあげられた幸太郎が手にしていた色の名前を記した一覧から顔を上げ、我関せずの顔で
肩をすくめる。
「そうかもしれんが、今回は坊やがやらなければならないんだ。幸太郎ではなく」
 目を瞑ったままの村上氏が頑固親父のような表情と口調で、変更はいっさい認めない雰囲気で言う。
 どうしてそんなにぼくにこだわるんだ?
 不可解な思いのままに、村上氏への装置装着の最終点検に入る。
 天才画家が緊張して寝れなくなるくらいに大事な絵なのだとしたら、より完璧な体勢でバックアップ
できるように専門家でなくとも、ぼくよりも的確な表現ができる幸太郎を使えばいいのに。ここにいる
んだし。
 村上氏の本意が理解できない時人は、憮然とした顔で村上氏と幸太郎を交互に見やる。
 だが両氏時人のために動いてくれる気がさらさらなさそうだ。
「時人君」
 そんな時人の気持ちを察してか、背後からゆりさんが声をかけてくる。
 振り返ろうとした時人の体が錆びたブリキのように強張る。
 時人の視界にゆりさんの白い肩とその下にかすかに胸のふくらみが見えたからだ。
「そんなに恥ずかしがらないで。ね?」
 いつものままの朗らかなゆりさんの声に、いつまでも一人平常心をもてないことがバカらしくなり、
思い切ってゆりさんを正面から見た時人に、ゆりさんが微笑む。
 確かに上半身は裸で胸も露わではあったが、下にはバレリーナの衣装に似た長いふわりとした白いス
カートを履いていて、そこから伸びた素足の足は色気よりも今にも駆け出しそうな少女の喜びに溢れた
雰囲気をもっていた。
「今回のこの絵はね、どうしても時人に手伝ってもらいたいの。これは夫の意思でもあり、わたしの意
志でもあるから。時人くんでなくてはダメなの」
「ぼくでないと?」
「そう。村上と、わたしと時人くんの三人で描き上げるから意味があるの」
 意味深に微笑まれ、時人が幸太郎を振り返れば、手にしていた色表を差し出される。
 それを受け取りながら、時人は不安げに幸太郎を見上げた。
「ぼくにできるのか?」
 初めて見る自信のない顔に、幸太郎が弟を慰めるように頭を撫でる。
「おまえの感性が村上氏の絵を作りあげるんだ。おまえの感性が求められてる。あの親父がそれを見抜
いたんだ。自信持て」
「……うん」
 様々な色が微妙な変化で並ぶ色表を見下ろして頷いた時人だったが、決意を固めて顔を上げると、い
つもの不敵な笑みを眼鏡の下の黒い目に浮かべて見せる。
 そして幸太郎を見上げると口の端に歪んだ笑みを見せる。
「ぼくは天才だ。だから気安く頭なんで撫でるな!」
「はいはい。その方がらしいな」
 腫れ物に触れたように手をどけた幸太郎に、時人がフンと鼻を鳴らす。
 いつまでもビクビクして逃げているわけにはいかない。出逢ったことのない新しいフィールド勝負な
ら、真っ向受けて立ってやる。
 自分でもなんだか燃やす闘志が間違った方向にある気もしたが、時人は自分を奮い立たせると村上氏
の隣りのイスに座った。


 まずは村上氏が頭の中のキャンバスに色をのせていく作業だった。
「えっと全体の肌の色は、………肌色で………鎖骨の下の影は香色」
 ゆりさんと色表に首っ丈で必死で色の名を口にする時人に、最初のうちは黙って頷いていた村上氏も、
次第に眉間の皺を深くする。
 その顔色に気付いた時人が、ますます焦った様子で色表をめくる。
 穏かにスタートしたはずのアトリエの中の雰囲気は、一気に緊張の度合いを深め、時人の額に冷や汗
を浮かべさせた。
「で、胸は肌色で乳輪が薄紅」
 声にも焦りの色が如実だった。
 村上氏は大きくため息をつくと、目をあけて時人の手から色表を取上げた。
「こんなものに頼るからいかんのだ!」
 ラミネートされていた色表を真っ二つにへし折り、背後に放り投げた村上氏が時人の顔を掴む。
「おまえに色の感性がないことなんて百も承知だ。俺をバカにするな。その表にある色くらい脳内では
すでに再現済みだ。自分で選別くらいできる。おまえに必要なのは感情だ。ゆりを見てどう思うか、ど
う感じるか。どうあって欲しいか。自分との距離をどう取りたいのか。その気持ちを素直に表現しろ」
「感情を表現……?」
 まっすぐに目の奥を見通すような村上氏の目に、時人の目が揺れる。
 時人にも感情はある。だがそれを人に晒すことなど今まで避けて通ってきたくらいで、進んで胸の内
を見せることなどなかった。時人にとってそれは、裸を人目にさらすこと以上に恥ずかしいことであっ
た。
 そして同時に、感情を隠すことが時人がここまで生きてくる中で身につけてきた処世術だといっても
よかった。周囲と同時に自分をも騙すために。
 だが今はその自らに課した枷が邪魔になって先が見えなかった。
 ゆりさんを見てどう思うかを表現しろって、どうあって欲しいかなんて気持ちがあるわけないじゃな
いか。
 対処のしようのない要求に、困惑と同時に苛立ちさえ湧き上がる。
 村上氏は時人の顔から手を離すと再び目を瞑る。そして顎でゆりさんを示す。
「ゆりの横へ行け」
 言われたままに時人はゆりさんの横に立つと、困惑の目でゆりさんを見下ろした。
 イスの上のゆりさんは、助けを求める時人の目に柔らかい笑みを見えるとその手を握った。
「大丈夫よ。さあ、わたしの胸に触れてみて」


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