実験 6  何よりも大切なもの 





 大学内で行われた会合での脳神経外科の医師による説明によれば、人間の色彩を感じる能力というの
は非常に難解であり、完全に解明されたことではないということだった。
「人は眼でものを見ていると感じているけれど、眼は実際にはただのレンズとスクリーンであり、見て
いるものを知覚し、それを映像として見せているのは脳なんだ」
 長く続いた会合に疲労を浮かべた時人を、幸太郎が気分転換でもどうだ? と連れた出したのが、前
にチカに連れられてきた山の畑だった。
「大自然のマイナスイオンの偉大さで、天才の疲れた脳を癒してくれよ」
 ふざけた調子でクーラーでひんやりと冷されたビニールハウスへと時人を誘い、冷蔵庫から巨大なト
マトを取り出して放り投げる。
 それを広げた広告の上で汁をたらしながら豪快にかぶりつき、今日の会合の要点を幸太郎に説明する。
「ふ〜ん。当たり前にこうして真っ赤なトマトを眺めてるけど、頭の中ではいろんな処理が瞬時にされ
てるってことか」
「そういうことだ。なかなかいい反応ではないか」
 零れ落ちそうになっていたトマトの種を吸いながら、時人が言う。
「これでも一応、裏口じゃなくてちゃんと受験勉強して大学入ったんだから。理解できるよ、そのぐら
い。眼球だって脳の発達段階で誘導されて変化したものなんだろ」
 唯一おもしろいと思って記憶していた生物学の知識を披露すれば、ほうと見下げた視線ながら感心し
たように時人が頷く。
「そうだ。人間の見るという感覚を作りあげているのは脳だ。つまり、村上氏の色覚異常の原因も大脳
内側連合野にあると見られる。だが、その見るという行為も、脳においてはさらに分化され、光を感知
する行為、奥行を感知する行為、色を感知する行為と、脳の特定の部位によって作用が違う。その部位
が完全には特定されていないらしい」
「へぇ〜」
 小難しい話を、さらに不親切に小難しく感じる口調で語っているのだが、それでも幸太郎は飽きた様
子もなく耳を傾けている。
「そりゃ、村上先生の望みを叶えるのも難しいってことだろう」
「かなりな。それに色ってのは色の波長を神経が感じとった結果、極彩色に見えているわけではないん
だっていうんだ。これは天才のぼくでも初耳だった。色は脳が組み立てているんだっていうんだ」
「組み立て?」
 きょとんとした顔でパイプイスを揺らして座っていた幸太郎が動きを止める。
「ある実験があるんだ。白黒で撮られた写真をダブルレンズのプロジェクターで写すんだ。片方のレン
ズには赤いフィルターを。もう片方は自然のままの白色光のレンズ。これを同時にプロジェクターに映
すと、どんな映像になると思う?」
 新たに仕入れた知識に興奮の色を見せる時人の語りに肩をすくめながらも、幸太郎が答える。
「さあ。でも普通に考えれば赤と白で全体にピンク色になるんじゃないのか?」
 時人がその答えにニヤリと笑う。
「普通はそう感じる。でも、今日実際に見せてもらったんだ。赤いレンズだけだと、白い部分が赤く、
黒い部分が黒く写る。それが、そこに白色の光を当てた瞬間、色が生まれたんだ。女性の金色の髪。青
い瞳、服の襟の緑、赤いチューリップ。そして全く自然な肌色」
「は? なんで? だってそこにあるはずの色は、黒、白、赤の三色だけのはずだろ」
 幸太郎も身を乗り出して時人に言う。
「そうだ。だから、脳が見たものから色を組み立てたんだ。脳内の視覚野では第一領域で光を感知し、
色を感知する高度な脳の第四領域へと伝達され、処理された物をぼくたちは見ている。その処理の間に
色が組み立てられるんだ」
「……じゃあ、もしかして俺が見ているこのトマトの赤と、時人が見ている赤は、違う色である可能性
もあるってことか?」
「そうだな。少しづつ色の感知の仕方が違うかもしれないな。いつも自分が赤だと感じているものを、
皆が赤だというから、これが赤だと思っている。が、もしかしたら違うかもしれない」
「考えれば考えるほど混乱しそう」
 お手上げと実際に手を上げて見せた幸太郎に、時人が珍しい穏かな笑みを浮かべてみせる。
「人間みたいな能力をもったロボットを作りたいと思ってみても、見るという能力一つとっても人間は
あまりに緻密で、奥が深い」
 いつも自ら天才といって憚らない時人の、初めて見せる弱音のような言葉だった。
 時人ははぁとため息を吐くと、広告を丸めて片付けをはじめる。
「村上先生の望みは叶うのかな?」
 幸太郎も時人に習って片付けをはじめながら言う。
「どうかな。医療チームが村上氏の脳内のどこにどんな刺激を送れば色が一時的にでも戻るのか実験を
重ねるだろう。そのデーターが完成しだい、ぼくがその装置を作成するってことになるんだろうな」
「先が見えない話だ」
 幸太郎は時人の手から広告を丸めたゴミを受け取ると、チカに教わっていたゴミ捨て場に捨てに出て
行く。
 ビニールハウスのクーラーが効いた環境から一歩外に出れば、すでに山を朱色に染める太陽が傾き、
無数のトンボが飛び交っている時間だというのに蒸し暑い。
 トンボに秋の気配を感じながら、夏の盛りを思わせる蝉の大合唱も同時に楽しめる山の畑。
 その一画にできた堆肥を作るための山にトマトの残骸だけを投げ捨てる。
 空には青から紫、赤へと見事なグラデーションを描くパノラマが広がり、その下では幾通りもの緑色
が風に揺れて斜面全体を覆っている。
 風にさえ色が感じられる。
 この癒しをもたらす自然の色から隔絶された不気味な世界で、村上氏は生きているのだ。
「彼は、なぜゆりさんを描きたいのだろう?」
 不意に湧き上がった疑問が時人の口をついて出た。
 他人になど関心はなかったはずだと自分でも思うのだが、このところ意図せず多くの人と接触し、そ
れぞれの人が背負ういろいろな人生や思いに触れたせいか、敏感になった感性が疑問を投げかける。
 振り向いた幸太郎が、「う〜ん」と唸りながら苦笑いする。
「俺は知ってるんだけど、おまえは聞きたくない手の話だと思うぞ」
「は? ぼくが聞きたくない話?」
 幸太郎の言いたいことが分からずに首を傾げる時人に、困った顔で頭を掻く。
「村上先生が言ってただろう。妊娠して息子を胎に宿していたときのゆりさんが美しかったって。おな
じように、村上先生が何よりも美しいと感じるのが、自分に抱かれた後の幸福感の中を漂っている眠り
についたときのゆりさんの顔なんだってさ」
 たしかにぼくの嫌いな話だと口を閉ざす。
 そんな様子に、幸太郎はますます困った顔で微笑み、車に向って歩き始める。
「別にバカにして言ってるわけじゃないって分かって欲しいんだけど。おまえは童貞だろ?」
 車の屋根越しに見つめられ、答えたくないとばかりに目をそらせば、幸太郎が別に答えなくても結構
と手をあげる。
「人それぞれだと思うけど、SEXって快感のためだけにあるものじゃないと思うんだ。それじゃ、た
だ男と女で奪い合うだけの行為だ。でも、そんなことも愛している相手との慈しみ合う行為の経験がな
ければ分からないんだ」
「おまえにはその経験があると?」
 つい挑戦的な声色で睨みつけて言えば、幸太郎が誤魔化すように肩をすくめる。
「俺は、ない。全部村上先生の受け売り。いつかそんな相手に出会えたらって思うけどね」
 幸太郎は今までに見たこともないくらいに真面目な顔で言って車に乗り込んでしまう。
 性行為は子孫の存続のための重要な行為であり、方法もDNAという貴重なデーターを残さずに伝え
る非常に効率的な方法だと理解している。そこに快感があるのは、全て種の保存のためだ。本来生物が
他と接触することには危険が伴う。野生動物を見ればよくわかる。サバンナで出会ったオスとメス。繁
殖期でなければテリトリーを侵さない。殺されても文句はいえない。
 それは本来人間とて同じなのだ。だが、そこに快感があるからこそ、危険さえ犯す。
 だから性行為も科学的見地からすれば、すぐれた計算の上でなりたっているのだ。すばらしいと賞賛
さえしてやりたい。
 そうは思っても、心の中で不潔だと忌避する気持ちが拭えない。
 幸太郎の車の助手席に乗り込みながら、時人が窓の外の景色に目を向ける。
「ぼくは、おまえの取り巻きの女たちが言うみたいに、欠陥品なのかな? 16の男としてまともな性
衝動もない」
 車の窓に映った幸太郎の目が、自分を見ているのを感じながら、時人はあえて振り向かなかった。
「村上先生のところに行ってみれば? 俺よりもよっぽどまともな答えが聞けると思うし」
 幸太郎がハンドルを操りながら言う。
 それに頷くでも相槌をうつでもなく、時人は窓の外を眺め続けた。
「でもさ、肉体的にはちゃんと男の機能あるんだろ?」
 幸太郎がさも重要だぞという顔つきで窓の中の時人の顔に問いかける。
「男の機能?」
「夢精はするだろ?」
 なんでそんなことに答えなきゃならない!
 時人は最大限の不快を示して、窓の中の幸太郎の顔に拳を打ちつけた。




参考文献:「火星の人類学者」早川書房 オリヴァー・サックス著

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