実験 6  何よりも大切なもの 



《時人編 V》
 一軒の瀟洒な邸宅の前に立つ。  真っ白に塗られた壁はヨーロッパの海沿いに立つカラフルな家のように、原色の花々で飾られていた。  大きな家の緑溢れる芝生の庭の中央を貫く美しいタイルの小道の向こうには、家とは別の小ぶりな建 物がある。 「あれがアトリエだろうな」  時人の隣に立った幸太郎が、ジャケットのポケットにサングラスをしまいながら言う。  そんな何気ない仕草までも、人の目を惹き付けてやまない洗練された所作に見える。  それがまた気に食わないと、時人は仏頂面で眺めながら思う。 「どうしておまえが一緒に来るんだ」 「だっておまえを紹介して欲しいって頼まれたのは、俺だし。仲人さんがお見合いすっぽかして、さあ、 どうぞってわけにはいかないだろ?」  俺だって来たくて来てる訳じゃないのよという口ぶりだが、その割りに顔は何かを期待した様子でに やにやと笑みを浮かべている。 「今回の紹介者ってのは画家なんだろ?」 「そう。結構売れてる画家さんなんだけどね。例の問題が発生しちゃったわけ」 「事故で色を失った」 「そう。画家には致命的。で、もう一度色を取り戻すためのプロジェクトに参加しないかというお誘い を受けたわけ」 「お誘いを受けたのは、幸太郎、おまえなんだろう?」  邸宅の門柱の前で話す二人を内部の人間が認めたらしく、音もなく幸太郎の背も優に越す高さの門が 開いていく。  その門の内部へと腰を追ってお先にどうぞと促がした幸太郎に、時人は部下を従える上司のような気 分で先を歩く。 「プロジェクトへの参加は、もちろん時人さまのみ。俺に話がきたのは、俺の親父がプロジェクトへの 出資をしているからで、時人を誘うためのパイプ役に抜擢されたのみ。俺の使い道なんてそんなもんで すから」  自嘲でも諦めでもなく、自分の力の限界はわきまえた謙虚さで、幸太郎が言う。 「で、今日はその画家先生との面通し」  玄関前にたどり着いた時人と幸太郎を待ちわびたがごとくのタイミングで、大きな生花のリースが飾 られた扉が大きく開け放たれ、大柄な薄い色の入ったサングラスをかけた男が進み出る。  そして外人のノリで大きく両手を広げると、力強く時人をハグして抱きしめた。 「ああ、よく来てくれた。若者との新たな出会いほど楽しいことはないからな」  筋肉質で量感のある腕から解放された時人は、衝撃にグラリと揺れた脳に反応ひとつ返せずにいたが、 そんなことは気にせず画家は幸太郎をガシっと音を立てて抱きしめる。 「幸太郎君も、相変わらずいい男で羨ましい。近づいてくる女は引きもきらずだろう。だが男たるもの、 グルメでなくてはならないぞ」  画家先生はそう言うと、ガハハハと笑い声を上げた。  だが次の瞬間には、「イテ」と声を上げて後頭部を摩る。 「若い子が来るといつもこれなんだから。品性を持っていただかないと」  その声に初めて、この家のもう一人の主人、画家の妻が立っているのに気付く。  50代も後半になるのだろうと思わせる白髪の、だが今でも十分に美しい小柄の婦人がそこに立って いた。 「ようこそ御出でくださいました。画家、村上秀太郎の妻、ゆりでございます」  まさしく凛と立つユリの花のような女性であった。  婦人が運んできてくれた紅茶の器が立てるカチャカチャという音を聞きながら、目の前の画家、村上 のサングラスの下の目を見つめた。  よく動く、時には目を細めて物事の真髄を見抜こうとするかのような鋭い視線を投げかけてくる目。 「家の中でもサングラスを?」  特に眩しくもない部屋の中でもサングラスを外さない村上に、時人が尋ねた。 「ああ、普通の視力であれば問題なんだろうがね。わたしには昼間の太陽の光が差し込む部屋は白光に 包まれてしまって、物の見分けがつかないんだ。だから、このサングラスは必需品」  村上が格好をつけてフレームを持ち上げて見せる。  なぜこんな適度な光量でもホワイトアウトしてしまうのかは分からなかったが、それが今回のプロジ ェクトに関する障害なのだろうと思い、時人が頷いた。  応接間は片隅に大きなグランドピアノが置かれ、それだけで一枚の絵画になってしまいそうなほど美 しく飾られたカサブランカの花をその上に載せていた。 「ピアノはわたしがお嫁に来るときに持ち込んだのよ。でもこの頃はすっかり花瓶台になってしまって、 ピアノに申し訳ないわね」  ゆり婦人が鈴がなるように笑うと、村上の隣りに腰を下ろす。  おっとりとした動作ながら、聡明さが光る瞳で微笑まれ、時人はどうしていいのか分からずに目をそ らす。  が、その視界に入った絵に気付いて目を見張った。  婦人の背後の壁にかかった油絵。  今目にしたピアノを背に、裸の女性が膝を抱えて床に座っている。  色鮮やかな赤いユリの花を胸に抱えた裸婦は、明らかに目の前の女性の若かりし日の姿であった。  豊かな胸の中心には、薔薇色の乳首が丁寧に描き込まれ、滑らかなふくらみを示す下腹部は滑らかな ミルク色だった。 「あ、気付いたか? あれ、ゆりさん。きれいだよな」  幸太郎のコメントに、時人がぎょっとして背中に力をこめて立ち上がりそうになるのを抑える。  よりにもよって、目の前に裸婦のモデルその人がいるのに、どんな顔を向ければいいのかわからない ではないか。  顔がカッと熱くなるのを自覚して伏せ、そっと上目遣いに幸太郎を見れば、当然の褒め言葉を述べた だけという顔でニコニコと婦人と笑みの交わしている。 「本当に自分の妻の裸を、あえて応接室に飾るなんて悪趣味よね。でもね、この絵だけはわたし気に入 っているの。とても思い出深い絵だから」  婦人は後ろを振り返って絵を見上げると、時人に向って言った。 「あの絵のわたしのお腹が少し大きいのが分かるかしら?」  そう言われれば絵を見るしかない。もう一度恐る恐る絵を見つめ、指摘のあった裸婦の腹に視線を向 ける。  ユリの花の緑の瑞々しい茎の下で、体のラインが細いわりに柔らかなふくらみを示す下腹部がある。 「このときね、わたしこのお腹の中に子どもを身篭っていたの。男の子だったわよね」  後の問いかけは隣りで紅茶をすする夫に向けられたものだった。 「ああ。おまえによく似た男の子だったよ」  だがその二人の会話が、生まれた愛しい息子を語るにしては温度が低いことに気付いて時人はじっと 二人を観察した。  この部屋にはたくさんの絵や写真が飾られているが、一枚として子どもを抱いた姿や、子どもの遊ぶ 姿を描いたものはない。 「村上先生のところには、お子さんは……」  事情を知るであろう幸太郎が、申し訳なさそうに確認の言葉を口にする。 「ああ、いない。わたしは息子をこの手に抱くことができた。けれど、その息子は息をしていなかった な」 「流産だったの。わたしは息子の姿を見せてもらえなかった。陣痛の末に生んだ子どもなのに。だから、 わたしが息子を目にできるのは、この絵だけなの」  悲しい過去なのだろうが、どこか愛しい過去のように穏かに語る顔が時人には印象的だった。  彼女の裸婦画は、裸婦画であって、息子を描いた家族の肖像だったのだ。 「あの日の君は本当に美しかった。もともとキレイな人だったけれど、命を体に宿してからの輝く表情 は忘れられない」  村上は隣りにある婦人の手を握ると、手の甲を眺めながら撫でた。 「今もわたしはこうして妻の手に触れることができる。妻を思う気持ちは以前と少しも変わらない。だ けど悲しいのだ。わたしの目には、彼女の肌はコンクリートのような硬質なグレーにしか見えない。触 れば柔らかい。だが目で見たものを脳は優先して処理するのだろうか。以前よりも無機質な物体を触れ ているような気持ちになる。まるで、マネキンの肌を撫でているような気持ちになる」 「目を閉じても?」  幸太郎の言葉に目を閉じて婦人の手を撫でる村上氏が、分かりきっていたことの確認をすると悲しく 頷く。 「目で色を認識できないだけじゃないんだ。頭の中から色が消えてしまったんだ」  村上氏の頭から色を消してしまったのは、ちょっとした衝突事故だった。  大きな怪我は何一つ負わなかったというのだ。ただハンドルに頭を打ちつけて、額の一部から出血し た。ただそれだけだった。  だから村上氏も特に気にした風もなく、事故の処理を保険屋に頼むと自身はそのまま家に車を運転し て帰り、眠ってしまったのだ。  だが翌朝目を覚まして気がつくと、世界は全て黒と白、そしてグレーだけで構成されていたのだ。 「色の名前は覚えているよ。空を書けといわれれば、色の名前から青や白を手にすることができる。だ が、見えていないのだから、描きようがない。見上げた空は薄いグレーと白い陰一つない雲だけなのだ から」  村上氏のアトリエに移ってから見せられたのは、黒と白だけで表現された朝焼けの圧倒的な迫力をも つ絵だった。 「山の向こうから登ってくる太陽が、真っ黒に見えたんだ。黒い太陽だ。夢中でスケッチしたよ」  事故に会ってからの彼が描いた作品は、圧倒的に静物に偏っていた。  以前の色鮮やかな絵には、人物画が多く、裸婦も多い。 「どうして人間は描かなくなったんですか?」  隣りに立って一緒に絵を眺める幸太郎が、気に入った裸婦画があったのか、引っ張り出して目の前に 翳しながら言う。 「全身がグレーでやや影で黒く見えるだけの体は、気持ちが悪いんだ」  そう言って幸太郎を見て村上が笑う。 「性欲がなくなったわけじゃないんだがね。女は抱けないな。なんだか人形を抱いている気分になって 勃たん」 「それはご愁傷さまです」  男同士の気兼ねない発言だったが、免疫のない時人は不覚にも苦々しく眉を顰めているのを村上に見 られてしまう。  それを眉を上げて観察してくる村上に、時人は居心地悪く目をそらす。 「あなたの絵は、今のままでも十分にすばらしい。新たな世界が広がったといってもいい。もちろん、 生活全般では不自由も多いでしょうが、画家としては、色を失ったことで得たものもあるのではないで すか?」  多少辛らつな物言いではあったが、時人は心に思ったままに言った。  寸分の狂いもなく完全なリアリズムで描かれた絵は、芸術に造詣のない自分にも訴えかけてくるもの があったからだ。 「ふむ。君の言うとおりだ。車を運転しても、わたしにはもう赤信号がついているのか、青信号なのか も見分けられない。黄色が辛うじて幾分白っぽいという判断で見分けられるが、あとは完全な黒だ。生 活面での苦労は他にもある。食べ物がうまくない。不思議なことだがね、色も味覚の一部だということ だ。白や黒だけの食べ物は、うまくない。  だが芸術家の立場でものを言えば、わたしはかけがえのない世界を手に入れた。手離したくないと思 うほどの新世界だ」 「ならなぜ?」  憎らしいほどの冷静な男の目で微笑んだ村上が言った。 「ゆりをもう一度描きたいんだ。約束通りに」

参考文献:「火星の人類学者」早川書房 オリヴァー・サックス著

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