実験5 伸ばした手を、どうか振り払わないで




「すごい、すごいです、上条さん、尊敬します!」
 はしゃいだ様に跳ね回るパメラの姿を手で追いながら、チカの弟、孝巳が赤い顔で言う。
「本当よね。こんなかわいいわんちゃん作れちゃうなんて、上条さんって本当に天才です」
「うん。それにぼくのためにこんなところまで来てくれるなんて、優しい人です。感謝します」
 チカと孝巳の二人で時人のことを盛んに褒め、その眼に憧れの人を見るような潤みさえみせている。
「上条さん、ぼくと握手してください」
「握手? うん、いいけど」
 そしていつもは仏頂面しかしない時人も、心なしか気分が良さそうに照れた笑みを浮かべている。
 そして目が見えない孝巳の宙に浮いた手を自ら掴み、力強く握る。
 気に入らない。
 病室の入り口で一人取り残された感の否めない幸太郎は、笑顔だけは浮かべていたが、三人の輪の中
に入れずに立ち尽くしていた。
 なんだよ、チカちゃんも弟君も時人ばっかに羨望の目を向けちゃって。だいたい、ぼくがチカちゃん
を選んであげたから、こうして時人とパメラも出張してくれてるのであって、ぼくにだって感謝してく
れたっていいじゃないか。
 別に感謝を強要しているわけじゃないよ。でも、これってあんまりじゃない? まるで空気人間の気
分。いじめられた経験はないけれど、シカトされるってこんな感じ? ってくらいに疎外感感じちゃっ
てるんですけど。
 笑顔の下でしこたま不満をぶちまけていた幸太郎だったが、眼球はあらぬ方に向けたままのチカの弟
の顔が自分の方に向いているのに気づいて、胸の内の不満を飲み込んだ。
 厚い眼鏡を掛けているが、ほとんど見えていないだろうという目の動きだった。
 チカに似た活発な男の子の雰囲気は持っていたが、同時にいろいろなことを諦め、ガマンすることを
学んできた大人の雰囲気も備えた少年だった。
 見えてはいない目だけに、自分に向けられた五感の全てを総動員して探られる感覚に、心の内まで見
透かされている気がしてきて、貼り付けていた笑みが強張る。
「もう一人、ぼくのお見舞いに来てくださっていますよね?」
 孝巳が笑顔で言う。笑顔になると、途端に口元に八重歯が浮び、可愛らしい少年の顔になる。
「あ、そうなの。井上幸太郎さん。学校一のハンサムさんなんだよ」
「へぇ。すごいなぁ。なんでそんなすごい人が姉さんなんかと一緒に? まさかお付き合いしてるなん
て奇跡的なこと言わないよね」
 なかなかトークの才能もあるらしく、場を和ませる明るい声で言う。
「お付き合いはまだってことにしておこうか? チカちゃん?」
 やっと輪の中に入れたことにホッとしつつ、三人に近づく。
「そうね。でもね、孝巳。井上さんとデートはしたんだよ」
 自慢げに言って、チカが幸太郎に目配せしてウインクする。
「えー、嘘だぁ。なんで姉さんが? 絶対普通の感性と違う姉さんが普通にデートできるの?」
 心底びっくりした口調の孝巳に、幸太郎もつい頷いてしまう。
「確かに普通の感性のデートじゃなかったかな?」
 思わせぶりに言えば、なぜか異常に時人が反応して幸太郎の顔を凝視する。
 その視線は如実に、「おまえ、彼女に何をした?」と問い詰めていた。
 そんな視線を理解しながら、シレっと無視した幸太郎がチカの手を握る。
「チカちゃんと手に手を取り合って」
 時人が目を剥き、孝巳はおもしろがって口を手で覆っている。
「ジャック・オ・ランタンを作りました」
 幸太郎に代わって言ったチカの声に、孝巳はやっぱりねと笑い、時人は目が点になる。
「ジャック・オ・ランタン?」
 安堵なのか腑抜けた顔の時人に顔を寄せ、わざとらしく無心な子どもを装って幸太郎がうなずいてみ
せる。
「うん。チカちゃんとでっかいカボチャをくり抜いて、ハロウィンによく登場するジャックのランタン
を彫ってたの。山の上の畑で」
 チロっと幸太郎を見上げた時人の視線が、「おまえが山の畑だと」と疑わしいと視線で語る。
 でもこのチカのケロッとした態度なら、幸太郎を巻き込んで山でもどこでも連れて行ってしまいそう
な雰囲気がある。なら、彼女を信じてみるかと思ったかどうか。時人はフンと鼻息一つ吐いて幸太郎か
ら顔を背けるとパメラを足元に呼んでお座りさせる。
「上条さん、ぼく、パメラと外散歩したい!」
 孝巳が精一杯の我がままを言うように、赤い顔で必死になって言う。
「うん、いいよ。パメラには盲導犬モードもあるから、孝巳くんの安全も確保してくれると思うし」
「へぇ、すごーーーい!」
 再びわいたチカの賞賛に、思わずほくそ笑む幸太郎であった。


 病院の中庭の芝生の上で、パメラと一緒になってチカと孝巳が転げ回って遊んでいた。
 頭も背中も、芝がたくさんついてチクチクしそうなほどになっているが、上がる声は楽しくてしょう
がない模様だった。
 それを時人がベンチに座って眺めていた。
 心なしか笑みが浮んでいる。
 幸太郎はそれを不信感たっぷりで見つめ、ドンと音を立てるようにして時人の隣りに腰を下ろす。
「天才くんは、いつにも増してご機嫌なようだね。いつもの仏頂面が地顔かと思っていたら、随分とか
わいい笑顔ができるんじゃないか」
 からかい調子で声を掛ければ、途端にいつもの眉間に皺を寄せた顔が向けられる。
「別に。おまえに関係ないし」
 おーおー、可愛げのない態度だこと。
 そう思うほどに、幸太郎の笑みは濃くなる。
「いつもは他人とかかわるなんてごめんだって態度なのに、今回はどうしたわけ? こんな病院まで知
らない男の子に会いに来ちゃって」
 意地悪く眉を上げて問えば、時人が体ごと幸太郎から離れようとして顔を背ける。
「特に他意はない。パメラの実験室以外での活動の性能をチェックしたかっただけだ」
「性能チェックで、いきなり病人に会わせるってないでしょう? おまえ自信たっぷりに盲導犬モード
でパメラに孝巳くん預けたし」
 思わぬ突っ込みに、時人がなおのこと眉間の皺を深くする。
「……パメラが優秀なことは、このぼくが一番分かっているからな。それに、ぼくだって人間の血が通
ってるんだ。弟のためにってがんばってる女の子には助けの手を差し伸べてやるべきだって思うものじ
ゃないか」
 べきねぇ、助けてやりたかったのいい間違いでなくてですか?
 そう心の中でからかいの声を上げたが、これ以上追いつめても時人が逃げ出すのが分かっていたので、
心の内の留める。
「ふーーん。時人も家族愛に弱いってことか」
 愛嬌たっぷりに、孝巳にむかってワンワンと吠えて見せているパメラを眺めながら、幸太郎が言う。
「時人にも、大好きなお姉ちゃんがいたりするんだ?」
 ベンチの背もたれにだらしなく寄りかかりながら言った幸太郎だったが、時人はピクンと眉を跳ね上
げて声を上げて笑い転げる二人とパメラに目を向けて口を閉ざす。
「……ぼくには家族はいない」
「へ?」
 ただの工学部の嫌味な天才としてしか知識のなかった幸太郎は、不意に体から流れ出る空気の温度を
下げた時人に目を見張る。
「あ、ごめん。俺、変なこと言ったみたいだな」
「別にいい。きっとどこかにぼくを生んだ親がいるんだろうが、ぼくを捨てるまでの過程があるはずだ。
ただ邪魔だったから子どもを捨てる親は、そうそういないだろう。何か事情があったんだ。それに、ぼ
くはこうして大学にまで進学できて、何不自由ない生活ができているんだ。悲観しちゃいないさ。もし
かしたら、家族などいないほうが、ぼくのように楽なのかもしれないしな」
 一気に喋った時人が、堅い壁を張り巡らし、自己防衛するように冷えた顔で前を見据える。
 その顔が、チカを見て微笑んでいたときとは真逆の世界にあるほどに異なり、くだらない独占欲でつ
まらないことを言ってしまったことに幸太郎は自分に失望してうな垂れた。
「すまない。本当に余計なこと言ったよな、俺」
 だがその言葉は時人の張ったバリアを越えられず、打ち返されたかのように時人の反応を引き出すこ
とはできなかった。
「俺はさ、おまえから見れば恵まれすぎてるんだよな。ちゃんと親父とお袋がいて、何不自由しない金
を与えられてて、遊んでても親の寄付金で大学だって苦労しないで入ったよ。就職だって必死になって
探さなくても、どうせ親父の会社に入って、最初からある程度の役職が約束されてる。……でも……お
まえが言うように、家族が足かせになるってことも、あるんだよ。こんな歳になって青臭いこというよ
うだけどさ」
 不用意なことを言った償いのように、幸太郎は初めて自分の家族のことを口にして苦笑を浮かべた。
「崩壊した家族に居ざるを得ない子どもの気持ちって分かるか? 父親はすでに愛情が家族ではないど
こかに向いていることが、子どもの目からも露わで、母親も父親の愛情を得るために間違った方向に暴
走して、母親じゃなくて女の顔で家の中にいる。そんな家族を家族たらしめるために、子どもは演じる
んだよ。幸せな子どもだって顔で笑顔を振り撒いてな」
 聞いているのか聞いていないのか分からない顔で黙っている時人の足元を見ながら、幸太郎が続ける。
「優等生の顔で無邪気に戯れる俺に、親父は後ろめたさを覗かせた歪んだ笑みで俺の頭を撫で、違う家
庭へと去っていく。そして、なんとか母親の愛情の手だけは逃すまいと伸ばした手を、母親は呆気なく
叩き落すんだ。繋ごうと伸ばした手を、父親を憎む代わりに憎しみの目で睨みならな」
 幸太郎は喋りながら自分の手の平を見下ろす。
 今は大人の男の手だ。でも、あの頃の柔らかで子どもの小さな手を、母はなぜ音を立てるほどの力で
振り払ったのだろう。
 今でも衝撃のように消えない場面だった。
 前後は不確かで、何があったのかは覚えていない。
 だが、小学生で参観日のあった日であったことは覚えている。誰の母親よりもキレイで、若く着飾っ
た母親が誇らしかった。
 授業が終わり、PTAの会合に出ることなく帰ろうとしていた母親に駆け寄って「一緒に帰ろう」と
声を掛けようとしたのだ。
 だが人目がなくなった廊下の片隅で、笑顔を振り撒く理想的な母親であったその顔は、夜叉のように
変貌していた。
 完全なる拒絶、嫌悪、憎悪。
 伸ばした手は、凍りついた空を掴むだけだった。
「だからかな。俺、腕組みたがる女の子よりも、ぎゅっと手を握ってくれる子に出会うと、嬉しくなっ
て独占したくなる。もう誰にも俺の手を振り払わせたくなくて」
「それが山寺チカか?」
 不意に返された時人の言葉に、幸太郎が顔を上げる。
「……どうだろうね。俺、自分の気持ちが一番わからないから」
 パメラを連れた孝巳が、チカの手を取って立たせてやりながら時人の元に戻ってこようとしていた。
 その理想的な愛情を信じあっている姉と弟の絆を羨ましく見つめる。
「そんなのは天才のぼくだって同じだ。自分の気持ちほど、深く辿りがたいものはない」
 一言言うと、汗を浮かべて笑顔を浮かべる孝巳に笑みを返す時人がいた。
 その横顔を見上げながら、幸太郎は苦笑を浮かべざるを得なかった。
 なんだよ、こいつ。やけにかっこいいこといいやがって。
 負けてらんねぇな。
 幸太郎は笑みを浮かべて勢いよく立ち上がると、目の前を歩いていくチカの手と時人の手を同時に握
った。
 その行動に、チカは「ん?」と問い掛けるように幸太郎を見上げ、時人は迷惑そうに眉を顰める。
「素敵な友に恵まれて、俺は幸せです」
「どうしたの急に?」
 チカが幸太郎には不似合いなしんみりした口調に、遊びで高揚した気分のままに明るくと見上げて言
う。
 そしてパメラに先導された孝巳が振り返り、仲良くならんだ大学生三人を羨ましそうに見つめた。
「ぼくも、姉さんたちみたいな大学生になりたいな」
「なれるわよ!」
 チカが声を大きく言う。
「手術は絶対に成功する。孝巳くんが夢を失わない限り」
 確信をこめて言った幸太郎の言葉に、孝巳がゆっくりとうなずく。
「しっかり勉強してうちの大学においで。その頃にはぼくは教授になって、工学部を仕切っててやるか
ら」
 時人が鼻高々に宣言する。
「うん。ぼく、上条さんの弟子になるから」
 将来の目標を見つけた孝巳の目に、光が宿る。そしていずれ、本物の光を取り戻して、好奇心に溢れ
て駆け回る日々が戻ってくることだろう。
 その様子を眺めて満足を覚えた幸太郎は、そっと自分の手も見下ろした。
 もちろんチカちゃんはギュッと握っていてくれた。
 そして、時人も振り払わずにいてくれた。もちろん、仕方なくという風情で握り返すことなくされる
がままの状態ではあったが。
 幸太郎は時人の横顔に微笑む。
 サンキュー、天才くん。今日は俺の完敗だわ。認める。でも、次は負けないからな。


井上幸太郎ノデーター2

チカ ―― 溢レンバカリノ愛情ヲ注ギ、伸バシタ救イヲ求メル手ヲ、必ズ握ッテクレル女ノ子

解析結果 ―― 井上幸太郎ガ好ム人間ハ

 家族ノ愛情ヲ注イデクレル、温カイ手を持ッタ人間




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