実験5 伸ばした手を、どうか振り払わないで





 チカを連れ、工学部の実験室を訪れる。
「うわ、頭良さそうな人がいっぱい」
 男と機械がいっぱいの工学部に気後れしたように言うチカに、幸太郎が苦笑を浮かべる。
「あの、俺も工学部だって知ってた?」
「え?」
 あからさまに驚かれ、幸太郎は笑うしかなくなってこめかみを掻く。
「そんなに驚かなくたって。だったら、何学部に見えるの?」
 わざとらしく嘆いてみせる幸太郎に、チカは考え込んで目を上向かせる。
「えっと、比較文化学科?」
「なんで?」
「古今東西の性文化の違いを研究しているとか……」
 えへっと笑いかけられ、幸太郎はガクっと肩を落とした。
「俺のイメージって、まったく誰も彼も性欲魔人にしちゃってくれて。ええ、知ってますよ。性の西洋、
東洋の違いぐらい。西洋人は女性の胸に大きな性的刺激を受けます。だから女性も急に裸を見られたと
きは胸を隠します。対して東洋は女性の性器により注目します。これは文学、映画、どちらでも性描写
における違いとして如実に現れています。ちなみに」
 博識ぶってかけてもいない眼鏡があるように、指でフレームを押す仕草をみせた幸太郎が、赤い顔で
見上げているチカに言う。
「もしチカちゃんが、お風呂場で異性にばったり遭遇。どこを隠す?」
 急に自分を性討論の中心にされたことに迷惑そうな顔をしたチカだったが、律儀に言われた場面を想
像しながら答える。
「両方隠す。胸も下も」
 その答えこそが正解だと示して、幸太郎が親指を立ててみせる。
「そのとおり。西洋文化と東洋文化の融合点である日本は、西洋の女性のように胸もかくすけど、昔な
がらの東洋的考え方も残っていて、性器も隠す。日本の文化のあり方が端的に現れてるよね」
 うん、と嬉しそうに知識を披露した幸太郎だったが、比較文化学科にいそうと言ったはずのチカから
褒め言葉はやってこない。
「もう、性器とか恥ずかしげもなく連呼しないでくださいよ」
 もちろん誰も幸太郎とチカになど注意を払っている様子はないのだが、それでも周りを見回してしま
うチカだった。
「別に恥ずかしくないだろう? 誰にだって一つはついてんだから。付いてないほうが悲しくて大騒ぎ
だよ」
「それはそうですけど」
「それに、そうやって秘め事にするほうが、SEXを卑猥なものに仕立て上げる結果になってると思う
んだけどね」
「………」
 自説を説く幸太郎に、口を尖らせながらチカが思い巡らせるように押し黙る。
「……そう言われれば、……そんな気もしないでもないかな? ……っていうか、井上さん、本当に工
学部?」
「本当に工学部です」
 学生証まで差し出す幸太郎に、受け取って眺めたチカが頷く。
 が、
「この写真、井上さんの一年生のとき?」
 途端にアハっと声を上げて笑うチカ。
 学生証の中の幸太郎は、短い黒髪で、真面目な学生のように緊張した顔で写っていた。
「そんなに笑うと時人のところに連れてかないぞ」
 チカから学生証を奪い返し、いつもの幸太郎らしくなく恥ずかしげに財布にしまってしまう。
「そのころの井上さんも素敵ですよ」
「……どうもありがとう」
 少し怒った口調になった幸太郎だったが、不意に背後に感じた気配に立ち止まった。
 後頭部に突き刺さるかのような視線。
「時人って、ぼくに用か?」
 噂の人、時人が立っていた。


 時人が白衣に身を包み、足元にはパメラを従えて立っていた。
 機械の犬にしては、よく見るようなコロコロしたかわいらしいフォルムではなく、ドーベルマンを彷
彿させる筋肉質な骨格の機械犬。
 それが本物の犬のように、少し跳ねるようにして歩き、廊下にカツカツと軽快な音を立てている。
 時人がそのドーベルマン、パメラに向って指示を飛ばす。
「パメラ、伏せ」
 すると絶対服従の犬らしく、足を折ったパメラが廊下に伏せをして留まる。
「よし、いいぞ、パメラ」
 めずらしい掛け値なしの笑顔を浮かべた時人に、パメラが振り向いて嬉しそうに尻尾を振る。
「はぁ〜、相変わらずの天才っぷりだね」
 同じ工学部に所属していながら、幸太郎にはパメラの仕組みなどてんで分からない。せいぜい足の関
節のつなぎ方が分かるくらいだ。プログラムに関しては、完全にお手上げだ。
 はぁはぁと舌を出して息をするような仕草まで見事に再現されている。
「で、何の用だ」
 出会ってから一歩も幸太郎に近づこうとせず、直立不動のままに立っている時人は、まさしくイメー
ジ通りの女子大生を恐れさせる鉄壁上条だった。
 だがそんな時人の凍れる空気など感知しないかのように、いつの間にやらパメラの横にしゃがみ込ん
だチカが声を上げる。
「うわ〜、かっこいい。本物みたい」
 純粋な賞賛の声に足元を見下ろした時人が、チカを無関心な目で見下ろす。
 が、そこにあった尊敬しますという視線にぶつかると、珍しく動揺して一歩後退さるのだった。
「これ上条さんが作ったんですよね? すごいなぁ。こんなワンちゃんなら、弟も会いたがるだろうな。
会わせてあげたいなぁ」
 パメラの頭に手を伸ばしたチカが、ツルっとした金属の頭をよしよしと声をかけながら撫でる。
 それに反応したパメラが、赤外線で察知する目をチカに向ける。そして微笑んで手を鼻先に出してく
れるチカに尻尾を振ってみせる。
「……だれ?」
 時人が後退さったぶんの距離を保ったままにチカに言う。
「あ、ごめんなさい。名のってなかったですね。栄養学部に在籍しています山寺チカといいます」
「で?」
 今度は時人の目が幸太郎に向く。
 幸太郎の女癖の悪さで起こる事件に巻き込まれるのはごめんだと如実に語る目で幸太郎を見る割に、
いつもより口調が柔らかい。
 こいつ、チカちゃんみたいな真っ直ぐ飾らないタイプが好みなのか? などと時人を観察しながら、
幸太郎がチカの後を受け取って説明する。
「時人がくれたこの犬のキーホルダーがさ、すっごい人気になってるって知ってた?」
「え?」
 もちろん女子大生たちが時人に近づくはずもなく、本人は全く知らずにいたらしい。
「みっちゃんもピアスにつけて歩いてるだろう? だから結構注目浴びてたみたいだな。で、欲しいっ
て子がたくさん出てきちゃってね。でも、おまえに貰うったって、迷惑かけるわけにもいかないしさ、
本当に欲しいんだなって思った子一人だけに、時人に分けてもらえるように交渉してやるって約束しち
ゃったんだ」
 これにはあからさまに迷惑顔で眉間に皺をくっきりとよせる時人だったが、パメラにお手をさせて喜
んでいるチカを見て表情をゆるめる。
「それで彼女がその栄えある権利獲得者ってこと?」
「はい」
 嬉しそうに立ち上がったチカの公明正大な返事に、「ふ〜ん」と時人が頷く。
 短い赤毛がボーイッシュなチカは、明らかにいつも幸太郎が連れ歩くタイプとは違う。
 じっとチカの顔を見て、チラっと服装にも目をやった時人が、何が言いたげに幸太郎を見やる。
「どうして彼女を選んだ?」
 いつもの時人なら無関心を決め込んで、煩わせるなという態度で背を向けるものと思っていたのに、
どうしたわけか興味を示して質問してくる。
「う〜ん。俺とどうこうしたいって思ってないからかな。純粋にこれが欲しいんだって。ね?」
 問い掛ければ、チカも笑顔でうなずく。
「弟にあげたいんです。もうすぐ目の手術を受けるんです。動物好きな弟なんですけど、さすがに病院
に犬を連れて行くわけにはいかないんで。それで、こんなかっこいいワンちゃんチャームが、がんばれ
ばもらえるって聞いてチャレンジしたんです」
 元気いっぱいの弟想いの姉の言葉に、時人が黙ったまま頷く。
 時人はチカに答えるでもなく俯くと、足元のパメラに声をかける。
「パメラ。おまえ、この人好きになったのか?」
 時人の声に反応して立ち上がったパメラが尻尾を振り、時人を見上げてからチャカチャカと足音を立
ててチカに近づき、その手に顔を寄せる。
 アタマ撫デテ
 機械のパメラの背中が語っていた。
「パメラに気に入られちゃった」
 そっと求められるままに頭をなでてやるチカに、時人が無表情の顔でうなずく。
 が、日頃時人の観察をしてきた幸太郎には、いつもとは違う雰囲気をまとっているのが分かった。
 時人の眼鏡の奥の目が、和んでいるのだ。
 唯一話をしているのを見たことのある美知子とでも、和むというよりは、仕方なく付き合ってやって
いるという気配が漂う時人がである。
 うひょー、時人に異変が!
 内心でそう叫んだ幸太郎が、さらに驚きに目を丸くする。
「わかった。分けてやるよ。それから、パメラのデーターを取るためにも、ちょっと大学の外に連れ出
そうかと思ってたんだ。あんたの弟のところにパメラ連れて見舞いにいってもいいよ」
 他人に無関心なはずの時人が、驚異的なことを口にする。
「え、本当ですか? ありがとうございます。あの子、絶対喜ぶだろうな」
「うん」
 時人が、うんなどと頷いている。
 ありえね〜!
 面食らっている幸太郎と目が合うと、途端に顔を顰めて見せた時人だったが、もう用は済んだろうと
足早に歩きだす。
 そして幸太郎とすれ違いざまに言う。
「おまえがやっかいごと持ち込んだんだから、一緒に行けよ」
 真横を通り過ぎる時人の顔が赤い。
「了解」
 かわいいとさえ思えるその横顔に、自分の唇に触れた手でキスを贈る。
 ポンと頬につけられた間接のキスに、時人がギョッとした顔で振り向き、叫ぶ。
「この変態。ぼくにまで魔の手を伸ばすな! 彼女にも手を出すなよ! こい、パメラ!」
 悲鳴のような叫びを残して去っていく背中を見つめ、幸太郎とチカは顔を見合わせると声を上げて笑
うのであった。

 


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