実験 4 「ちゃんと服着なさい。ね?」




 これから畑仕事へ出かけるという三婆たちに別れを告げた美知子は、朝露の湿気をふんだんに含んだ
空気が次第に太陽の熱で乾いていくのを感じながら、朝の住宅街の中を当てもなくプラプラと歩き回っ
ていた。
 日曜日の住宅街は、まだ冷め切らぬ眠気の中にあるようだった。
 家の中から掃除機をかける音や、朝早い主婦が庭先で洗濯物を干す姿などがある。
 シャーと音を立ててカーテンが開けられる瞬間に立ち会うこともあった。
 そんな見知らぬ人の家々を見て回るのは、なかなかおもしろいことであった。
 勝手な想像をめぐらせながら歩いていくのだ。
 立派な門構えで花がきれいに咲き乱れた庭のある家の前では、ツンと澄ました着物の大奥様がいる家
庭を想像する。その家にはかなり壮絶な嫁姑の問題があり、朝食の準備をする大きな台所では、日曜日
の朝から激しい火花が散っているのだ。
「光江さん、このおみおつけ、ちょっと味が薄いんじゃありません?」
「あら、お母様。わたくし、お母様やお父様の健康を思って薄味を心がけておりますのよ」
「……。そうでしたの。でも、わたくしもお父さんも、そんなことを気にするほど年でもありませんし
ね。オホホホ」
「健康に年もなにもありませんわ。お父様とお母様には長生きしてもらいたいもの」
「そうねぇ。まだこの家を切り盛りする努めがありますものね」
「……。ええ、わたくしもいろいろとまだ教わりたいことがありますから」
 声色と使い分けてひとり芝居をしていた美知子は、ふふふと笑うと、そっとその家の庭を覗いた。
 果たしてその瞬間に家の玄関から人が現れる。
 パジャマ姿でボサボサのごま塩頭のお爺さんが、欠伸をしながら現れ、新聞を柱に打ち付けられた新
聞受けから取り出す。そして新聞を広げなら、ブーと勢いよくおならをする。
 その様子を門の柱の陰からこっそり覗いていた美知子は、思わず噴き出しそうになり、慌てて口を両
手で押さえるとその場から走って離れた。
 その足音でお爺さんが顔を上げたのは、美知子には見えてはいなかった。
「はぁ〜〜、もうおかしい。絶対あのおなら臭いし。爆発みたいなおならだったよね」
 思い出し笑いで腹を抱えて笑い始めた美知子だったが、そんな美知子を見下ろす視線に気づいて顔を
上げた。
 そこにいたのは、お爺さん宅の塀に座った一匹のネコ。
 茶色の縞模様のトラネコが、緑色の大きな目で美知子をじっと見下ろしていた。
「ねえ、君はこの家の子?」
 話し掛けた美知子に、トラネコはまるで肯定の返事だというように目を静かに瞬かせる。
「へぇ、そうなんだ。名前なんていうの?」
 本気でネコと会話する美知子は、ネコに向って手をそえた耳をよせる。
「ふむふむ。モモちゃんっていうのかい? 男の子なのにねぇ」
 美知子は勝手に命名したモモちゃんに近づくためにツツジが植えられた石段をよじ登り、モモちゃん
の目線で近づく。
「ねえ、君のうちには、意地悪なおばあちゃんと、なんとかそのおばあちゃんをやっつけようと日夜作
戦を練るお嫁さんがいやしないかい? そんでもって、そんな二人に嫌気がさしてるのが、あのお爺さ
んで、君はそのお爺さんの飼い猫だ!」
 ニコニコと笑いながら、塀の向こうに家の人がいたら怒られそうなことを、いとも楽しそうに語る美
知子だった。
 モモちゃんのほうも、そんな美知子が珍しい生き物に見えるのか、じっと瞬きもせずに見つめてくる。
「あのお爺さん、ストレスで腸が弱ってるんだよ。だからあんなくっさいおならが出ちゃうんだよ。君
もいつもフトンの中で嗅がされているんでしょう? かわいそうに」
 心底同情して美知子はネコを抱きしめようと顔を寄せた。
 だがその行動にモモちゃんは思わぬ反撃にでたのであった。
―― シャーー!!
 突然の威嚇と鋭い爪つきネコパンチが美知子の額を直撃。
「ぎゃおうーーー!」
 モモちゃんの威嚇にも負けぬ叫びを上げて、美知子は額を手で覆うと後ろに仰け反った。
 だが運悪いことに、美知子は自分が細い石段に登っていたことを忘れていたのだ。
 お尻の下にツツジを敷き、バキバキと枝を折りながら石段の上から背中から転がり落ちる。
 しかもさらに不運なことに、美知子が道に落ちた瞬間に、キキーとブレーキの音を響かせてバイクが
止まる。
 ピンク色に塗られたスクーターの前輪のタイヤが、美知子の投げ出された右足を轢く。
「うぎゃーー」
「いやーーーー」
 女二人の叫びが、日曜のうららかなはずの住宅街の中に響く。
 家の門から様子を見に出てきたパジャマのおじいさんが、事故現場を見て駆け寄って来る。
「大丈夫かね?」
 ピンクのヘルメットを被った女が、蒼ざめた顔で頷き、額と足を抱えた美知子が涙目になって起き上
がる。
「うへ〜〜〜。モモちゃんに引掻かれて、しかもバイクに轢かれた」
 そう言いつつ、ムッとした顔で勢いよく立ち上がった美知子が「トウ」という掛け声でジャンプして
立ち上がると、ファイティングポーズを決めてバイクに挑みかかる。
「このう! 制裁してやる」
 そういってバイクの前輪にキックをくれる。
「あ、あのう、足、大丈夫?」
「ううん。痛い」
 轢かれたはずの右足でキックをして見せながら、もうダメかもと言われても、誰も同情はしてくれな
い。
「大丈夫そうだの」
 お爺さんは呆れ顔で美知子を見るのであった。


「そう、あなたそれは災難だったわね。でも、それだけで済んだなんて、頑丈な体でうんでくれた親御
さんに感謝よ」
 額の引掻き傷を消毒してくれるおばあさんは、想像と違ってずんぐりと太った元気なおばあさんだっ
た。
 覗き見をしていた家の中に幸運にも入れた美知子は、親切にもお茶までご馳走になっているのであっ
た。
 美知子を轢いたバイクのピンク女も、申し訳なさそうな、それでいて自分はもしかしたら、変な女に
絡らまれた被害者なんではないのかと不安そうな顔でお茶を飲んでいた。
 その女の横には、再び新聞を開いてちゃぶ台の前に座ったお爺さんがいた。
 そして、ついさっき美知子が聞いた音の二倍はありそうなおならをして、ピンク女の目をまん丸にさ
せた。
「もう、父さん、お客様がいるんだから止めて!」
 そこへ剥いたリンゴをお皿に乗せた若い女の人が現れる。
「お嫁さん?」
 これまた美知子の想像とは違う、今どきの女の子みたいに茶色の髪にウエーブのパーマをかけたおさ
げの女の人だった。
「ああ。この子かい。この子はわたしらの末の娘。嫁にもいかずに家にいついてるのよ」
 おばあさんはポンと叩いて美知子の額に伴創膏を貼る。
「嫁に行かないはよけいだっていうの」
 女の人はリンゴを美知子とピンク女にどうぞと差し出す。
「二人とも災難だったわね。そっちの彼女もまさか石垣から人が降ってくるとは思わないわよね」
 女の人の言葉に、助け舟とばかりにピンク女が頷く。
「ちょっとポチに会いに出かけただけだったのに」
「ポチ?」
「近所の家の白レンジャーなんですけど」
「白レンジャー?」
 全員の目が点になるなか、美知子だけがピクンと反応して身を乗り出す。
「ポチ、白レンジャー。それからピンクの女」
 ジーと顔を寄せて見つめてくる美知子に、ピンク女が少したじろいで身を引く。
「何?」
「………もしかして、幸太郎ちゃんの知り合い?」
「幸太郎ちゃんって、井上幸太郎?」
「そう、それ!」
 助けてくれた一家をよそに、二人はじっと見つめあう。
 そして美知子はいきなり破顔すると言った。
「この前幸太郎ちゃんと飲みに行かなかった? ポチっていう白レンジャーと友だちで、毒キノコの家
に住んでいる女の子の話をこの前聞いたんだ。その人でしょう。会ってみたいと思ってたんだ」
「ええ? 本当? わたしに会いたいって思ってくれたんだ」
「うん。わたし美知子」
「わたしはさゆり」
 二人は微笑みあうと、ギュッと握手を交わす。
「へぇ〜。なら運命の事故ってこと?」
 事の成り行きを見守っていた女の人が呟く。
 そこにニャーと鳴きながら入ってきたのは、事故の原因を作ったネコ、モモちゃん。
「ああ、モモちゃん! 痛いよ、これ。どうしてくれるの?」
 女の子の顔に傷を作ってくれて! と意気込んでモモちゃんに近づいた美知子。学習しない女美知子。
 再び、フギャーと叫んだモモちゃんの爪が美知子の手の甲に三本の赤い線を刻む。
「うぎゃ〜〜〜〜」
 再びの反撃に怒り心頭した美知子が、縁側から庭に走り出していくモモちゃんを追って走り出す。
「みっちゃん、待ってよ!」
 さゆりもピンクヘルメットを手の取ると、それでも助けてくれたご一家に頭を下げ、美知子の後を追
い始める。
「モモちゃん、待て〜〜〜〜!!!」
 美知子が靴も履かずに走っていく。
「……なんだか、変な子たちね」
 女の人がリンゴをひと齧りして呟く。
「そうね。それにしても、あの轢かれたお嬢ちゃん、どうしてウチのネコの名前知ってるのかしらね」
 おばあさんと女の人が顔を見合わせる。
「あの子、モモと話しとったでね」
 おじいさんは当たり前にそう言うと、再び「ブーー」とおならをした。


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