Chapter 9  The world is full of absurd. In any time , in anywhere 



「やあ、はじめまして」
 ぷっくりと膨らんだ鼻下の鎌口とヒゲを揺すり、男が言葉を発する。
「リザルト」
「ああ、君たちは我々をそう呼ぶらしいね。でも我々は自分がそんな化け物じみた呼び名で
呼ばれるのが嫌いでね。我々は選ばれた種族。人を超えた人類だ」
 饒舌に道化じみた動きで語るネズミ男。
 芝居がかって両手を開けば、ネズミたちが一斉に立ち上がって歓声を上げる観客よろしく
鳴き声を上げて、両手を打ち合わせる。
 そんなスタンディングオベーションに腰を折って挨拶したネズミ男が、腰を折ったままに
カオスを下から見上げ、口元をゆがめる。
「このネズミの王たるわたしに銃を向けているバカモノに、自分の愚かさをおしえてやろう」
 ネズミ男が笑う。
 その次の瞬間、目の前からネズミ男の姿が消失していた。
 円形の坑道の壁を走り抜けたネズミ男が、頭上からカオスに迫っていた。
 カオスは銃を正確と構える暇もなく、襲い掛かってきたネズミ男の体から逃れると、やみ
くもに拳銃を撃った。
 だがその鉛弾一つとしてネズミ男を捕らえることなく、土壁から埃を舞い上げるだけだっ
た。
 そのカオスの銃撃の間を縫うように背後から援護としてハンナが銃を撃つ。
 こちらはかなりの精度でネズミ男の頭を掠めるように飛ぶ。
 それをカオスに狙いを定めたまま、いまいましげに見たネズミ男が、口の中で小声のつぶ
やきを発する。
 それに反応したようにネズミたちが一斉にハンナやマメめがけて突進を始める。
 ハンナはまだぐったりとしたメリラやダニエルを庇い、二人を背後に突き飛ばすと、ネズ
ミの波に立ちはだかった。
 大波の如く盛り上がってハンナを覆ったネズミの下で、ハンナの悲鳴が上がる。
 ハンナの横に立っていたマメがネズミに覆われたハンナの腰に手を伸ばし、なんとか火炎
瓶を抜き取り、自分の膝でマッチを擦ると火を点ける。
 三本を連続して投げる間にも、マメの体にもネズミが這い上がる。
 ハンナの悲鳴が続いていた。体中を掻き毟り、齧りつく痛みがハンナを襲っていた。
 だが、マメの体についたネズミは、這いまわるだけで齧ろうとはしなかった。その体が保
護対象だと示すかのように。
 煙幕のように上がる炎が、次々とネズミの体に燃え移り、ネズミの絶叫と炎があげる音が
その場を包む。
 その炎の向こうでは、カオスとネズミ男の一騎打ちが続いていた。
 すぐに弾を撃ち尽くしたカオスが、ナイフを構える。
「お。さっきよりも様になってる。おまえはナイフ使いだな」
 カオスの投げたナイフを避けながらネズミ男が叫ぶ。だがその声は、どこまでも余裕に満
ちていた。
 素早い動きで地面や坑道の天井を走り抜け、気がつけばカオスの背後や足元を掠め取り、
鋭い爪や尖った牙で肌を傷つけていく。決して致命的な傷は与えないで、じわじわと痛めつ
けることを楽しむ。
「ネズミのくせに、猫みたいなことしてんじゃねえよ」
 いたぶっておもちゃにして殺すことを楽しむ。
 だがその言葉に、ネズミ男が激しく反応すると、初めて聞くネズミそのものの奇声を上げ
た。
 明らかにカオスの放った言葉が、彼の逆鱗に触れたオーラが放たれる。
「我々をネコのような残虐な生き物と一緒にするでないわ!」
 鋭く尖った前歯を剥き出しに唸ると、ネズミ男が走りこむ。
 それを背後に宙返りをうってかわしたカオスは、体を宙に浮かせたままにナイフを構える。
そして自分の下を走り抜けようとして残像に見えるほど早い動きのネズミ男の背中にむけ
て、鋭く放った。
 一瞬、ネズミ男の残像の背中に赤い花が咲く。
 それに続いたネズミの鳴き声。
 地面に手をついて着地したカオスの背後で、ネズミ男が背中を掻き毟って倒れていた。
「くそぉぉぉぉ! この裏切りものめ!」
 ネズミ男が致命傷を受けて身動きできずにもがいていた。
 カオスはそのネズミ男を見下ろした。
 仕留めたか?
  だがそのネズミ男の背中に、あるはずのないものがあることに気づいて背筋を粟立たせた。
 ネズミ男の背中には、自分の放ったナイフが刺さっていた。だが、それだけではなかった。
鎌形の半透明のブーメランに似たものが、ネズミ男の背骨を分断するように突き刺さって
いた。
 明らかに、致命傷はカオスの放ったナイフではなく、この半透明なブーメランだった。
 するどく尖った、黒い筋の入ったもの。何かの爪。
「貴様がネコを冒涜するからだ。我々ネコ科は気位が高くてね。どこかのドブを住みかにす
るようなネズミどもにはガマンならない。いたぶって殺したいくらいにね」
 愉悦に満ちた声がカオスの背後から聞こえた。
 聞いたことのある声。
 見なくても分かる。豹紋を纏った残虐でサディスティックを自らのオーラとするリザルト、
グアルグ。
「マメ、逃げろ!!」
 カオスは背後に向かってナイフを構えなおすと叫んだ。
 絶対に勝てない。
 カオスの全身が、持っている力の違いを感知して叫び声を上げていた。おまえも逃げろと。
「はやく、ダニエルとメリラを守れ!」
 震える足で黒い影として現れたグアルグに対峙しながら、マメに叫ぶ。
 今はすっかり弱々しくなったハンナの叫び。
 マメ一人で助けられるのは、ダニエルとメリラがいいところだ。
 マメが走り出す足音が聞こえる。乱れた足音二つを従えて。
 ここは俺が止めてやる。
 カオスはゴクと音を立てて唾を飲むと、グアルグに向かっていった。
 黒い皮のライダースーツに身を包んだグアルグが、カオスを笑顔で見つめながら、ダラリ
と両手を体の横に下ろしたまま、立っていた。
 右手に構えたナイフ3本を一気に投げる。
 それを事もなげに、まるで邪魔なハエを追い払うがごとくに爪で弾いたグアルグが、次の
瞬間にカオスに向かって直線で跳躍した。
 カオスの動体視力を超えた動きに、その姿を見失う。
 どこだ?!
 だがその疑問を頭の中で唱え終える暇もなく、腹に強烈なパンチがめり込む。そして腹を
抱えて身を折ったカオスの首から頭にかけてが、握りつぶされるかのような力で拘束される。
 カオスの頭が、グアルグの小脇に挟まれて、締め上げられていた。
 肘でロックされた不自由な体勢でその顔を見上げれば、グアルグの愉悦に満ちた笑みが自
分に向けられる。
「おまえ、前に会ったことあるよな。あの廃墟で」
 滑らかな豹紋の浮いた手が、カオスの窒息して赤く変わった顔に伸ばされる。
 その手を叩き落とそうともがくカオスの手に、獲物を嬲るネコそのものの動きで爪の一本
を手の甲に突き刺す。
 見事に貫通したカーブを描くグアルグの爪の上を、カオスの真っ赤な血が緩やかに、だが
絶えることなく滴っていく。
「おまえもなかなか美しい子供だが、少々、成長しすぎているな。もっと、こう柔らかな肉
を食い破るのが、俺の最高の至福なんだ」
 カオスの手の甲から爪を抜くと、今度はその爪をカオスの頬に当て、ゆっくりとひく。
 頬にも赤い血の線が浮き上がる。
 それを真っ赤な舌で舐め取ったグアルグが、ほんの少し腕に力をこめ、カオスを失神させ
る。
 そしてカオスを肩に担ぎ上げると、虫の息で倒れたネズミ男を蹴り上げる。
「まだ生きてるな。だったら指示に従いな。そこのネズミの下になっている女を、ネズミど
もに運ばせろ。わかったか」
 返事一つ返せないネズミ男が、口の中で何かを唱える。
 するとハンナの体の下に集結したネズミが、その体を担ぎ上げた。
「よし。あとで助けにきてやる。それまで生きていたら、助かるかもしれないぜ」
 グアルグが歩き出す。
 体中をネズミの噛み傷で覆われたハンナが、かすかに目を開けた。
 グラグラと揺れる視界の上で、ぐったりとした体を男の背中に預けたカオスが、血の痕を
地面に残しながら揺れていた。


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