Chapter 9  The world is full of absurd. In any time , in anywhere 


 音を殺して一歩ずつ進んでいく。
 先頭に進むハンナが、隙なく構えた拳銃を前方に向けて足元の瓦礫を踏みしめていく。
 その後ろをカオス、マメの順で進む。
 ハンナが後ろを振り向くと、曲がることを示して顎を振る。
「キャンディス母さんと鯉蔵父さんは?」
 曲がる廊下の反対側にバズーカをセットしているキャンディス母さんと鯉蔵父さんを示し
て言えば、ハンナが無言のままに首を振る。
「二人は侵入者の足止めをする。その間にわたしたちができるだけ遠くへ脱出する」
「え?」
「あの二人なら大丈夫。足手まといさえいなければ、自分の身は守れる」
 ハンナの言葉を聞きながら振り返って見れば、目の合った鯉蔵父さんが、緊張感もなく笑
顔でうなずく。彼の周りの空気だけが、緩やかに流れている。
「この先にメリラとダニエルが待ってるから」
 先を促がされ、カオスがうなずく。
 崩れた教会の祭壇裏に空いた穴を、地下へと下っていく。
 明かりは僅かにハンナがもつペンライトのみ。
 塗り込められた濃密な闇と黴臭い湿った空気に、肺が瘴気に絡めとられていく。
「ここに死体とか埋葬されてるのか?」
「そんなものはないよ。ただの倉庫だった。それを、わたしたちが脱出用に穴を掘っただけ
。下水道に続いているから」
 説明を聞きながら足元に目をやれば、確かに素人くさいコンクリのうちかたで階段が作ら
れているのが分かる。
 なんとはなしに、シャベルやつるはしを振るうキャンディス母さんとハンナ、そしてその
背中で鯉蔵父さんとメリラ、ダニエルが仲良くコンクリートを固める作業でぺたぺたとコテ
を使う様子が想像できる。
 それにしても、それを下水道までぶち抜くまで続ける彼らの根性には頭が下がる。
 ハンナが前方に向けてペンライトを点滅させる。
 すると闇の向こうで同じように反応する光が返ってくる。
「二人だ」
 ハンナが心もち足早に歩き始める。
「メリラ、ダニエル。どうした暗闇で」
 やっと立って歩けるだけの高さの坑道の中で、蹲っているメリラとダニエルが目に入る。
 二人はハンナの姿に安心したように抱きつく。
 その体がなぜかガタガタと震えていた。
「どうした? 戦闘なんて初めてじゃないだろ?」
 二人の体を抱きとめながら言ったハンナは、火を着けずに地面に置いたままだったランタ
ンを手に取った。
 ハンナがアンセイフティーマッチを擦って火を点ける。
「カオス」
 その火を見ていたカオスの手をマメが引いた。
「ん?」
 見下ろすカオスに、マメが何かを指さす。
 ハンナが背にした地面を指さすマメ。
 その方向に目を向けたカオスは、一瞬目に映ったものの正体が分からずに瞠目した。それ
からおもむろに目を手の甲で擦る。
 闇の向こう側で、地面一面に広がる赤い点。それが時折明滅する。
 カオスの様子とマメの指さす様子に気づいたハンナが、ランタンの光をかざして背後を振
り返る。
「な!」
 カオスは目の前に広がっていた光景に声を失い、次にすべきことも忘れて立ち尽くした。
 地面を覆っていたのは、幾百万という数のネズミ。
 一つの隙間もなく丸まったネズミが、ランタンの光を受けた瞳を輝かせる。
「何なのこれ………」
 ハンナも面食らって呟く。
 メリラとダニエルが、ハンナの声に反応してギュッとその体に回した腕に力を込める。
 そのネズミたちが、不意に何かの合図を受けたように首を巡らせる。
  そして一糸乱れぬ動きで前方を見据え、敵を見つめる。
 敵、カオスやハンナたちを見据える。
 その視線に込められた明らかな殺気に、カオスは足元からせり上がる恐怖を確かに感じた。
 ネズミたちが走り出す。
 巨大な波のように走りよるネズミたちに、たちまちのうちに恐慌に襲われる。
 悲鳴を上げるメリラとダニエル。
 足元を走り抜け、体へと駆け上がってくるネズミの大群。
 カオスとマメも、体を覆い尽くすように這い上がるネズミを払い落とすが、体中を齧られ
る痛みと嫌悪感に叫びを上げた。
 ハンナが腰から火炎瓶を取上げ、火を点けるとネズミの群れに向かって投げつける。
 バリンと割れるガラス瓶の音の後に上がる、炎の柱。
 その火柱で見渡せた坑道を、ネズミの群れが覆っていた。
 そのネズミたちも、上がった火柱にしばし動きを止める。
 そして火柱から向こうにいるネズミは立ち往生して、おぞましい行進をしばし止める。
「カオス! メリラを助けて!」
 カオスはハンナの声にメリラを見やった。
 頭までネズミの覆われたメリラが、ひきつけを起したように直立のまま動かなくなってい
た。
 ハンナとカオスの二人で、メリラの体を覆うネズミを叩き落していく。
 それをじっと見つめるダニエルを背中に庇い、マメが叩き落されたネズミを踏みつけて殺
していく。
「メリラ!」
 やっと顔が見えてきたメリラに、ハンナが叫ぶ。
 見開かれた目が現れる。だが、その目は何も映してはいなかった。
 まずい。
 それはカオスにも分かるほど酷い顔色だった。
 青白いを通り越した紫色の顔の中で、見開かれた瞳が黒く広がる。
 掻き落とすようにネズミをメリラの顔から放していく。
 中には顔の肉に食いついているネズミがいて、力任せに引きちぎるようにして剥がすため
にメリラの頬に傷を残していく。
 そしてメリラの顔全体が出てきたところで、カオスは吐き気を覚えて唾を飲んだ。
 崩れ落ちていくメリラの体を支え、ハンナがメリラの口の中に手を突っ込む。
 メリラの口の中は、侵入したネズミでいっぱいになっていた。
 窒息しかけている。
 次々と口の中から追い出され、投げ捨てられるネズミを、マメが憎しみを込めて踏み殺し
ていく。それを呆然と見ていたダニエルも、妹を殺そうとしているネズミに堪忍袋の緒が切
れたのか、マメを並んでネズミを踏みつける。
「メリラ!」
 地面に寝かせたメリラの顔を叩き、ハンナが叫ぶ。
 息をしていなかった。
 唇は紫色に、顔色は土気色へと変色していた。
 ハンナがメリラの顔を覆って、人工呼吸を始める。
 ドンと力を込めて叩かれた胸が、跳ね上がる。
 再び唇を覆って息を吹き込めば、胸が大きく膨らむ。
 それを見ていたマメが、ハンナの隣りに並んでメリラに心臓マッサージを始める。
「マメ、そんなことどこで……」
 必死に小さな体全体を使って心臓マッサージを続けるマメに、カオスがつぶやく。
 メリラの口から咽るような咳が吐き出される。
「メリラ! もう大丈夫だから」
 戻った意識と苦しさに泣き声を上げるメリラを抱きしめ、ハンナが言う。
 良かった、助かった。
 カオスが安堵に胸を撫で下ろす。
 だがその安堵も、足元を徘徊するネズミたちの動きの異変でかき消される。
 無秩序に蠢き続けていたネズミたちが、突然一つの意志に操られるかのように隊列を組み
始める。
 左右に広がり、中央を通路として空けるように散開していく。
 まるで自分たちの王を迎える忠実な臣だとでもいうように。
 メリラを抱き上げたハンナが後退さる。
「マメ、ダニエルを守れ」
 カオスはそう指示すると、ハンナを庇って前へ出た。
 ハンナの放った火炎瓶の炎の向こうから、何かが近づいていた。
 ネズミたちの作った凱旋の道上を、ユラリと揺れながら近づく影。
 炎の陽炎のせいか? それとも未知の怪物の姿なのか?
 カオスが銃を構える。
 炎の向こうから現れる姿に狙いを定める。
 人型を取ったそれが、やがて全容を露わにする。
 それは、ネズミの尻尾とヒゲを持った、赤い目をした男だった。


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