Chapter 7   The effective medicine of the witch brings bitterness
(魔女の秘薬と痛み)



 グアルグが覚えている最初の光景は檻の中で極寒に震えている幼いときの記憶だった。
 真っ暗で糞尿の匂いにまみれた貨物室の中には、自分を収めた檻の他に十数個がベルトで固定されて
飛行機に乗せられていた。
 だがそこはあくまでも貨物室であって、快適な空調とはかけ離れた環境にあった。
 高度を上げた上空では、自分の吐いた息さえ氷の礫となって口の周りや鼻の周りに凍りつく。まつ毛
まで凍りついて視界が白く閉鎖していく。
 檻の中のいくつかの中では、すでに命を落として冷凍の肉になってしまったものもあった。
 ああはなりたくない。
 グアルグはかじかんで痛みだけを残して腫れあがる手足を擦り、堪え続けた。
 もうすぐこの苦しみから解放されるはずだ。終らない苦しみなどないのだから。
 

 もう限界だと思ったとき、着陸した飛行機の貨物室が開け放たれた。
 光が差し込み、冷気で覆われていた貨物室にムッとするほどの暖気が忍び込む。凍りついていた体に
は柔らかな毛布に包まれたかと思うほどに幸せな瞬間だった。
「かぁ、くせぇな。獣くせぇ」
 貨物室のドアを開け放った兵士の一人が言い放つ。
 そして一つずつ冷え切った檻の中を覗き込んで行く。
「なんだ。これ? 人間か? それとも新種の動物?」
 そう言って奇異な目で覗き込む目と目が合う。
「うわ。こいつ顔に豹紋出てる。しかも目がネコじゃん」
 そっと檻の間から手を入れ触ろうとする手に殺意が湧いて唸り声を発する。
「おい、やめとけ。どんな細菌飼ってるかわからないだろ。本国からの実験体なんだから」
 後ろで檻の運び出しの作業を始めていた同僚の兵士の声に、好奇心剥き出しにしていた男が手を引く。
「へぇ、これ実験体か。でもなんでわざわざアルカディアに?」
「さあね。そんなこと新入り米兵の俺が知ってるわけないじゃん」
「まあな」
 好奇に嫌悪を混ぜた目を最後にグアルグに向け、男が貨物室から出て行く。
 檻が一つずつクレーンで吊り上げられ、トラックの荷台に乗せられ、ホロをかけられた状態で輸送さ
れていく。
 今度は灼熱地獄だった。
 ビニールのホロの中は四十度を越える高温へと変わり、それぞれの生き物から出た汗が密閉した空間
の中で湿度を上げていく。
 だが今度の苦痛は長くは続かなかった。
 どこかの建物に入ったことがわかった。
 ホロが外され、ムッとした湿気が逃げていく。
 自動で制御された檻の鍵が電子音を立てて外れ、自然と鋼鉄のドアが開いていく。
 その中から恐る恐る出てくるのは、極寒と灼熱を生き残った生き物たちだった。
 グアルグもその群れに混じって檻を抜け出し、トラックの荷台から砂の大地にとびおりた。
 そこにいたのは全身を汚れた布で覆って顔も肌の一部も見えない小柄な人型と、背中に透明な羽を持
った複眼の小女。クマの手と足を持った巨体の男。そして全身を硬質な緑の鱗に覆われた鋭い目をした
隻眼の男だった。
 グアルグなどその中では体も小さく、まだ幼い体だった。
「今回は五体が生き残ったか。ようこそアルカディアへ」
 円形の砂が引き詰められた巨大な空間に、突如として声が響く。
 声の主を捜して目を彷徨わせたグアルグは、はるか上方にあるガラス張りの部屋の中にいる人物を見
た。
 三人の人間が仁王立ちして自分たちを見下ろしている。傲慢さを滲ませた嘲弄の笑みを浮かべて。
「これから諸君には生き残りをかけたサバイバル戦を行ってもらう」
 サバイバル戦?
 固まって立っていた五人の異形の人間たちが顔を見合わせる。
「君たちには未知の可能性が眠っている。最強の兵士になる可能性が。だが可能性はその自分のもって
いる力で我々に示されて初めて価値がある。極寒の貨物室。灼熱の砂漠の移送。その全て君たちは耐え
抜き、すぐれた身体を持つことを証明してくれた。だから今度はすぐれた戦闘センスがあることを示し
てくれ」
 グアルグは今までの自分が置かれていた過酷な状況の意味を知って拳を握った。
 背後のトラックの荷台には、檻の中で死絶えた者の死体が転がされていた。
 極寒で凍り、灼熱で急激に溶かされた死体は腐臭と腐汁を発し始めていた。
 もちろんそれ以前に面識があった仲間であったわけではない。だが、檻に入れられ隣り合った女の子
や同い年くらいの男の子とは言葉を交わした。
 女の子は目の機能が退化した、真っ白な眼球とコウモリの羽を持っていた。言葉も超音波を発生させ
るだけで、最初は意志疎通もできなかったが、そのうち檻の鉄柱に超音波を当てて音に変化させ、グア
ルグにも分かる言葉で話し掛けてくれた人懐こい少女だった。そしてその女の子の隣りの檻にいたのが
鋭い狼の牙を持った男の子だった。人見知りが激しくて最初は差し出された餌にも震えていて手を出さ
ないような繊細な少年だったが、隣りで盛んに笑ったり話し掛けたりする少女に笑顔を見せるようにな
ったのだ。
 あの無視できない元気な女の子の声も、はにかんだ少年の牙の覗く笑顔も、永遠に見ることができな
いのだ。
「戦え」
 無情な宣告が冷酷な声で告げられる。
 顔を見合わせ一歩も動くことができずにいた五人に、頭上の声が続ける。
「戦え! 生き残った一人をアルカディアの軍隊に入隊させる。他は処分する」
 男の宣告と同時に五人の体に同時に巻きつけられたムチから高圧の電流が流され、円形闘技場の壁へ
と引きずられていく。
「ううううあああああ!!」
 痙攣して意志に反して動く筋肉が悲鳴を上げ、体の中から蒸気が上がり始める。
 ムチに引きずられ闘技場の壁に背中が押し付けられた瞬間、電撃が止まり、脱力した首筋にチクリと
いう痛みを与えて何かが注入されていく。
 顔が上げたグアルグの目に、正面の壁に押し付けられ、体をよじる虫の羽をもった少女の首に差し込
まれる青い薬液が見えていた。
 だが不意にその視界がぐらりと音を立てたと感じるほどに歪み、体を水平に保つことができずに砂の
上に崩れる。
 未だかつて経験がない眩暈に翻弄され、胃液が口から溢れる。
 苦しみは首筋から心臓へ伸び、血管を這っていく痛みの蠢きが心臓に達した瞬間、グアルグの中で何
かがはじけた。
 脳の中がかき乱されて赤く染まり、胸の中に憎悪と恐怖が溢れ出す。
 なんだこれは。この憎しみはなんだ。この恐怖は?!
 これから逃れるにはどうすればいいんだ? いったい誰のせいなんだ?
 グアルグはショートを起した脳の中を駆け巡る言葉に翻弄されながら、手の中に砂を握り締めた。
 あまりに強く地面を掻いた指先で爪が裂けて血を滲ませた。
「さあ、戦え! 戦うことだけがおまえたちの存在意義。自分の価値を自らの手でつかみとれ」
 神の声が頭上から降り注いだ。
 カっと顔を上げたグアルグの眼前に迫っていたのは、複眼の少女の目から血を流した醜悪な顔だった。
 グアルグが顔の前で腕をクロスさせて衝撃に備えた。だが急転換した少女が、耳障りなほどに高い羽
音を立てて笑う。
 その直後に血を噴出したのはグアルグの腕だった。かまいたちを起させる音速の攻撃がグアルグの腕
を切り裂いたのだ。
 骨が見えるほどに深々と裂け目を覗かせた腕を抱え、グアルグは地面の上を反転をうって転がった。
直後に背中を預けていた壁が裂け目を生じさせて砕かれる。
 戦わなければ殺される。
 グアルグは覚悟を決めて背後に迫っていた少女を見上げた。
 その少女の獲物を目の前にした狂喜の顔が、背後から迫った大きな手に握りつぶされ、肉隗へと変わ
る。
 巨大なクマの容姿を持った男が、手の中に残った脱力して垂れ下がった少女の体を投げ捨て、口から
ヨダレを垂らしながら咆哮する。
 クマの手には大木でも切り裂けそうなほどに鋭く頑丈そうな爪が生えていた。
 その手を頭上に振り上げて迫るクマ男に、グアルグも指から鋭く尖った爪を剥き出しにして走り出す。
 動きは遅い、だったら狙うのは自分の爪でも刺し貫ける急所への攻撃だ。
 砕けていた爪の一つを引きちぎると、クマの首筋を狙ってブーメランのように投げる。
 クマはそれを手で弾き、歯向かって来た敵に怒りのボルテージを上げる。
 だがクマ男が牙をむいてグアルグを見たとき、そこにはすでにその姿がなかった。
「のろまは死ね!」
 クマ男の巨大な背中を駆け上がったグアルグは、クマ男の首に足をかけて締めると、自分の爪をその
眼球目掛けて突き刺した。
 グアルグの両手の爪が、クマ男の眼球を潰し、さらに脳にまで到達してグシャリと音を立てる。
 悲鳴を上げる暇さえなく絶命したクマ男の背中からバック転をうって飛び降りたグアルグの足首を、
今度は地面から生えた二本の腕が掴んだ。
 その土の中の腕は、猛烈な勢いで地中へと突き進み、グアルグを地面の中へと引きずり込もうとする。
 中にいるのは、あのぼろきれで全身を覆っていた男に違いない。あれはモグラだったのだ。人間を土
の中に生き埋めにして絶命させる土の戦士。
 地面に爪をつき立て、渾身の力で足を地面から引き抜こうとするが、反するニ力に嫌な音を立てて足
首の骨が砕ける。
 苦鳴りが口から漏れ、血の色になった汗が額から滝のように流れ落ちる。
 爪も根元から何本かが折れ、ずるずると体が地面の中に引きずり込まれていく。
 そしてグアルグの体が腰のあたりまで引き込まれたとき、砂を蹴って走りよる足音に気付いて、涙の
浮んだ顔を上げた。
 絶対絶命だった。
 冷静に敵どおしが潰し合うのを待っていたのかが如く、緑色の鱗に全身を覆われた男が拳を握って突
進してくる。
 その拳に防御の姿勢をとれば、モグラ男に地面に引きずり込まれる。だが、地面にさした爪を引き抜
かなければ、ワニ男の拳に頭を砕かれる。
 ワニ男の体から発散される殺気に体中が震える。
 グアルグは残った爪で自分の足ごとモグラ男の手を刺し貫くと、一瞬緩んだ足を掴む力にワニ男の拳
の軌道から体を転がし避けた。
 ワニ男の拳がつい数瞬前までグアルグのいた地面に突き刺さる。
 そしてその衝撃波に地面から飛び出してきたのがモグラ男だった。
 膨れ上がった地面から跳ね飛ばされたモグラ男が、地面にもんどりうって転げ落ちる。
 ピクリと跳ねた体は、だがすでに死んだも同然だった。
 小さな見えぬ黒い眼球の横にある小さな耳から、血と脳漿が流れ出していた。
 あの一発の拳で、地面を変形させ、衝撃で肉体を砕くなどという化け物に自分が勝てるはずもなかっ
た。
 しかも体はぼろぼろ。武器となる爪もほとんどが欠けたり抜け落ちたりしていた。
 それでもゆっくりと自分へと歩を進めてくる男に、グアルグは痛む足で立ち上がると身構えた。そし
て足にためた力で一気に男に向って突進した。
 どうせやられるなら、一発でも殴ってやる。
 拳に力を込め、咆哮を上げる。
 構えた拳を渾身の力で振りぬく。
 だがそのグアルグが最後に見たのは、ワニ男の余裕の笑みだった。
 一瞬で消えたワニ男の声が背後に迫り、頭を掴まれる。
 ギシっと音を立てた頭蓋骨に悲鳴を上げ、残った爪を男の手につき立てる。
「こりゃ活きのいい子ネコだ。鍛えがいがある」
 その言葉と同時に、緩められた手の力から逃れてグアルグが地面に落ちる。
「合格だ」
 いつの間に頭上のガラス張りの鑑賞部屋から降りてきたのか、戦うことを強要した男の声が背後でし
た。
 傷つき、苦しい息をつくグアルグを見下ろし、白髪の混じり始めた男が笑みを見せる。極上のおもち
ゃを手に入れた歓喜の笑みで。
「今日からおまえは我アルカディア軍の優秀な兵の一人になるのだ」
 地面に手をついたまま憎悪の目で睨みつけるグアルグに男が言う。
 男がグアルグの前まで足を進めると、座り込み、砂と血にまみれた髪を掴み上げる。
「将軍。そいつは子どもでもリザルトの端くれ。危険です」
 ワニ男の警告と同時に牙を剥いて男の手に噛みついたグアルグだったが、顔色一つ変えずに笑顔で自
分を見つめる男に次第に恐怖を感じて牙にこめた力を抜く。
「そうだ。おまえはもうただの野獣ではない。兵士だ。わたしに逆らってはならない」
 笑みを浮かべたままに男がいう。
 だが次の瞬間にその表情は一変し、悪鬼の表情でグアルグの頭を掴み、その顔に頭突きをくらわせた。
「だが兵になるのなら、中途半端な攻撃は命取りだ。わたしの手の平の肉も噛み千切れないようでは使
い物にならん」
 鼻血を噴出し、砂の上にもんどりうったグアルグに、ワニ男はその体を肩に担ぎ上げる。
「わたくしが力の限りを持ちまして教育させていただきます」
 敬礼したワニ男の背中で脱力しながら、グアルグは意識を失った。
 そしてこれが、ワニ男部隊長との出会いであった。


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