Chapter 11    Just think what you can . Not   what you want!



 床に気絶して倒れたマメの顔に冷たいボトルが押し付けられる。
「ほら、飲め」
 開けようとした瞼は腫れあがって半分も開かず、口の中は血の味でいっぱいだった。
 起き上がるためについた腕や肩にも無数の青痣が並び、その痛みに顔を顰めれば、グアル
グがグハハハと豪快に笑う。 「痛いか? だがその痛みがおまえを強くする。体に叩き込め。どう動けはどう反撃が来る
か。反撃を受けたとき、どう受ければ自分の体へのダメージを最小限にとどめることができ
るか」  よく冷えた水を口に含み、血まじりの唾液とともに吐き捨てながら、マメは悔しげに顔を
顰める。  こんなにボロ負けする日々が続くとは、思ってもみなかった。  グアルグとの訓練をはじめてすでに1ヶ月になるが、グアルグに顔をしかめさせてやるだ
けの攻撃を加えられたことは一度もない。  いや、あるか。昼飯で余所見をしている最中に、奴の皿から鳥のから揚げを一つ奪ってや
った。そのときの悔しげな顔は今も良く覚えている。  グアルグが気づいた瞬間には口の中に放り込んで、これ見よがしにもしゃもしゃとかんで
やった。 「この泥棒猫め!」 「猫はおまえ」  大きな塊のままにゴクっと飲み込みながら、しれっとマメが言う。 「てめえのメシ代も、俺が払ってやってるって言うのに、感謝の一つもねえのか」  グアルグの小言を聞き流しながら、味噌汁の最後をひとすすりし、マメが「ごちそうさま」
と席を立ち上がる。  その背中に聞こえてきたのが、「最後の楽しみにとっておいたのに、畜生」というグアル
グの大人とは思えないつぶやきだった。  このときばかりはマメも思う存分ほくそ笑んでやったのだが。 「ちっとも強くならない」  自分の不甲斐なさを不満として吐き出し、マメはペットボトルをギュッと握りつぶした。  その様子をじっと見下ろしていたグアルグが、おもしろいものを見るように笑う。 「自分がどのくらい強くなったか試してみたいか?」 「あ?」  苛立ちに任せて眉間に皺をよせたまま見上げれば、グアルグが笑みを浮かべて見つめてい
た。自分のかわいい生徒の葛藤を嬉しそうに見守る教師の目で。 「俺はこれから1週間ばかりここを離れる。その間にひとつ任務を与える。そこで腕試しし
てこい」 「任務?」  マメは初めて聞く言葉に眉をしかめる。 「そうだ。アルカディアの特殊部隊と行動をともにしろ」 「特殊部隊って、ビジック?」 「そうだ。力試しになるだろ?」  保護都市アルカディアの精鋭部隊ビジックは、マメの憧れであった。 「うん」  初めて女の子らしい笑みを浮かべたマメに、グアルグがうなずく。 「明日、第三層バイオ研究班第一研究室に行け。そこでマリアと合流しろ」 「了解」    ハッと目を覚ましたマメは、薄暗い穴の中にいる自分が一瞬どこにいるのかを見失い、身
を硬くした。  鼻につく泥臭さと視線の先で自分と同じように眠りこけているダニエルとメリラを見て、
はじめて自分の今の状況を思い出す。  そうだ、ここはアルカディアではない。アルカディアの外。アンダーグラウンドの砂漠の
中なのだ。  そこへ自分はカオスとともに逃げてきたのだ。あのグアルグの手から。 「グアルグ………」  マメはその名前を苦汁が口の中に広がるようにしてつぶやいた。  グアルグは師であり、仲間であり、ときに頼れる兄ですらあった。あの日、グアルグがマ
メから離れていた一週間の前までは。  もちろん習っていたのは戦闘術。その中でも殺人術だった。  それでも二人の間には、強い連帯感が生まれていたのだ。ともに戦い、ともに眠り、とも
に戯れるなかで。  グアルグも、前はあんなに人をいたぶって楽しむようなサディストではなかったし、子ど
もを喰う変態でもなかった。  あの一週間が、グアルグを大きく変えていた。  一体何があったのかは知らないが、げっそりと痩せ、顔色も悪くなって帰ってきたグアル
グは、ひどく気味の悪い笑みを浮かべるようになっていた。  マメとの訓練も熾烈を極め、今までに経験がない、血を吐くほどのものとなった。  そんなある日、グアルグがマメの目の前に晒したのが、一本のクスリを満たしたチューブ
だった。 「CK11。これが何か分かるか? 自分を最強へと誘ってくれる魔法のクスリだ」  不気味な青色をした粘度の強そうな液体だった。  それをグアルグが赤い舌を突き出し、口の中に注ぎ込む。  ドロンと落ちたそのクスリを飲み込み、グアルグの瞳の色が残虐の光を湛えて微笑む。 「……なにクスリになんて頼ってやがる」  自分の汗と血の染みがついた床に両手をついたまま、荒い息の中でつぶやけば、グアルグ
がクスリの入っていたチューブを投げ捨て、脱力して壁に寄りかかる。 「……好きで飲んでるわけじゃねえ。上の命令だ。実験だとよ。だけど、それで強くなれる
っていうなら、願ったりじゃねえか」  吐き捨てるようにうな垂れ言うグアルグの、頚動脈や腕に浮き上がった血管が、あきらか
に異常を示して盛り上がり、ドクドクと蠢き始める。 「グアルグ。……やっぱおかしい、そのクスリ。もう、やらないで」  グアルグの前に立ったマメに、グアルグは血走った目を上げる。 「……CK11。おまえはやるな。命令があっても、そのときは逃げ出せ」  僅かに正気を見せていったグアルグだったが、次の瞬間、猛然とマメの体に飛びついた。  訓練再開かと拳を構えたマメだったが、グアルグは拳を振るうでもなく、マメの体を抱き
しめた。  そしてそのまま床に押し倒す。  何が起こっているのか理解するより前に、グアルグの唇がマメの唇を覆い、貪るように啄
ばみはじめた。  そして片手は、まだ何の凹凸もない子どもそのもののマメの体をまさぐる。  汗に塗れたシャツが引き裂かれ、パンツのボタンが引きちぎられる。  その段になってはじめて、マメは自分がグアルグに襲われていることに気づいた。  いつも隣で寝ていて、寝相の悪いマメがグアルグの顔に足を乗せて寝ていたことだってあ
った。だが、いつも隣にいたグアルグは父親であり、兄であるような、最も危険を感じるこ
とのない相手であった。  その相手が、初めて男の本性を剥き出しに、荒れ狂ったようにマメの肌を求める。 「ヤメロ! バカかお前。冗談じゃ、すませないぞ!」  暴れまわるマメの腕を押さえ込み、グアルグが濡れた瞳でマメの目を見つめた。  欲情で濡れ、だが同時にそこにあるのは助けを求める苦しみに塗れた視線でもあった。 「俺は狂ってる。誰もが俺を嫌悪の目で見やがる。でも、おまえは違う。おまえは俺の生徒
で、娘で、妹で」  グアルグの額から落ちた汗がマメの顔を塗らす。 「おまえは俺のものだ」 「ふざけるな!」  マメは力の限りにグアルグの股間を蹴り上げると、蹲った隙をついてその体の下から転が
り出る。  そしてそれと同時にグアルグの服のポケットから転がりでたものを手にしていた。  あのグアルグの飲んでいたクスリの入ったチューブだった。 「こんなもの飲むからおかしくなるんだ」  マメは足元のグアルグを見下ろすと叫んだ。 「返せ。それは俺のものだ」 「何がてめえのものだ。こんなもの、こうしてやる」  マメはチューブの蓋を外すと、自分の口の中に流し込んだ。  酷く苦い合成物質のにおいが口いっぱいに広がる。  それをなんとか飲み下したマメを、グアルグが呆然と見守っていた。  だがすぐに起き上がると、マメの顔を脇に抱え、口の中に指を突っ込む。 「吐け。早く吐き出せ。そうでないと……」  グアルグの指が喉の奥を刺激して、嘔吐を強要する。  だがその刺激で嘔吐するより前に、マメの体が吸収したクスリによって大きな変化を起し
ていた。  マメの体が痙攣を起して大きく仰け反り、呼吸困難を起した喉が激しい音を立て始める。 「……グ……ア………」  床の上でもがき、宙を引っかくように両手をグアルグの顔に伸ばす。 「しっかりしろ! おい、誰か! 医療班をここに、早く!!」  グアルグの声がマメの耳に悲痛な叫びとして届く。  だが焼け付く胃の痛みと、張り裂けそうな頭の痛みに顔を赤くしてもがき苦しむことしか
できなかった。  胸の中で心臓がドクンドクンと大きく跳ねる。  それが不意に一つ跳飛び、次には大きな津波のように大きな鼓動として押し寄せ、次第に
自分の中の鼓動が間遠になっていくのに気づく。  意識が白濁し、マメは思った。  死ぬんだ、これで。  だが次に目を覚ましたとき、マメは目の前で自分を覗き込んでいる少年を目にした。  それがカオスだった。  記憶の全てを失って打ち捨てられていた自分を拾ってくれたのが、カオスだったのだ。
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