chapter  1  It is ordinary to do the kill

  

 薄闇に閉ざされた一室の床に寝転がっていた少年は、目を瞑ったままで手の平を天井に向かって翳し
た。
 その手の平を一滴の水滴が叩く。
「ん?」
 寝ぼけ眼で顔をあげ、濡れた手の平をぼんやりと眺める。
「なんだこれ? 誰かの小便だとか言わないよな」
 少年は大あくび一つで起き上がると大きく伸びをした。
 その少年の体に纏わりついてくるのは、相棒のラブラドールのピース。随分と汚れて毛が絡まっては
いたが、茶色の毛はフカフカとして気持ちがよかった。
「ピース。おまえも寝てたのか? 動くと腹が減るからな。寝てるが一番だよな」
 だが少年がそう言った瞬間に、腹の虫が待ってましたとばかりに空腹を訴えて勢いよく鳴り出す。
 思わずうめいて腹を抱えた少年は、ベロリと顔を舐め上げてくれるピースに笑いかけた。
 そして再び頭上に手の平を翳し、飛び散る水の雫を見つめてため息をつく。
「ここもねぐらとしては気に入ってたんだけどな。そろそろ限界かな?」
 少年がそういって部屋の中を見回す。
 そこは、人が暮らすには到底相応しいとはいえないような環境だった。
 剥き出しのコンクリートの床には、砕けた壁の欠片が至るところに転がり、中には大人の男でも持ち
上げることができそうにない、岩ほどもあるものが転がっていた。
 砕けた壁からは錆びた鉄筋が剥き出しになって晒され、壁の至るところに滲み出た雨水で奇怪な絵画
を思わせる染みを作りあげていた。
 床には人一人が寝るだけの毛布が敷かれてはいたが、それ以外の場所にはうずたかく埃が溜まり、時
には動物の骨さえもが転がっていた。
 薄暗い部屋にある唯一の小さな窓には黄色く変色した布が一枚掛けられ、今も吹き込む風に大きく揺
らいでいた。
「そろそろ狩にでもいきますかね」
 少年はそういってのっそりと立ち上げると、その手に鋭い切っ先を持ったナイフを取上げる。
 窓の布をまくり、眼下の街並みを見下ろす。
 そこにあるのは、荒廃の限りをつくしたかつての大都市の姿があった。かつての名を東京。
 高層ビルのなれはては、かつての大都市を悼む墓標となり、骨と皮だけになった老人のようにそこに
ひっそりと建っていた。吹きすさぶ風に悲痛なうめきを上げながら。
 怪物の潜む廃墟を演出するにはもってこいの音だった。
 そして事実怪物が跋扈する場所がここ、アンダーグラウンドであった。
 殺人鬼という怪物が蠢き出す夜。
 窓の外には、陽が西に傾き、空気全体を朱に染まった世界があった。
「さて行きますか」
 少年が手の中にナイフをギュッと握る。
 少年の穏かな顔が、剣呑なものへと豹変する。
 足元にピースを従えた少年が、アンダーグラウンドの中へと歩き出して行った。


 気配を殺してビルの陰からビルの陰へと足を進める。
 ピースも少年カオスの狩のルールを熟知しているパートナーとして、足音一つ立てることなくカオス
の足元に従い、足を止めればその足元に伏せる。
 カオスが顔の前でナイフを構え、空を切る音だけを残してナイフを投擲する。
――キュ!
 その直後に動物の一瞬の断末魔とナイフが硬いアスファルトの上に転がる音が響く。
 カオスはその音ににんまりと笑うと、立ち上がった。
 カオスが手にしたのは、ナイフに串刺しにされた丸々と太ったネズミだった。
「おお。今日は大猟だな、ピース」
 カオスはうれしそうに腰に下げた袋の中にネズミを放り込んで中をのぞきこむ。
 そこにはすでにネズミが二匹、コウモリが一匹。ゴキブリが数匹入っていた。
 虫といえど蛋白源であるカオスには、ネズミの肉は大のご馳走であった。
「今日はいい日だな」
 ピースに笑いかける。
 だが次の瞬間、耳に入った音に反応したカオスの顔から笑みが消え、背後の建物の壁に身を押し付け
てあたりの気配を探った。
 聞こえたのは幼い子どもの悲鳴だった。
 殺人鬼が出歩くにはまだ陽が高い気もしたが、相手は殺人鬼ゆえに常識は通用しない。
 音の方向は、今カオスが体を押し付けているビルの中からだった。
 そっと目だけを覗かせてビルの内部を見やる。
 かつては美しく飾られたウインドウに多くの人が目を奪われ、街の中心を闊歩する大勢の人々を映し
出していたのだろう。だがいまやウインドウのガラスもメチャクチャに割られ、店内の棚やマネキンも
倒され、空間自体も生きる力を奪われたかのように淀んでいた。
 その薄暗く汚れた店内から聞こえてくるのは、激しい衣擦れの音と、子どもの手で口を覆われて押し
潰された悲鳴。そして荒い大人の男の息遣いだった。
―― 嫌な場面にぶちあたっちまった。
 舌打ちしたい気分でカオスはウインドウから顔を下げて蹲った。
 まさしくアンダーグラウンドは、弱肉強食の世界。弱いものは強いものに殺られても犯られても文句
は言えない。強きものが全てを喰らう。
 弱い子ども女は常に欲望の対象とされる。食欲、性欲、殺人欲。
 いちいちそう言った事態に感傷的になっていたのでは、この世界では生き残れない。
―― かわいそうだけど。俺は係わり合いになりたくないから
 ビルの中で喰われている子どもに同情しつつも、カオスはその場を離れようとした。
 だがそのカオスの意志を砕く爆音と爆風が頭上から襲い掛かった。
 ビルの入り口を、薄闇の包まれ始めたアンダーグラウンドを昼間に変えるほどの強烈なライトが照ら
し出す。
 カオスは眩しさに腕で顔を覆いながら光と爆音の発生源を見上げた。
 軍用の巨大なヘリが、頭上でホバリングしていた。その羽の回転が起す強烈なダウンフォースに激し
く風と埃が舞い上がる。
「グアルグ。上からの帰還命令だ。悪趣味もいいかげんに出て来い」
 ヘリの上からヘリの爆音に負けじと拡声器で呼びかける男の姿がかすかに見えた。
 そしてその声に反応したように、ビルの中から足元の砂を踏みしめる足音が出てくる。
 全身を黒い皮のスーツで覆った男がそこに立っていた。
 その手にはちぎりとられた子どもの首。
 その首の青い瞳がカオスを捉え、うろんげな瞳でじっと見つめていた。
 男は眩しそうに頭上を見上げてから、初めからカオスの存在を感知していたように笑いかける。
 だがその顔を見た瞬間、カオスは喉の奥から引き攣って上がる悲鳴に口を手で覆った。
―― リザルト!
 男の顔には、見事な金色の豹紋が浮んでいた。
 光の中で縦に細く光るのはネコ科の動物の瞳孔。
 男はカオスに見せ付けるように子どもの首を自分の顔の前に翳すと、血をこぼすその唇とキスを交わ
す。
「人捜しに来たんだけど、なかなか見つからないからイライラしちゃってさ。似た背格好の子どもを見
つけて遊びたくなっちゃったんだよな。な?」
 豹紋の男は応えない首に話し掛けると、次の瞬間にはおもちゃに飽きた子どものようにその首を放り
投げる。
 ゴトっと重量感のある音を立てた首が砕けたアスファルトの上を転がり、傷ついた顔をカオスに向け
る。
「おい、そこの小僧!」
 豹紋の男がカオスを指さして言う。
 カオスは首から目をそらすと、自分を見ている男に気付いて後退りする。
 その様子を心底馬鹿にしたように笑った男が言う。
「おまえに仕事をやろう。俺のかわいいおもちゃの子どもに同情するなら、埋めておいてやれ」
 そして男はヘリから降りてきたロープを掴むとカオスに向って投げキッスを送る。
「チャオ。次に会うときがきたら、俺がおまえを殺してやる」
 ヘリが爆音を上げて遠ざかっていく。
 その姿がはるか彼方に見えなくなるまで腰を抜かしたように眺めていたカオスは、震えて力の抜けた
腕にそのまま地面に寝転がった。
「……怖かった……」
 カオスの呟きに、隣りに座り込んだピースが鼻を鳴らしながら体をすり寄せる。
「怖かったよな。本当に」
 ピースの頭を抱きしめながらカオスが呟く。
 そしてピースの頭越しに見えた惨殺された子どもの切断された頭を、同情の思いで見つめた。
「助けてやれなくてごめんな」
 そっと殺された子どもに謝る。
 だが虚ろな目のその顔は、何も応えてはくれなかった。


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