§ プロローグ


 虫の声と風が渡っていく音だけが支配した、暗闇に閉ざされた山の中腹。
そこに突如空から現れた人影が倒れこむ。
 虫の声は突然の闖入者に沈黙へと変わり、代わって人の荒い息遣いが辺りに響く。
 時折うめき声が発せられ、震える息が激しい苦痛を訴えていた。
 血塗られたマントを羽織っていた男が、ついていた膝と腕を折ると地面に身を横たえた。
「……ここはどこだ……」
 頭上を覆う空は暗雲に覆われた光のない夜空。星の存在を感じさせてくれるものは何一つない。これ
では地理を知る術はない。
 男は震える息でため息をつく。
 それだけでわき腹を激しい痛みが走りぬける。
 呼吸さえままならない痛みに左の手をわき腹に沿わせる。すでに右腕は骨が砕かれて感覚すら定かで
はないからだ。
 裂かれた服に触れた瞬間に、ねっとりとした液体が音を立てるほど大量に手の平に付着する。自分の
体から流れ出た血だ。
「くそ!」
 悪態とともに目を閉じ、最後のシーンを思い返してわき腹を押さえていた手を拳に変える。
 手にしていたのは最後のリーナル(月の露草)であった。それでも勝機は自分の手の中にあると思っ
ていた。
 術の詠唱はすでに終盤へと差し掛かり、リーナルの葉から白光が放たれ始めていたのだから。
 目の前で振り上げられた大量殺人鬼の白刃を吹き飛ばし、千の刃となった雷光が対峙していた男の体
を無数の肉隗はと変えていく瞬間が目に入る。
 これで終わりだ。確かにそう思った。
 何人もギルドの術師をこの戦いで失った。命はあっても体に今後大きな支障をきたすほどの怪我をお
った者もたくさんいる。だが、今この瞬間に仲間の復讐は果たした。
 だが白刃に体を切り裂かれながらも、男の崩れ行く顔が一瞬の笑みを浮かべて自分を見たことに気付
いた。
 そして同時に体を襲った衝撃に、後方へと吹き飛ばされる。
―― おまえたちの後生大事にしているリーナルだ。くれてやる。
 すでに肉隗となって吹き飛んだ男の思念が耳元で囁きかける。
 腹に感じた灼熱に地面に転がったまま頭だけを起す。
 そこには月の光を受けて神々しいまでに輝く剣が深々と刺さっていた。
 多くの血を吸い、何度も打ち合わされて欠けてさえいる刃が、だがギラリと光を放ってそこに灯った
尊厳を主張するがごとくに直立していた。
 自分の腹に生えた剣の存在に衝撃を受けるよりさきに、剣の柄に握り貼り付けられていたリーナルが
光始める。
 青白い光を伴って円形のサークルを描き出したリーナルに、そこに掛けられた術の正体を知ったが、
すでに時は遅しだった。
 次に気がついたときにはここだった。どことも知れぬ山の中。ただ救いは木々で覆われた山の斜面に
投げ出されたのではなく、開けた山の中腹であることだった。
 仲間もいない。治療の術に使うためのリーナルもない。
 転移の術の痕跡を追って仲間が助けてきてくれるのを待てるほど、自分の症状が軽微ではないはずだ。
 このまま死ぬのなら、せめて空が見える場所で死にたいと思ったのだ。
 風が男の倒れた草原を揺らしながら通り過ぎていく。
 再び始まった虫の鳴き声に、死を覚悟した穏かな心で耳をすませる。
 ここにあるのは闇ばかりで一人死に行くにはいささか寂しい気もしていた。だが、気がつけば自分を
覆うばかりにたくさんの生命の気配が漂っていた。
 虫。鳥。花。
 草原のどこかには、息を潜めた動物たちもいるに違いない。
 こいつらに看取られるのも悪くはない。
 そう達観したときだった。男の鼻先をくすぐった甘い香りがあった。
 花の香りだった。それも記憶に新しい濃厚な甘さを含んだ香り。
 男は目を開けた。
 それを待っていたとばかりに、中天の雲の合間から月が青白い顔を覗かせる。そしてそっと男に向っ
て手を伸ばす。
 月の手から放たれた光が、舐めるように風になびく草を照らし出す。そしてそこに存在していたもの
の姿をあらわにする。
「これは……」
 男はすぐ目の前にある、自分を覗き込むようにしている青い花を手に取り、両手に挟んで愛しいもの
を抱きしめるように顔に押し当てた。
「リーナル」
 男の手の中で淡いピンク色を放ったリーナルの力が男の体の中に流れ込んでいく。そして光は男のわ
き腹で一際大きく輝くと音を立てて切り裂かれていた傷を塞ぎはじめる。
 傷を焼ききるような痛みにうめきを発した男ではあったが、すぐに和らいでいく痛みと体の底から湧
きあがる力に、一度は手離す覚悟を決めた命が手の中に戻ってくる喜びに心を奮わせた。
 草の上で半身を起した男は、若い肉が盛り上がるようにして修復されていく傷に、覆っていた手を外
した。
 いつも使用しているリーナルのもつ力の比ではない。非常に大きな力を秘めたリーナルだった。
 男は腹から抜け落ちて転がっていた剣を杖代わりに立ち上がると、辺りを見回した。
 月の光に発光した山の中腹の草原一面を、リーナルの青い花が覆っていた。海の色よりも濃い、ラピ
スラズリを溶かし込んだような宝玉の青。
 男は圧倒されるように後退さる。
 リーナルの発する媚薬にも似た香りに酔わされたかのようだった。
 その名のごとく、月の雫を滴らせ、リーナルは光り輝き風に揺れていた。




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