間章   森の香りに混じる邪悪な匂い


  
 手にした蝋で封印されていた手紙に目を通しながら、目の前にいる男に目をむける。
 漆黒の衣服に身を包んだその男は、抜け目ない狡猾さを覗かせた目を、貼り付けた笑みで中和させな
がら立っていた。
 年は人の上に立つ者としては若いだろう。まだ髪に白いものも混じっていない。見た目の年齢をいえ
ば三十代の後半か、あるいは四十代のはじめ。
 だがその若さをもってしても人に見下げられることは許さない、触れればただでは済まされない冷徹
さがその全身から漂っていた。
「全ては偶然ではなく、必然。歴史が王、あなたの決断を促がしているのです。時が語りかける声がき
こえませんか?」
 凛と空気が凍えるような声だった。
 王と呼びかけられた壮年の男は、手にした書簡をテーブルの上に下ろすと、その横に並んだもう一通
の書簡に目をやる。
 目の前の男が運んできた密約書。まるで血ですいて作ったかのような赤い紙が、協定を結ぶための署
名を待っていた。あとは王たる自分がペンを取って署名すれば、王国は今までには持ち得なかった強力
な力を手にすることになる。だが同時に、その背中に重く圧し掛かることになるであろう、淀んで暗い
諸悪の根源たる暗黒のベールが感じられるだけに、署名するための手がペンを握ることを拒む。
「何を躊躇われるのです? 我々の力は絶大。王、あなたと手を取り合ってこの世界に平安をもたらす
使者となるのです。緊張というバランスではなく、完全なる平安をもたらす力となって」
 黒衣の男がその長いローブの袖に隠れていた腕を伸ばすと、わずかに覗いた指先で空中になにかを描
きだす。
 王の前に置かれていたグラスの中の水が、一瞬の光に包まれた後で、深紅にそまる。そこから立ち上
る匂いは、生臭い血の香り。
 王はゆっくりと不快を示す視線で男を見る。
 だがその視線をまっすぐに受け止めた男は、口元に笑みを浮かべる。
「今の世界は、ほんの一押しでこの血に大地を染める不安定なパワーバランスでなりたっている。それ
は、わたくしよりも、王がよくお分かりでしょう。中原のエアリエル王国、北の大国グラナダ王国。信
仰と麗しい都をもつオイノール皇国。この三つが決して崩れない三角形を作り上げてきた。だがその不
安定な三角形は、常に力の入れ具合によって脆く崩壊する危険性をはらんできた。それゆえに、その三
国に隣接する小国は、常に息を殺して世界の空気を読み、読みが当れば平安と豊かさを、読み違えれば
阿鼻叫喚の地獄を見てきた。そうではありませんか?」
 ゆっくりと空気を震わせて伝わる男の言葉に、王はグラスの中の血の溜まりを見つめた。
「確かにその通りだ」
 歴史は戦争を繰り返し、いくつもの条約を結んではそれを覆し、腹の探りあいと化かしあいばかりを
続けてきた。
 近年は三国のパワーバランスが均衡したために安定した時期を送ってはきたが、それゆえに各国の都
市は発展し富んだ。
 食にありつけないことは珍しいこととなり、庶民にも商売に成功した富裕層が増え始めた。女たちは
身を飾ることを楽しみとし、男はその女の誘いにのって一夜の情事を人生の一滴の潤いとする。
 もう以前の生きることそのものの根源が持つ苦しさを味わうことを忘れていた。
 そんな国民は、三国の微妙な力のバランスが崩れる日が来ることなど永遠にないと考えている。いや、
考えようとしないでいる。
 だが押し合いを続ける腕は、すでに疲れているのだ。どこで折れるかは分からない。
 そして今この書簡に署名をするということは、そのバランスを自ら壊す決定打になるのだ。
 世界に争いがはじまる。
 多大の血が流れる。
 それでも、それは新たな世界を迎えるための必要不可欠な生贄の血であるのだ。生まれ変わるとき、
そこには計り知れない力が必要になる。その流れに見放された命は尽きるしかないのだ。
 黒衣の男が苦悩する王に向けて、再び指先を振る。
 血で満たされていたグラスの水が、再び透明な液体へと姿を変える。
 だがそれはただの水ではなかった。仄かに清涼感のある香りを運ぶその水は、王も知る自国の貴重な
樹が生み出す水だった。
 わずかに緑の色を含むその水を、黒衣の男が愛でるように眺める。
「地に降り注いだ天からの雨を、この命の水に変えるのは死した木々の葉や枝、動物たちの命の果てで
ある骸が作り上げた大地。犠牲あって、はじめて麗しいこの水ができあがる。そして大地に流れる血を
吸い上げて、その身で濾過し、命の水に変えるがあなた。そしてあなたの王国」
 男の背中を押す一言に、王はペンを手にとり、一つ息を吸って気持ちを整えた。
 思惑は一致している。
 王はエアリエル王国のもつ豊穣なる土地と権力を、そしてこの男はその土地にあることが分かった魔
法を生み出す葉、リーナルの独占を欲している。
 王はペンにインクを満たすと、サインを記す。
 それを見て口元の笑みを深くした黒衣の男が血色の銘約書を手にすると、王の耳元でささやく。
「この決断をされた王に、我らマイノールの協力のほかにプレゼントを」
 そして囁かれた言葉に、王は目を見張り、自分の胸に秘めていた想いを読まれていた衝撃に頬を赤ら
めた。それは屈辱でもあり、期待でもあった。
「どうぞ我らにおまかせを」
 黒衣の男はうそぶくと、ローブの袖を振り上げた。
 そしてその袖が舞い下りたとき、そこには誰もいなかった。
 ただ王の前に置かれたグラスの中の水だけが、ここに常人とは異なる力を有した男がいたことを証明
していた。
 非公認ギルド、マイノール。
 これでパワーバランスは崩す楔が打ち込まれたのだ。
 大陸随一の大国エアリエル王国、そして公認ギルド、ノードとの間に。


 歴史のまわす歯車は、飛び散る血に染まる。

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