第五章  幻想



「ロクサーヌ、死んじゃヤダァァァァ!!」
 アストンはすぐさま下敷きにしてしまったロクサーヌの上から下りると、白目をむいてい
るロクサーヌの体を揺すった。
 だが揺すられるだけで反応しないロクサーヌは、あろうことかガクっと首を横に傾け、ま
るで事切れた人間そのもの姿勢で動かなくなる。
「いやぁぁぁ、ぼくが殺しちゃった!」
 頭を抱えて叫んだアストンだったが、自分の胸に手を当て、大きく深呼吸すると自分に言
い聞かせる。
―― 落ち着け、アストン。まずは本当に死んでいるか確認だ。死んでいなかったら、人工
呼吸とか心臓マッサージとかで救命する。仮にももし死んでいたら、う〜〜〜〜ん、ええっ
と、クリステリアに見つかる前に湖にでも死体を捨てて………。ああ、ダメだ。お世話にな
ったロクサーヌをお魚の餌にするなんてぼくにはできない! 自首だ。本当のことをクリス
テリアに話して………。って、あの姫が良きに計らうなんて親切なことしてくれるわけない
じゃん。「よくもわたしの騎士を殺したな」って、拷問の嵐が待っているに違いない。ああ、
それは嫌だ。
 とんでもない想像に肩ではぁーはぁーと息をついたアストンは、さらに思いついたことに
ハッとして顔をあげた。
―― これってマイノール的にもまずいんじゃないのか? もしこのまま逃げてマイノール
に戻ったとしても、マイノールの術師がエアリエル王国の姫付騎士を殺害。即敵対関係ので
きあがり。そして………。
「戦争だ!」
 青ざめた顔で悲愴そのもので叫ぶ。
 だがその底なしマイナス思考が運よく停止する。
 ひざまずいた足元で、ロクサーヌが苦しそうに唸ったのだ。
「あ、ロクサーヌ。生きてるんだね。ああ、よかったぁ。助かったんだぁ」
 真面目に感動してロクサーヌに抱きついたアストンは、いまさらのように目の前の額にた
んこぶができているのに気づいてポンと手を打った。
「まずは冷やそう!」
 そして自分の使っていたタオルを手にとると、井戸まで走っていく。
 ガラガラと井戸の水を汲むための桶を下ろしていく。
 その音を聞きながら、意識を取り戻したロクサーヌが、瞬間、ズキンと頭から足先へと突
き抜けた痛みに顔をしかめた。
 あまりに痛みに声も出ず、うめき声しか上げられない。
 この痛みはなんだ? と記憶をたどったロクサーヌは、ついさっきのアストンが巻き起こ
した事故を思い出し、ため息をついた。 
  目を開ければ視界が回ったり星がチカチカ飛ぶこともなく、吐き気もない。
 だがそっと額に手を伸ばせば、明らかに異常なでっぱりが指に触れる。
「あ、ロクサーヌ、目が覚めたんだね」
 アストンの声が頭上でそう言うと、ズキンズキンと痛みを発している額に、冷たいタオル
が乗せられる。
 その冷たさに、頭の中全体が熱を持っていたような痛みが一瞬、和らぐ。
 それだけのことで、ロクサーヌの中でアストンへの爆発寸前だった怒りが影をひそめて小
さくなっていく。
「ごめんね。ぼくのせいでロクサーヌが怪我しちゃった。怪我どころじゃないよね。もしか
したら死んでたかもしれないのに」
 タオルで陰になって見えないアストンの萎れた声に、ロクサーヌはそっとタオルを寄せて
盗み見る。
 そこには本当に子どものように弱り果てて、涙ぐんだアストンの顔があった。
 そのアストンの目とロクサーヌの目が合う。
「いいよ、アストン。別に無理にやったわけじゃない。事故だ。わたしも不用意にお前の足
元に近寄ったのがいけなかったし」
 その一言でアストンの目を潤ませていた涙が一気に膨れ上がる。
「で、でも、ロクサーヌだって一応女の人で、結構キレイな人なのに、僕のせいで顔に怪我
しちゃって」
 その言葉にロクサーヌが内心で乾いた笑いを上げる。
 一応女の人って……。
 でも結構キレイという言葉が続いたことでよしとする。
「大丈夫だから。それにタオルありがとう。冷たくて気持ちいいよ」
 お礼を言いながら、グズグズと鼻を鳴らして涙を拭っているアストンの手を握ってやる。
 ほんの感謝と、落ち込むアストンを励ますつもりで握った手。
 だがそれをアストンは感動の目で見おろすと、鼻水を拭ったその手で、ギュッとロクサー
ヌの手を握る。
「ロクサーヌって本当は優しいんだね。ぼく、ロクサーヌの顔に傷が残ったら責任取るから」
 その真剣な目に、引き気味なロクサーヌが尋ねる。
「責任って?」
「ぼくがロクサーヌをお嫁さんにしてあげるから」
 そう言ってジッとロクサーヌの目を見つめる。
 よ、嫁?
 ロクサーヌは開いた口を閉じられないでアストンの顔を見返す。
 ついさっきまで泣いていたせいで潤んでいて赤い目が、じっと自分を見つめていた。凍り
ついた泉のようなアイスブルーの瞳が揺れていた。その瞳に影を落とす銀色のまつげ。
 アストンは、よく見るとキレイな顔をしていることに気づく。
 白い肌が自分よりもずっとキレイだった。
 その白い頬が、ほんのりと桃色がかっているのに気づいてロクサーヌが目を疑う。
「ロクサーヌ。ぼく、ロクサーヌこと、……好きかも」
 握られていた手をさらに強く握りしめられ、さらにアストンの片手がロクサーヌの頬に触
れる。
 タオル下の目を見開いて見つめ返すロクサーヌの顔に、アストンの顔が近づく。
 頬に触れていた手が頭の横につかれ、迫ってくるアストンの体の重圧を感じ始める。
「ちょ、ちょっと待って、アストン。何、急に発情しちゃってるのかな?」
 ぐっと手を伸ばしてアストンのアゴを押しやったロクサーヌが叫ぶ。
「は、発情……って、そ……んな風……に言わなくても。…ぼく……はただ……」
 顎を押しやられた喋りにくそうにしながら、それでもここは男の意地なのか、顔が変形す
るのも構わずにキスをしようと迫ってくる。
「ロ……クサー……ヌ。ぼくと……結婚……」
 こんな犯罪のただ中のような体勢でプロポーズしようとしたアストンに、ロクサーヌが顔
を赤くして叫び声を上げる。
「いやぁぁぁぁぁぁぁ!!! (生涯初のプロポーズがこんなんだなんて!!)」
 ロクサーヌの恐怖の叫びが森の中にこだまする。
 誰か助けてぇ!!
 まるでか弱い乙女のようにロクサーヌがそう願った。その瞬間。
「女の子を襲うなんて卑劣です!」
 高い女の子の怒りの滲んだ声が聞こえ、次の瞬間アストンがロクサーヌの上で「うっ!」
と呻く。
 そしてアストンが自分の股間を抑えると地面に転がり落ちる。
 自分の上の障害物がなくなってすっきりした視界の向こうに、ロクサーヌは女の子が一人
立っているのを見た。
 思いっきりアストンの股間を蹴り上げた姿勢のまま、顔を上げたロクサーンと目が合う。
 その顔にロクサーヌが「あ!」と声を上げる。
 その顔は、主君クリステリアと瓜二つなのであった。

 
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