第五章  幻想

     
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「あ〜あ、暇だな」  テーブルに突っ伏したクリステリアがため息交じりに叫ぶ。 「暇だ、暇だ、暇だ」  そういうクリステリアの突っ伏したテーブルの上には何冊もの分厚い本が重ねられ、イン ク壺とペンが転がっている。 「暇だではなく、しっかりお勉強ください。クリステリア様は、次期エアリエル王国の女王 でもあられるのです。帝王学、地理学、歴史、あらゆる知識が必要とされるお立場なのです。 悪知恵だけでなく、本物の知恵もつけていただかないと」  ロクサーヌが両手にいっぱいの薪を抱えてクリステリアの後ろを通りながら言う。  勉強嫌いのクリステリアは、一〇分と集中していることができず、すぐにグダグダと文句 を垂れ始める。  こといたずらのためなら、何時間でも策を練って罠を作り、獲物がかかるのを虎視眈眈と 狙えるのに、勉強という言葉にはアレルギーを起こし、脳みそを機能停止させてしまう。  暖炉の横に薪を積みながら、ロクサーヌは困ったものだとタヌキ寝入りをしている姫を眺 める。 「いいですか、姫。今は大国間に争いもなく、大きな飢饉や災害も起きていない平時が続い ていますが、いつ何時その均衡が崩れるかも分からないのです。もちろん、平和が続くよう に努力することも王家の務めですが、有事の際に民を、ひいては国を守るのが王の役目です。 そのときのために今勉学に励んでおくことが大事なのです」  怒ってばかりもいかんだろうと、ロクサーヌが説き伏せるように静かに言う。 「分かってます」  それに拗ねたように返事をしたクリステリアだったが、ちっとも分かっていなそうにテー ブルに押しつけた顔を上げようとはしない。 「まぁ、戦の際には、もしかしたら姫のいたずら根性が役に立つのかもしれませんがね」  諦めモードで言って背を向けたロクサーヌだったが、不意に背後で頭を起こすクリステリ アの気配に足を止めた。 「ねぇ、ロクサーヌ。今エアリエルと事を構えられるほどの大国といえば、グラナダかしら ?」  やけに機嫌のいい声で尋ねられ、ロクサーヌは何か良からぬことが起こっている予感で振 り向いた。 「現在の大陸を治める大国はエアリエルとグラナダ、そしてオイノールの三国。ですがオイ ノールは中立を胸とする宗教国故に、好んで戦は仕掛けて来ないでしょうからね」 「ふむ。戦争するならグラナダか」  そう言うとクリステリアはキラキラと輝く目で地理学の本を手に取る。 「あの、姫。いったい何のお勉強を」  言いかけたロクサーヌに、先ほどまで勉強などやりたくないモードのふ抜けた目であった とは思えない、鋭く、ハッキリ言って恐ろしいほどの不機嫌な目が向けられる。 「ロクサーヌはうるさい。少し静かにして!」  自分の集中を乱すなと怒鳴るクリステリアに、ロクサーヌは仕方なしと頭を下げ、再び薪 を採りに外へと出ていく。  どうやらクリステリアの壮大なイタズラ計画が練られ始めているらしい。 「ま、計画だけならいいか」  ロクサーヌは扱いづらい主人にため息をつきながら、玄関のドアをくぐる。  せめてクリステリアから離れた肉体労働中くらい、心やすらかに仕事がしたい。  そう思うロクサーヌだったが、やはりそこにも心静かではいられない事態が待ちうけてい る。 「あ〜〜あ〜、ロクサーヌ、助けてぇ〜。斧が、斧がぁ!」  そこには、どうやったら薪割りをしていてそんなことになるのか理解できない状況に陥っ ているアストンがいた。  アストンが木に宙づりになっている。  木の幹、地上から二メートル強ほどのところに刺さった斧の柄を掴んで、抜けなくなった と叫んでいるのだ。  ロクサーヌは、もう耐えられないと腹のそこからストレスを吐きだすべく大きなため息を ついた。  わたしは出来の悪い子どもの乳母じゃないんだ。れっきとした姫付の騎士なのだ。それを、 姫はあろうことか戦争ごっこの計画に目を血走らせ、どこの馬の骨ともしれぬへっぽこ術師 は薪割り一つできずに大騒ぎだ。下手に大人なぶん、子ども相手のより性質が悪い。 「アストン。いったい何をやっているんだ」  イラついたロクサーヌの声に、アストンは涙声で答える。 「薪割り。……真面目にやってたよ。でもぼくはロクサーヌみたいな馬鹿力じゃないから、 一度ですっぱり割れないんだよ。それで力いっぱい斧を振り上げたらよろめいて、斧が手か ら飛んで行きそうになって……」  いい加減、柄から手を離せば良いものを、宙づりのまま、必死になって首をよじってロク サーヌに言い訳している。  ああ、なんてバカなんだ。  あまりに腹が立って助けてやる気にもならず、ロクサーヌが意地悪く腰に手を当てると言 った。 「あ、そう。でも、あんたもへっぽこでもマイノールの術師なんでしょう。だったらその術 っていうので、木から斧ぐらい抜けないの?」  その言葉に、それまでバタバタと足を動かして斧を抜こうとしていたアストンが、不意に シュンと萎れる音が聞こえそうなくらいに力なく斧からつり下がると、やっぱり涙声で言う。 「術師って言っても、ぼくなんてロクサーヌの言うとおりにへっぽこでリーナルで力を増幅 しなきゃ、なにもできない。あったって、まともにできないけど」  もう大泣き寸前の濡れて震えた声で言われると、ロクサーヌも意地悪すぎたかと悪いこと をした気分になる。 「ぼくなんて、ぼくなんて………」  斧から下がった情けない姿で背中を震わせる姿はあまりに憐れで、ロクサーヌは慌ててア ストンの足元に駆け寄る。 「悪かった。お前も一生懸命だということは分かっているから、そんなに自分を卑下する――」  アストンを見上げてそう言っている最中だった。 「あ」  アストンが頭をあげて呟く。  その視線の先で斧がグラリと揺れて木の幹から抜け、アストンもろとも落下する。  そしてその体と斧は、もちろんロクサーヌの上に落下する。 「え、ええーーーー」  いくら騎士とは言え、女のロクサーヌに男のアストンを抱きとめる力があるわけもなく、 運悪く大きな図体の下敷きにされる。  そして、これが極めつけの悪運と、斧の刃がロクサーヌの額を激突する。 「ああ! ロクサーヌ!!」  目から星が飛び散るのを見ながら、ロクサーヌは激しい脳震盪に意識を失った。その最後 の思考を彼方に飛ばしながら。  わたしって、どうしてこう運が悪いのかしら。  でも、ある意味斧の刃の峰が額に当たったロクサーヌは最後の最後で最悪の運命から逃れ られる強運の持ち主なのかもしれなかった。もちろん、巨大たんこぶからは逃れられないが。  
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