第四章 逃亡、逃亡、逃亡



 アンリはベッドの上、トゥールは離れたソファーの上で、それぞれに無言でフルーツを齧る。
 一体自分たち二人の上に何が起きたのだろう?
 あまりの思い悩みに味など全く感じない。
 トゥールは自分の記憶を信じて思い返してみるが、やはり手を出した覚えはない。
 アンリには背を向けて寝たはずだ。確かペトっと背中に張り付いてきたアンリに生唾は飲んだが、
それでも我慢したのだ。そうだ、ものすごく我慢した覚えがしっかりと残っている。っていうことは、
手は出していないのだ!
 とは思って自分を勇気づけるのだが、寝てしまってからは分からない。
 もしかしたら自分には夢遊病の気でもあるかもしれないではないか。
 そして一方のアンリは、リンゴを齧りながら、物思いにふけっているトゥールが自分を見ていない
ことを確認して、そっと布団の中を覗く。
 あ、よかった。下はちゃんとはいてる。じゃあ、寝ていて知らぬ間に王子様と初体験していまいま
した、なんて馬鹿な、いやもったいない真似はせずに済んだ。う〜ん、でも、トゥールの恋人になり
たいのって言われれば、ちょっと違うようなぁ……。困ったなぁ。
 お互いにそんな思いを持ちながら相手を見て、ピタリと目が合ってしまう。
 一瞬の沈黙と、言葉にならない互いの混乱の視線のやりとり。
「あ、えっと、昨日の夜のことは覚えてる?」
 トゥールがしどろもどろで尋ねる。
「ん? 一緒に飲みに行ったこと? それならよく覚えてるよ。わたし変なもの食べてたよね。虫の
足かじってた記憶があるんだけど」
「ああ。そうだね。そのあとのことは?」
「後? え〜、そういえば、わたしどうやってここに帰ってきたんだっけ?」
「覚えてないの?」
「うん。酔っぱらっちゃったんだね」
 こりゃ困ったと頭をかいて笑うアンリに、胸元で押さえていたシーツがハラリと落ち、白い双丘が露
わになる。
「あ」
 トゥールはしっかりその先端の薔薇色の蕾まで目にして声を上げる。
 そしてアンリの方も、自分の胸がサービス満点で晒されていることに気づいて「おわ!」と声をあ
げて隠す。
 あまりに色気のない声を上げてトゥールを見たアンリだったが、特に恥ずかしがるでもなくシーツ
を体に巻きつけると王子の前まで歩いてくる。
 かえってトゥールの方が顔を赤くして、ソファーの上で後退さる。
「ねぇ、どうしてわたし、上の服着てないのかな?」
 単刀直入で聞いたアンリが、トゥールの手にしていたオレンジを横取りすると、腕につたって滴る
果汁を舐める。
 それが無意識なのか意識的なのか、酷く煽情的に指を這うアンリの舌に慌てて目をそらしながら、
トゥールは混乱の中で思考する。
 俺は絶対に手は出していない。でも、だったらなんで上着を着てないんだ? 俺が脱がせたのか?
 わからない……分からないからと言って、もしかしたら責任があるかもしれない女を放り出してい
いのか? っていうか、愛妾にしろなんて言われてたんだった。この子と結婚? いやいや、それは
……。いい子だよ。でも、妻にって言われたら考えちゃうでしょう。ナイフをバナナって言って食べ
ようとするんだよ。だからこそ正妻じゃなくて愛妾なんだろうけど。だいたい愛妾って言葉が嫌いな
んだ。母上だって正妻じゃないからこそ苦労されていたのを見てきたし………ああ〜〜〜〜〜!!
 心の中では頭を抱えてのたうち回っていたトゥールだったが、外面はしっかりとアンリに目を向け、
その目を見つめていた。
「アンリはどうしたいんだ? 俺と」
「トゥールと?」
 オレンジの果汁に濡れる指を舐めながらアンリが首を傾げる。
「トゥールは王子様なんでしょう? ってことは、でっかい宮殿なんかに住んでて、なかなか一緒に
いられないんでしょう」
 アンリはトゥールの隣に腰を下ろすと、他のフルーツを物色しながら言う。
「わたしにも、一応理想の結婚像っていうのがあるのね。貧しいながらに夫と二人、手を取り合って
畑を耕したり、羊を飼ったり、子どもは二人か三人で、庭の木にブランコ作ってあげて遊んであげて、
毎日ラブラブちゅーなんてしちゃって」
 アンリの妄想未来を聞きながら、トゥールは一応真面目に頷いてやる。この女が母親になどなった
ら、その家はどうなってしまうのだろうと思いながら。
「でも、それってトゥールとでは決して叶えられない夢だと思わない? トゥールはいい人だし、カ
ッコイイし、わたしは好きだけど」
 ソファーの上で膝を抱えて座るアンリが、折った膝の上に頬を乗せると、隣のトゥールを見上げる。
 それを横眼で見降ろしながら、トゥールは思わずドキっとしてしまう。
 か、かわいいかも。
 濡れて輝く唇を少し突き出し、大きな目でじっと自分を見つめるアンリが、いじらしく見えてくる。
 裸の肩に流れる髪まで、純真無垢な天使のような輝きに見えてくる。
「……ぼくは王子っていっても、王位継承は兄二人のうちどちらかがするだろうから、いずれ田舎の
城に戻るとは思うけど。そうすれば、別に妻と別の宮で暮さないといけないとかないし、うちの城は
まわりがオレンジ畑だったりするから、アンリが畑仕事したいっていえば、できなくもないかな?」
 逃げられるかもしれないと思うと、急に惜しくなってくる気もして、自分でも思いがけずアンリを
引き留めるようなことを口にしてしまう。
「え? 本当に? 子どもにブランコ作ってくれる?」
 もうそんな話かい? と思いつつ、迫ってくるアンリにトゥールは思わず頷いてします。
「だったらトゥールのお嫁さんもいいかも」
 ……お嫁さん。
 なんだかアンリの思い描くものと現実のスケールが違い過ぎる気がしたが、トゥールはとりあえず
今後の方針としてアンリを側において付き合ってみようと思いを決め、テーブルの上のリンゴを手に
取った。
 つやつやと赤く輝くリンゴを眺めながら、トゥールは考えていた。
 クリステリアを想う気持ちは前と変わっていない。憧れという範囲でしかないことも理解している。
それに対してアンリは目の前にいる。
 顔がそっくりな二人を前にしたときに、自分の心がどちらに揺れるのかは、実際にその場にならな
ければ分からない。
 正統なる王家の気位の高い姫に心をよせることになるのか、藁の香りがするような田舎娘の素朴さ
に惹かれるのか。
 いずれにしろ、こうして知り合ったアンリを手放すのは、今は寂しいというのが素直なところだっ
た。
 そっと隣を盗み見れば、アンリがトゥールの齧ったリンゴを見ている。
「食べるか?」 
 問いかければ、笑顔でアンリが頷く。
 自分の齧りかけのリンゴをアンリの口元に持っていけば、ガリっと音を立てて齧りつく。
「うまいか?」
「うん。おいしい」
 シャクシャクといい音を立てて食べるアンリの笑顔に、トゥールもつられて笑顔になる。
 そしてそっと手を伸ばしてその頬に触れると口の端に口づける。
「アンリ、俺と来るか?」
 鼻先三ミリで囁かれた言葉に、アンリが少しの間をおいて頷く。
「トゥールと一緒にいれば、おいしいものが食べられるもん」
……って、そこ?
 思わず突っ込みたくなるところだったが自分にもアンリに告げていない秘密があるのだから、あい
こということにしておく。
 自分とクリステリアが両天秤に掛けられていると知ったら、一体どうするのだろう。
 まぁ、俺とケーキを天秤に掛けたらケーキに傾くこと間違いなしなアンリなのだから、きっと許し
てくれるだろう。
 トゥールがリンゴを齧る。
 甘酸っぱいリンゴの香りが、はじめてトゥールの鼻孔をくすぐった。

 
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