第四章 逃亡、逃亡、逃亡



 なんとも豪快な嘔吐の声に、思わず追手も足を止めた。
「ウオォォォォェェェェ」
 アンリを担いでいたトゥールは慌てて肩から下ろしたものの、見事に最悪の予想通りにゲロを浴び
ていた。
 そして当のアンリはどんだけ胃に食い物を詰めていたんだという勢いで、まだまだ出てくる内容物
を道に吐き出していた。
 それを見て追手の町のゴロツキ二名が、最大限の嫌悪と同時に王子に対する同情の目を向けていた。
 あんな変な色した、色とりどりのゲロ浴びたら、くっさくて何日もメシ食えなくなりそうだぜ。
 男たちのそんな感想をそのままに、トゥールも思いの中でそう思っていた。
 だが同時に地面に這いつくばったアンリの側に、ずっと掴んで離してくれなかったナイフが転がっ
ているのに気づく。
 まさしくこれは好機。ゴロツキ二名はアンリのゲロに戦闘モードを離れているし、トゥールは武器
を手に入れることができる。
 が、それは、なんだか触るだけでヒットポイントが一気に消費してしまう呪いのアイテム化したナ
イフだった。
 だってそれはアンリの手元。やっぱりゲロの洗礼を受けている。
 そんなのもう気にすることないじゃん。俺、しっかりゲロ浴びちゃってるし。もう、掴もうが別に
大差ない………はず。
 自分にそう言い聞かせて、渋る自分の足を叱咤しながらナイフに手を伸ばす。
 普段のトゥールならものの一秒で掴んで、さらに攻撃に移行できるはずなのに、その倍もの時間が
費やされてナイフを手に取り、構えた。
 そんな動作では男たちにもトゥールの真意が分かり、剣やヘンテコ棍棒を構える時間を与えてしま
う。同時にトゥールの顔を見る時間も。
 うわ、すっげえ嫌そうな顔。
 もう破れかぶれ。あるいは開き直りの顔でナイフをぎゅっと握り、トゥールが一気に二人の前へと
加速する。
 そういえば、俺たちやられるとしたら、あのゲロナイフでだったんだ。
 それに気づいて二人が取ったのは、応戦よりも逃げだった。
 あんなもので切られたくない。
 だがその逃げ腰がトゥールには最大の好機だった。
 腰の入らない構えの棍棒男の足に蹴りを入れて地面に転がし、それを踏み越えて剣を下げた男に肉
薄。
 さっきまでのやる気満々な怒声は悲鳴に変わり、目を見開いてナイフの軌道を目に焼き付けていた
ゴロツキボスは、とっさにナイフの流れを変えたトゥールの手によって後頭部にナイフの柄を打ちつ
けられて昏倒した。
 だが地面に転がっていた棍棒男には、それがまるでナイフを首から頭にむかって突き刺したかのよ
うに見えて、振り返ったトゥールが悪鬼そのものに見えていた。
「いやぁぁぁぁ、人殺しぃぃぃぃぃ」
 男は乙女のように、やけに野太い声で叫ぶと気絶。
「………おい」
 夜の町の中に響き渡るその声に、トゥールはあ然とした。
 寝静まった沈黙の町の中へと浸透していった叫びは、吸収しつくされた静けさが戻った一瞬後に、
家々の中から「今のはなんだ」と人が出てくる気配に変わる。
「いや、俺別に殺してないし」
 言い訳するように言ったトゥールだったが、これが町の人間に見られれば即刻人殺し扱いで逮捕さ
れ、ボコられた後でそれがグラナダの王子だと知れて大問題に。そしてトゥールはザインに再び大目
玉を食らい、そのまま国に強制帰還だ。
「それは嫌だ」
 クリステリアを捜すという当初の目的は、アンリに会って少し気が削がれていたが、やっぱり憧れ
続けた本人がどんな女性なのか実際に会ってみたかったし、なによりもあの空気の重苦しい宮殿に帰
るのだけは御免だった。まだこの自由を満喫したい。
 こんなところで捕まってなるものか。
 なかば盗賊の気分でそう決意したトゥールは、這いつくばっているアンリを再び小脇に抱えると、
脱兎のごとく駆け出す。
 俺はもう何としても自分の部屋に戻って、何もなかったかのように寝たいだけだ。こんな呪われた
夜はなかったことに。
 そう思った瞬間、ふと頭に過ったのがアンリがディナーの前に言った言葉だった。
 自分の持つ宝石が呪いアイテムではないかと気にしていたアンリ。ザインとの出会いも確か呪いの
宝石を手にしたことだったはず。
「っていうか、君が呪いアイテムだったりして……」
 乾いた笑いが脳内を巡る。
 だがすぐにそれは虚空彼方へと消えていき、本気の疑いが顔を覗かせる。
 呪いの女、アンリ。
 だがその言葉があまりに似合わない、口を開けた寝顔がそこにはあった。


 凄まじい疲労と切れた息に胸を上下させながら、トゥールがアンリをベッドの上に転がした。
 ここまで二十分余り、全速力でアンリという重りまで抱えて走ってきたのだ。
 額に浮かんだ汗を拭い、着ていた服を脱ぎ捨ててベッドに倒れこむ。
「はぁ、疲れた」
 どうにか町の人々に姿を見られることはなかったが、駆け抜けていく足音くらいは聞かれたかもし
れない。だがどうせ倒れている男たちは意識を取り戻すだろうし、相手が相手だ。町のゴロツキが気
絶していても、誰もまともに取り合うとは思えなかった。
「とりあえず、これで危機は脱したな」
 息を整えながらそう言ったトゥールは、隣りでした寝返りの気配に横を見た。
 あどけない寝顔で、酔いのためか少し頬が紅色に染まったアンリがそこにいた。
 色気はないが、手を伸ばして触れたくなるかわいらしさがそこにはあった。
 そっと手を伸ばして髪を撫でると、気持ち良さそうにその手に身を預け、体をくねらせる。
 首元から髪が流れおち、白くて細い喉元が露わになる。
 思わずゴクっとトゥールも唾を飲む。
 横になってたわんだ乳房が、服の胸元から谷間を作って見えていた。
 今アンリが着ているのがボロ服でなかったら、さぞかし天使のように見えただろう。絹の薄絹だっ
たりして、その白く華奢な裸体を透かしていたら。
 一瞬にしていけない妄想に走っていたトゥールは、慌ててアンリに背を向けて目を瞑った。
 いくら相手がアンリでも、同意のない女性を意識がないことをいいことに抱くことなんてできない。
 こうなったらもう寝てしまうに限る。
 自分にタヌキ寝入りをしいながら、トゥールは必死で意識が混濁するのを待った。
 そして疲れとアルコールの助けで寝入った後、やっぱりアンリが呪いの女だったのではないかと思
うのだった。
「トゥールさま、御気分はいかがですか?」
 不意に肩口で声をかけられ、トゥールは目を覚ました。
 明らかに寝不足で疲れが滲む顔で目を覚ましたトゥールに、馴染みの侍女サシャが幾分赤い顔で微
笑んでいる。
「お疲れとは思いますが、すでに時間は昼に近くなっております。軽いお食事を用意しておりますの
で。……ここへ運びましょうか?」
「ん? ここに?」
 起き上ったトゥールは、いつもと様子が違うサシャを疑問に思いながら問い返す。
 そのトゥールにサシャがチラっと視線をトゥールの向こうへと送る。
 それを目で追ったトゥールは、思わず目を見開いて叫びを上げそうになった。
 アンリの裸の肩が布団の隙間から見えている。
「アンリさまと一緒に食事を取られたほうがよろしいかと」
「あ、そうだね。そうしてくれる?」
 やけにハイテンションにそう告げ、笑顔でサシャを追い払ったトゥールが頭を抱える。
 え? どうして? 俺、手出さなかったよな。それとも寝ぼけて?
 もちろん事実は異なるわけで、布団の奥底、暑くて脱いだ服を足に絡ませ、アンリは熟睡の夢の中
で甘い王子のキスを受けているのであった。

 
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