第四章 逃亡、逃亡、逃亡



 最初はいままで見たこともないような美しく盛られた料理やその数、そしてあまりにずらりと並んで
挑みかかってくるようなフォークやナイフの量に圧倒されていたアンリだったが、誘惑してくる香りと、
一口すすったスープのおいしさに恥じらいなど吹き飛び、ガツガツと料理を食べ始める。
「はぁ〜〜、うまいなぁ。これって食べたら天国行っちゃう最後の晩餐じゃないよねぇ」
 両手にフォークとナイフを掴んだまま、今口に入れた肉のしたたる肉汁に頬を両手で押さえ、ウキュ
ーと謎の音を発しながら満面の笑みで顔をくちゃくちゃにする。
 それをおもしろそうに眺めながら、トゥールは自分でグラスに注いだワインをちびりと飲む。
「アンリ殿は、なんでもおいしそうに食べますね」
 トゥールは嬉しくなって声をかける。
 もちろん王宮に上がる前から、貴族の息子として育ったトゥールには、こんな素直な感情表現は、こ
と食事に関しては身近で見るものではなかったし、自分もしたことがなかった。
 成長して市政の視察などに従兄弟や仲間と出歩くようになって初めて、仕事明けの親父さんたちが喉
を鳴らしてビールを飲み干し、「プハァ〜〜、かぁぁぁぁ、このために生きてるよな」と心底嬉しそう
に声高に言うのを聞いたのだ。
 それを真似してみると、本当に今まで飲んだ何よりもおいしく感じたし、そんな王子に町のみんなも
親しみを感じて近寄ってきてくれたものだった。
 手で掴んで肉に喰らいつき、口の周りを泡まみれにしてビールをあおり、口から豆の欠片を飛ばしな
がら大笑いして隣りの仲間の肩を叩きながら語り合う。ガチャンガチャンと音をたてる食器の軽快な音
と、虫がたかる剥き出しの電球が発するオレンジの光。
 急に思い出したかのように王宮に呼び出されてからというもの、このクリステリア捜索の旅に出てザ
インがいない合間の息抜きまで、まったく接触のなかった感覚だった。
 でもこの目の前に娘は、たった一人でそこで楽しそうに食事をしてくれるだけで、そのときの昂揚感
や喜びを思い出させてくれる。
 アンリも着飾ったドレスには不似合いなブラウンのソースを口の端につけた顔でにんまりと笑って、
王子に問いかけに頷きながらフォークに刺した野菜のソテーを大口の中に放り込む。
「王子様は、あんまり食べてないですね。いつも食べてるから飽きちゃってるんですか?」
 アンリはほとんど食べ終わっている自分のステーキの皿と、ほんの一切れ、二切れ切られただけでほ
とんど残っているトゥールの皿を見比べて言う。
「ああ、わたしは飲んでるときは食べないたちでしてね。アンリ殿、食べたいですか?」
 普通食べかけのものを差し出すなど、王家でも貴族の食卓でもありえないことだったが、アンリは眩
しくなるほどの笑みで頷き、王子の差し出す皿を受け取る。
 なんだかエサを差し出すと尻尾をさかんに振って寄って来るイヌみたいだな。それも洗えばキレイな
のを隠しているかのように、泥だらけの子犬だ。
「アンリ殿もいかがですか?」
 トゥールはワインの瓶を掲げると、アンリは口をモグモグさせながらワイングラスをクイっと開けて
から差し出す。
 そこに芳醇な葡萄の香りをあげる深紅の液体を注ぎ込む。
「アンリ殿はお酒もいける口で?」
 飲みよりは食いだろうアンリの姿だったが、大きな肉の塊をゴクっと音を立てて飲み込んだアンリが
今注いだばかりのワインを全部ガブガブと飲み干すのを見て尋ねる。
「ん〜、こんな高級そうなお酒を飲んだのは初めてなんですけどぉ、街の親父さんたちにビールとか奢
ってもらって飲んだときは、いい飲みっぷりだっていつも褒められてましたよ」
 それはそうだろう。
 手袋が嵌っていることを忘れて手の甲で口を拭うアンリに、王子は声を上げて笑うと、手袋を汚して
しまったことに慌て顔をするアンリに気にするなと笑いかける。
 そしてまだ口の端についているソースと野菜の欠片を、椅子から中腰で立ち上がって拭ってやると、
アンリの慌てていた顔に赤みがさっとさす。
「実はわたしも気取ったワインなんかよりも、ビールのほうがずっと好きなんです。デザートは席をか
えて、ビールと一緒になんてどうですか? 夜風もだいぶ冷たくなってきましたし」
 トゥールは立ち上がってアンリの横に立つと、エスコートするために手を差し出す。
 そこに手を載せたアンリに、トゥールはいたずらっ子の笑みを見せると、窮屈そうな手袋を外して
やり、ポイッとテラスの石畳の上に放り投げる。
「気取ったポーズはここまで。ここからは本音でいきましょう、アンリ」
 トゥールはびっくりした大きな目を自分に向けているアンリに微笑みかけると、不意にその足をすく
うようにしてアンリを抱き上げた。
 本物の王子さまによるお姫様抱っこに、アンリが顔を真っ赤にして身を硬くする。
「そんなに硬くならなくても、落っことしたりしませんから安心して」
 トゥールが楽しそうに笑いながら歩き出す。
 その胸に取り付きながら、アンリが尋ねる。
「どこに行くんですか?」
 ほんの少し、嫌な、いやドキドキな予感に尋ねる。
 それにおや、気付いたかい? という目で王子が笑う。
「ぼくの部屋」
 ひやぁ〜〜〜〜〜〜。
 アンリは声を上げそうになるのを堪え、走り出した王子の腕から落ちないようにしがみ付いた。
 わたし、本当に愛妾にされちゃうのぉぉぉ?


「トゥールって本当に王子様なの? 全然見えない」
「なんだよ、それ。ぼくってば完璧な王子様じゃん。カッコイイし、優しいし、剣だって強いんだぞぉ。
ザインには勝ったことないけど」
「ザインより弱いんだぁ」
 すでに出来上がった二人が、まだ手にビールのジョッキを持ったままで騒いでいる。
 肩と肩を組んで長年の同士のノリで一緒にから揚げを手でつまみ、「あーーん」などと言って口に放
り込んでは、顔を見合わせて笑っている。
 あの「ぼくの部屋」発言の後、本当に王子の部屋に連れ込まれ、ベッドの上に下ろされた上に、トゥ
ールがザインに、「これからアンリと一晩過ごすから近づくな」などと言っているのも聞こえたのだが、
結局迫られることもなくこの展開である。
 ベッドの上で襲われるのか? と半分怯え、半分期待していたアンリに、トゥールはさっさと服を脱
いだ。そして明らかに「それ本当に王子の服?」と疑いたくなるぼろっちい服を取り出して着替えはじ
める。
 そしてそのボロ服の一着をアンリにも投げて寄越して言ったのだ。
「さぁ、アンリもそれに着替えて、二人でここ抜け出して街に遊びに行こう」
 窓から抜け出して二人で手を取り合って逃げ出すと、気分は親に反対された恋人同士の駆け落ちだっ
たが、男のなりをしているので、いまいち雰囲気でないなぁなどと思っていたアンリだったが、手を取
られて走ることは気持ちがよかった。
 そして街に出るとどこにでもいる快活な青年のようになったトゥールに、ずっと親しみが湧いて、酔
いがまわった頃には大好きな友達の気分になっていた。
「アンリは、本当にクリステリア姫じゃないんだね。だって姫だったら、こんなカエルのから揚げ食べ
ないよね」
「食べない、食べない。わたしは腹減ったらミミズだって食うぞぉ!」
 偉そうに拳を突き上げて叫ぶアンリに、トゥールが笑い声をあげる。
「でも本当に似てるんだよな。実は姉妹ですとか言わない?」
「言わない。だってわたし捨て子だもん。お姫様が捨てられるとかないでしょう」
 アンリはケラケラと笑いながら言ったが、一瞬捨て子という言葉にトゥールが真顔になる。
「ヤダなぁ。そんな顔しなくていいんだって。わたしはこうやって今元気で、こんなかっこいいトゥー
ルちゃんとお酒飲めてるんだから」
 アンリはトゥールの頬を撫でながら言うと、顎を上げてジョッキのビールを飲み干す。
 そして今までの記憶にある限りの自分の過去話をすると、うんうんと頷く。
「本当にこういうの波乱万丈って言うんだろうね。でも、わたしはそんなこと思わないし。これはこれ
で楽しかったし、別の人生くれなんて思わないもん」
 トロンとした酔っ払った目をしながらも、自信を持って言うアンリに、トゥールは頷くとその頭を撫
でた。
「そっか、アンリはかっこいいな」
「本当? アンリかっこいい!」
 自分で言いながらニヘラと笑って机に頬をついて目を閉じる。
「ねぇ、寝ちゃわないでよ」
「ヤダ。眠いもん」
 ゴーと無理とイビキの振りをしてみせたアンリが、本当に数秒後に本物のイビキをかきはじめる。
「あ〜あ、寝ちゃった。ってことは、ぼくが担いで帰らないといけないわけ?」
 はぁとため息をついたトゥールだったが、もにゃもにゃと言いながら眠るアンリのあどけない寝顔に、
自然と笑みが浮く。
 そしてツンと指でアンリの頬をつつく。
「本当に側にいてほしい子だな」
 トゥールは呟くと、愛しそうにアンリの寝顔を眺めた。



 
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