第四章 逃亡、逃亡、逃亡

     
「ああ、なんたる美しさ。さすがはクリステリア姫」  目の前に立って手離しで褒め、嵌めたこともないような肘を越える長い手袋の手にキスをくれる王子 様。  まるで夢の世界。っていうか、絶対にこれはわたしの見ている夢。  上気した頬と完全沸騰の脳みそで考えていたアンリの目の前で、小さな手が振られる。 「アンリ様、大丈夫ですか?」  自分よりも背が低いために見上げるようにして声をかけてきたのは、王子付きの侍女だという女性だ った。名はサシャと名乗っていた。  今自分の纏っているドレスやアクセサリー、そして化粧から髪のセットまでたった一人であっという 間に仕上げてくれたのが彼女だ。  それまでの間にピンやリボンを咥えて忙しげに動き回る彼女と幾らかでも話ができたおかげで、サシ ャは自分がクリステリアではなく、アンリという名前のトレジャーハンターだと理解してくれている。  が、目の前の王子だけが自分をクリステリアと呼び続ける。  クリステリア姫っていうのは、エアリエル王国の第一王女様で、あなたにそっくりなのよとサシャが 教えてくれたが、アンリには初耳だった。自分がそんな偉い人と似ているなどと、畏れ多くてとても信 じられない。こんな捨て子だった上に娼館でコマ働きをしていた自分と、蝶よ花よと育てられた姫様が 似ているなどとは、ご冗談をと笑い飛ばすこともできないくらいに恐ろしい。  だが、実際にドレスを着て飾り立てられた自分を鏡で見たときには、思わずうっとりとしてしまうほ どだった。  これから天上のお城で王子様に手を取られて踊るお姫様よと、周りから囁かれてもツンと顎を上げて 颯爽と歩いていけそうな気がするほどに美しかった。  ピンクのドレスはアンリ好みでほっそりとして体に沿って流れ、光沢ある生地が体の線を煌めかせな がら露わにする。  ちょっとボリュームが足りないわねと言ってサシャがアンリの胸に綿を詰めたのは内緒だけれども。  そのドレスを惹きたてる陶器で作ったバラの小花のネックレスやイヤリングが、ひんやりとしている はずなのに、気恥ずかしくてポッと肌に熱を与える。  いつもはボサボサで邪魔なので縛っているだけの髪もしっかりと梳かされてバラの香の水をかけられ、 ゆるいカーブを描く髪へと変えられていた。  さすがにこれだけの大改造に近い仕事にサシャも額の汗を拭うほどだったが、その出来栄えに満足し たらしく笑顔で頷く姿には、アンリも嬉しくて照れ笑いを浮かべた。  そのサシャが潤んだ目で気を失いそうなアンリの額に手を当てて正気を確かめている。  そしてその手が今度は勢いよくアンリの頬をペシペシと叩く。  その痛みにハッと我に返ったアンリが大きな目を開けるとサシャを見下ろす。  それにサシャが微笑む。 「これ、姫に何をする」  王子がサシャを嗜めるが、その後ろに控えたザインはおかしくてしょうがないと、噴出しそうになる のを堪えて赤い顔をしている。 「失礼ながらトゥール王子。あまり男性に慣れていないアンリ様には、王子の笑顔は毒でございます」 「毒だと?」 「はい。美しすぎるものも、見慣れないものにはその魂を吸い取られるほどの衝撃でございますから」  笑顔でそう言われ、悪い気はしないものの、目の前の美女に触れないもどかしさで王子が顔をしかめ る。 「姫は、わたしが怖いのか?」  王子の黒い瞳を向けられ、アンリはビクンと体をすくめた。  夢だと思っていたからこそ、王子に手を取られてキスされても陶然としていられたが、これが現実だ と思うと、どうして自分がこんな状況にいるのか困惑するばかりだった。  王子は姫、姫と自分を呼んでいるか、もし自分がその姫でないと分かったらどうするつもりなのだろ う。高貴な者の気まぐれで、自分を謀った盗賊として切り捨てられるかもしれない。  そう思っただけでアンリの顔から血の気が引く。 「アンリ殿?」  それに気付いたザインが王子を押しのけて前に出ると、フッと足元から力が抜けて座り込みそうなア ンリを支える。 「あ、ザイン。そんな役得を俺を押しのけて取上げるな」  ザインに抱えられながら、その背後で叫んでいる王子の声が聞こえる。  その言い草があまりに子どものようで、アンリは思い描く王子とのギャップに目を見開く。 「大丈夫ですか? アンリ殿」  頭上から来る低い男の声に、アンリは自分が厚い胸板の男の腕の中にいることを意識してコクンと頷 く。恥ずかしくて顔も上げられないまま、立ち上がらせてもらうと、チラッと王子を盗み見てからザイ ンの顔を見上げた。 「あの、わたし、クリステリア姫じゃないですけど」  王子には聞こえないように小声で囁いたアンリに、ザインが微笑む。 「分かっています。あなたの名前はアンリ。トレジャーハンターなのでしょう?」  それにアンリが首がもげるかと思う勢いで頷く。 「おい! 俺をのけ者にして、コソコソと話をするな!」  王子が拗ねて怒鳴っているが、ザインもサシャも完全無視。 「それでアンリ殿。折り入ってお願いがあるのですが、詳細はサシャから」  ザインは早口でそう言うと、振り返って王子に微笑みかける。 「王子、さあ、彼女の美しい姿が見られたのですから満足でしょう。彼女も疲れているようなので、少 し休ませてさしあげましょう」  そう言って退室願いますと促がすザインに、王子が不服と顔に書いてある表情で腕を組む。 「自分ばかり姫を抱きしめておいしい思いをしておいて、俺を追い払うのか?」  すっかり駄々っ子の様相の王子だったが、呆気に取られたように見開いた目で自分を見ているアンリ に気付いて咳払いする。 「姫、では一緒に夕食は取っていただけますか? 最高の一時をお約束しますから」  それにアンリはサシャを見るが、安心させるような笑みで頷かれ、覚悟を決めると、王子に向かって 頷く。  それにトゥールは満足したように笑顔を浮かべ、部屋を出て行く。  共に部屋を後にしながら、ザインが締まり際のドアの向こうで安心しろと伝えるようにアンリに向か って頷く。  それを見送って、一気に気が抜けたアンリはドッと音を立ててソファーの上に座り込む。 そのソファーも今まで感じたこともないくらいにふんわりとした感触でお尻の下で弾む。  大きくため息をついてガックリと肩を落とすアンリに、サシャがクスクスと笑う。 「王子との対面はいかがでしたか?」 「………死にそう。っていうか、姫じゃないって分かったら、わたし殺されないかな?」  真剣に悲壮感漂う顔で問うアンリに、サシャが「まぁ」と声を上げる。 「そんなことを心配しておいででしたの? 王子はそんな方ではありませんからご安心を。王子は幼少 の頃は苦労された方なので、まぁ、ザイン様はそれに手を焼いておいでですが、とても庶民的でお優し い方です」 「そうなの?」  そう言われれば自分を「俺」と呼称していたし、ザインやサシャの対応も王子に対するにしては、少 しぞんざいな気もしないでもなかった。 「でもなんでその王子様に、わたしは姫って呼ばれて着飾らされてるの?」  あの自分を助けてくれたティムの家から連れ出され、この豪華ホテルの一室に連れ込まれたアンリに は事態の全てが見えてはいなかった。  あの逃亡劇の原因となった宝石をザインによって「預からせていただきます」と取上げられたときに は、あの吸血石に続いて、再び自分は呪われたアイテムを持っていたのかと思ってしまったほどだった。 「そのことで、アンリ様にはお願いがあります」  不意に声を顰めてアンリの足元に跪いたサシャが告げる。  真剣なまっすぐな目でアンリを見つめ、ゆっくりと一言ずつ告げていく。 「アンリさま。どうか、トゥール様とお付き合いください」 「付き合う?」 「はい」  それって今日の夕飯のこと? それなら息がつまりそうだけど、おいしいもの出してくれるなら食べ るよ。などと思って首を傾げたアンリに、サシャが言う。 「ぜひトゥールさまの愛妾に」
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