第四章 逃亡、逃亡、逃亡



 出された芳醇でフルーティーな香りの高いお茶と手づくりのパンケーキに、アンリは我も忘れて喰ら
いついていた。
「お……おねえちゃん、お腹空いてたんだね……」
 声を掛けてくれた男の子が、自分のパンケーキを食べるのも忘れて、がっつくアンリを眺めていた。
 それを暖かく見守ってくれているのは、男の子の祖母だという上品な婦人だった。どこも華美な部分
はないのに、女らしい魅力に溢れていた。
 ほとんどが白い髪を後頭部で一つにまとめ、そこに今は男の子が庭から摘んできた花を一輪さしてい
る。ピンクのガーベラだ。その可憐な色と大ぶりな花に負けない可愛らしさがある。そして、茶のワン
ピースと白いエプロンがアンリに優しいお母さんを思い描かせて、口の中をパンケーキでいっぱいにし
ながら、はしたない自分を恥じたように頬を赤くした。
「いいのよ、たくさん食べてくれて嬉しいんだから。さぁ、ティムもたんとお食べ」
「うん」
 男の子ティムも祖母の言葉に頷くと、アンリの真似をして大口でフォークに刺したパンケーキに齧り
つく。鼻の頭に木苺のジャムをつけて顔を上げると、アンリに向かって満面の笑みを見せる。
「おいしいね、お姉ちゃん」
「うん。すっごくおいしい。こんなおいしいパンケーキ食べたの初めて。絶対に世界一のパンケーキだ
よ。ティムはいいなぁ。こんなおいしいものが毎日食べられて」
 アンリの褒め言葉にティムは自慢げに祖母を見つめ、祖母の方も「まぁまぁ、もっとおいしいものを
出さないといけないかしら?」などと言いながら嬉しそうに微笑む。
 そこへそんな和やかな雰囲気とは反する荒々しい動作で木の扉が開け放たれ、一人の男が家の中に入
ってくる。
 きっとティムの祖父であろう男が、手に持っていた箒を壁に立てかけ、着ていた厚手のシャツを脱ぐ
と大きくため息をつく。
「全くこの世の中どうなってやがる。こんな田舎町で若い娘が泥棒だなんてな」
 心底疲れたように言ったその男は、ふと自分の家の台所のテーブルについている家族以外の人間に気
付いて、しかめていた顔を真顔に戻した。
「なんだぁ、お客さんかい。それならそうと」
 だが、好意的だったその声が一転、目が見開かれる。
「あ、……おまえは泥棒娘!」
 アンリの口から齧りかけのパンケーキがお皿の上にボトンと音を立てて落ちた。


 怯えた顔でイスから立ち上がったアンリを庇ってくれたのは、ティムだった。
「じいちゃん、お姉ちゃんを虐めないで!」
 毅然としたその声に、蛇とカエルのにらみ合いになりつつあった二人の視線が反れる。
「お姉ちゃんは泥棒なんかじゃないよ。だって、追いかけられて泣いてたもん。悪いことしてあっかん
ベーして逃げていくような悪い人じゃないよ」
 孫のその言葉に、怒りのテンションを弱ったことになったなぁと困惑へと変え、男が連れ合いの婦人
を見る。
 その視線に、婦人は「そうねぇ」と腕を組んで手の平を頬に当てる。
「わたしもこの子が悪い子には見えないわ。わたしのパンケーキも世界一だって褒めてくれたし」
「おい、それとこれは話が違うだろう」
 ますます弱った顔で眉を下げる男に、アンリは恐る恐る声を掛けた。
「ほ、本当にわたし泥棒なんてしてません。あそこで手持ちの宝石を売ろうとしてたら、急にあそこの
ご主人がわたしの体をジロジロ見て………」
「ああ、あのティンケラー宝石店の禿げジジイでしょう。そうなのよ。本当にスケベでねぇ。いまだに
わたしとすれ違うと必ずお尻を撫でるのよ」
「なんだと!」
 アンリに同意してくれた婦人と、その婦人の思いがけない告白に驚きと怒りを再燃させた男。
「ねえ、おじいちゃんもおばあちゃんも、話がずれてるよ」
 ティムが呆れたように告げる。
 それに顔をつき合わせて声高に話していた婦人と男が、そう言えばと会話を中断してアンリを見た。
「まぁ、そうだな。話を聞こうか。な」
 男はそう言うと、テーブルについてティムの食べ残しのパンケーキを摘む。
「あ、おじいちゃん、それぼくの!」
 再び会話は違う方に行きそうだったが、自分を少しでも認めてくれた三人の人間の存在に、アンリは
嬉しくなって涙を浮かべた。


「ほう、これがそれか」
 アンリは宝石商で見せた宝石を取り出してテーブルに置く。
 それを手に取った男が恐る恐る手に取ると、窓から射す光に翳して眺める。
 光に照らされた宝石がキラリと眩しいほどの光を反射させて輝きを壁に乱反射させる。
「こりゃ、本物なら相当な値のものなんだろうなぁ」
 素人の男にはもちろん真価が分かるはずもないが、ずっしりと重い装飾品に唸り声を上げる。
 そして隣りでそれを覗き込んでいた婦人も手の平に乗せると、女性らしい宝石への憧れに輝かせた目
で宝石を眺める。
「なんてキレイなのかしらねぇ。そうねぇ、世界一美しい朝露を結晶させたみたいって言えばいいのか
しらねぇ」
 うっとりと呟き、ほぅとため息をついた老婦人に、ティムがパンケーキから顔を上げると笑う。
「おばあちゃん、詩人だね」
 すっかり顔中がジャムだらけのティムに、微笑んだ婦人が濡れたタオルでその顔を拭ってやる。
 その隙にティムが宝石を手に取る。
「これ、ジャムだらけの手で触るでない」
 注意しようとした男の手を掠めて取ろうしたティムの手から、宝石が宙へと滑空する。
「あ!」
 まずいことをしてしまったと首をすくめるティムだったが、宝石が窓辺の花鉢の葉の間で止まったの
に気付いて安堵のため息を肩をすくめるようにしてつく。
 そして葉の間からそれを取ろうとしたところで男に鋭く声を掛けられ、再び首をすくめた。
「おじいちゃん、何?」
 半分怒った声で振り返ったティムに、男が反対側の壁を指差して目を見開いていた。
「これはなんだ?」
 恐れをなしたような声で言った男の指さす先には、大きなライオンが後ろ足で立ち上がる姿と二つの
槍が交差する紋様が浮かび上がっていた。
 陽の光を受けた宝石から投影されたそのレリーフは、クリステリア王国の紋章。
「え?」
 アンリも呆気に取られた顔でその像を見つめていた。
 皆が石化したように固まっていた中で、不意にギーと音を立てて木の扉がゆっくりと開いた。
 今度は何?
 明らかに怯えた目の四人が振り向いて見た扉の向こうに、一人の男が頭を下げて立っていた。
 そこらの一般市民ではないとわかる整えられた服装と腰に佩いた大ぶりの剣。
「お迎えにあがりました、クリステリア姫」
 きらりと光る束ねられた黒髪を肩から滑らせながら、男が顔を上げる。
 気品高いとは、彼のためにある言葉ではないか。そう思わせる美しい笑顔がそこにはあった。
「アンリ殿。お久しぶりです」
 あんぐりと口を開けたまま突っ立っていたアンリに、もう一人声を掛ける男がいた。
 美しい青年の背後に控えたその大男は、あの吸血石から救ってくれた騎士ザインだった。



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