第四章 逃亡、逃亡、逃亡

 アンリが睨みあっているのは、ガラスのカウンターを挟んだ向こうにいる白髪混じりの毛が耳の横あ たりに辛うじて残っている親父だった。  親父は目に小型のルーペを嵌め、アンリの差し出したものをしげしげと観察していた。  親父が手にしているのは澄んだ水のうねりをイメージさせる大きな宝石の嵌ったペンダントだった。  真剣に、ときに唸りさえあげて調べる親父の頭に顔を近づけ、アンリも食い入るように親父の反応を 見入っていた。  ついに路銀を失ったアンリは、唯一今まで売らずに持ち続けていた宝石を手離そうとしていた。  その宝石は、アンリが赤ん坊の頃に唯一身につけていたものだという。  アンリを売ろうとしていた人買いのジジイや、がめつい女将がちょろまかさなかったのが奇跡ともい えるが、どうせ価値のあるものでないと思わせるほどに、その宝石が大きかったのだ。とても子どもを 売りにだそうなどと思う貧しい家で赤ん坊に持たせるようなものではないと。  赤ん坊のときのアンリは、寝ているときも遊んでいるときも、決してそのペンダントを離さなかった のだと聞いたことがあった。ぎゅっと握り締めた手の中を拭いてやろうと乳母が手を開かせようとして も、決して開ききろうとせず、しまいには火がついたように泣き喚くものなので、誰もアンリにそのペ ンダントを離させようとしなくなったらしい。  やがて物心ついて仕事ができるような年齢になってからは、女将が手に持ったままでは仕事もさせら れないとペンダントにチェーンを通して首に掛けられるようにしてくれたのだ。  そのときから、そのペンダントはアンリの胸元にあり続けたのだ。  胸の心臓の上で、暖められ、同時にアンリを暖めていた。  そんな大事なものでも手離さなければならないほどに追いつめられていた。  もう3日も物を口にしていない。なんとか空腹は川の水や井戸の水を夜中に拝借してしのいでいたが、 それもそろそろ限界だ。お風呂にも入りたい。 「そうさなぁ」  親父はルーペをしたままにのっそりと顔を上げると、しげしげとアンリの顔を見る。  大事なものなのだ。できるだけお金に換えたい。 「あんた、これはどこで手に入れた」  親父の目が宝石の鑑定からアンリを品定めする目に変わる。  顔はかわいいし、体もまずまず。ちと乳が小さいか。そんな目がアンリを頭の先からカウンターの向 こうの見える範囲の腹へと動き、やっぱり胸の辺へと戻っていく。  それに不快感たっぷりで顔をしかめたアンリだったが、買い取ってもらおうという立場ゆえに大きな 顔もできずに腕で胸を覆って咳払いする。 「それはわたしが生まれたときから持っていたものです」 「これを持って母親の腹から出てきたって?」  フンと嘲笑うように親父が言うと、目からルーペを外してイスの上でふんぞり返る。 「そうは言ってないでしょう。わたしを育ててくれた人がそう言ってたんです。うちに来たときから握 っていたって」 「へぇ」  親父は大しておもしろくない演劇でも見るように笑って言うと、宝石をビロードの引かれたトレーの 上に置く。  そしてアンリに「ちょっと待ってな」と声をかけると店の奥へと消えていく。   曲がった腰の下の尻がやけにでかく、薄汚れたズボンのポケットにはあれでは物がはいらないだろう と思わせるほどだった。  親父が店の奥に消えたところで、アンリはビロードの上で輝くペンダントを見下ろしてため息をつく。 「なんなのよ、あの態度は」  そっとビロードの上のペンダントを手に取って眺める。  あの親父の様子からすると、もしかしたら相当の価値があるものなのかもしれない。  どこの宝石商も、たいていは「こんなものはたいした価値はないぞ」などと言って、少しでも安く買 い叩こうとする。  トレジャーハンターとして何度かはお宝を掘り当てて換金したことがあったが、その度にそんな反応 を見てきたものだ。  そこを粘って、どんな冒険の末に手に入れたか、見つけたときの感動なんかを、過剰なくらいの感情 と身振りで話して聞かせ、なんとか値段を釣り上げていくのだ。  珍しいものは宝石商とて手に入れたいのだ。たとえそれが曰くありげな経緯で手に入れたものであっ ても。  だがここの親父はどうも対応がおかしい。  価値があるものなら、なんとか手に入れようとするものだろう。だが、あのこちらを探るような目。  その時、店の奥からボソボソと話す声と視線を感じて顔を上げた。  そこには、親父とその息子だろうという歳の男が細い隙間にしたドアの向こうからこちらを覗いてい るのだ。  その目がまるで蛇のように光、アンリはゾクッと背筋に寒気を走らせた。  この店はやばいのかもしれない。そういえばやけにあの親父も胸を見ていた。ここは宝石商を装った 裏娼館で、かわいいわたしを狙っている?  そう思ったアンリは手にしていた宝石をぎゅっと握ると店から走り出た。  その背中でドアから飛び出してきた親父の息子が叫ぶ。 「待て、この泥棒!」  はぁ? 何いってんの。わたしは何も盗んでなんかいないわい!  振り返って男を睨んでやったアンリだった、場所が場所。泥棒が始終入りそうな宝石店だっただけに、 周りを歩く人々の目が一斉にアンリに向けられ、目の色が一変する。 「泥棒?」  言いつつ、店から走り出てきたアンリがイコール泥棒と人々の頭の中で結び付けられていく。  やばいと思ったときにはアンリ目掛けて人々の手が伸びる。 「ちがーーーーーーーう!」  叫びながら走り出したアンリが細い路地の間をぬって走り抜けていく。その後を追うのは恐ろしい顔 をして棍棒まで振り上げた男たちと、スカートの裾をたくし上げて後を追うおばちゃんたち。最後にな んの騒ぎかと野次馬する子どもたちだった。  さっと空いていた一軒の家のドアの中に身を潜ませたアンリが、ドアの裏に入り込んでしゃがみ込む。  やがてドアの向こう側をドヤドヤと音をたてて群衆が走り抜けていく。 「どこへ行きやがった」 「あっちだと思うよ。見つけて百叩きにして警備隊に引き渡せ」 「イエーーーイ!」  最後の子どもたちの歓声を最後に静かになったところで、アンリが掴んでいたドアノブから手を離し て大きくため息をつく。  ガクっと力が抜けて地面に膝をつき、急に激しくなった動悸に胸を押さえる。 「なんで?」  涙すら浮んできて、アンリは地面に手をついて泣き始める。  ただ路銀を作りたくて、大切な一品を宝石屋に持ち込んだだけなのに、どうして泥棒扱いでみんなに 追いかけられなくてはいけないのだろう。しかもあんな悪意を向けられて。  地面についた手の上にアリが這い上がって歩き回っている。そのアリの上にアンリの涙がポタンと直 撃する。突然の大雨にびっくりしたアリが手の上から慌てて転げ落ちていく。  そのアンリの手に影がさす。 「お姉ちゃん、どうしたの?」  そこには小さな男の子が子犬を抱いて立っていた。  その子犬が男の子の腕から暴れてすり抜けると、這いつくばったアンリの側へと駆けより、涙の流れ る頬をペロリと熱い舌で舐め上げる。 「おなか痛いの?」  男の子がアンリの前に来て座り込むと尋ねる。 「ううん」  アンリにじゃれる子犬を抱き上げて首をふると、男の子がアンリの頭を撫でる。 「大丈夫だよ」  それに一瞬目を丸くしたアンリだったが、きっと男の子がいつも泣くとそうやってあやしてくれる人 がいるのだろうと思って微笑む。 「ありがとう」  礼を言うアンリに、男の子は立ち上がると手を引く。 「もうすぐおやつの時間なの。お姉ちゃんも一緒にどうぞ」 「え?」  だが遠慮する隙を与えずに男の子が力強くアンリの手を引く。  それに引きずられるように歩きだしたアンリは、逃げ込んだだけの家の中に足を踏み入れていった。
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