第三章 やってきたカモ

     
「クリステリアさま、どこですか?」  森の中にロクサーヌの声が響く。  その声の放っている空気感は、明らかに心配ではなく呆れだった。  こうも毎日姿をくらまされ、そのたびに罠に掛けられると、深窓の姫を守っているというよりも、凶 悪な犯罪者の仕組んだ死と隣り合わせのゲームに引きずり込まれた気分になってくる。  最初は生い茂る草を結んで作ったトラップで、足を引っ掛けて転びそうになるくらいで、まあ許して やろうという気にもなったが、次第にそれが落とし穴に変化し、しかも穴の中に泥水が張ってあったり、 毛虫やゲジゲジがワンサカいるようになってくると悲鳴を上げることになり、昨日はついに馬糞ミッ クスになって一日食欲が消え失せたのだった。  あまり探したくないが、仕事なので仕方なくというロクサーヌの声を聞きながら、クリステリアは水 の中から顔を上げた。  今クリステリアがいるのは、森の中にある湖だった。  透明度がびっくりするくらいに高く、泳いでいる魚たちの姿がはっきり見えるほどだった。  その湖の中を自由気ままに泳ぐクリステリアの背中で、長い髪が水面に広がっていく。  その髪の下の体は、もちろん一糸纏わぬ裸だった。  白く無駄な肉のない体を反転させ、空を見上げる形で水面に浮ぶ。  水面に顔を出した乳房の先で、ピンク色の蕾が水を弾いて光る。  その姿を森の中から発見したロクサーヌが悲鳴交じりで叫ぶ。 「姫さま!! 一体何をなさっているのですか?!」  ガサガサと草を踏み分けて湖めがけて走り出す。  水に浮んだままで、ロクサーヌが慌てて走ってくるのを眺めたクリステリアがニヤリと笑う。 「かかったな」  小さくクリステリアが囁いた瞬間、ロクサーヌの足元でヒュンと音を立てて仕掛けが動き始める。  草で隠されていた足場が不意に跳ね上がる。  シーソーの反対側に木に吊るされていた重しが落下し、反動でロクサーヌを空中へと跳ね上げる。 「ギャアァァァァァァ!!」  人間ロケットにされたロクサーヌは、色気もない叫びを上げて宙を飛んで行く。 「見事な飛びっぷり」  満足げに微笑むクリステリアの3メートル隣りにロクサーヌが落下して、大きな水飛沫を上げて沈ん でいく。  大波を受けてクリステリアの体も大きく揺さぶられるが、顔に水がかかろうが気にした様子もなく、 水面に浮んだまま目を閉じてタヌキ寝入りを決め込む。  一方湖の底へと沈み込んだロクサーヌは、宙を飛んだ恐怖も水の冷たさですっかり消し去られ、急い で水面に上がろうという気概もなく、疲れた様子で水の中を漂っていた。見ようによっては水死体に見 えたかもしれない。  だがゆっくりと水面に浮上していくと、陽の光を浴びてまどろむ水鳥のようなクリステリアを恨みを 込めた目で睨んだ。 「クリステリアさま! どうしてあなたはこうなのですか?」  底冷えするような低い怒りを込めた声に、だがクリステリアは全く聞こえませんという態度で、優雅 に水鳥そのものの手の掻きでスーっと水面を進んで離れていこうとしている。 「それにそんなお姿を誰かに見られたらどうするのですか? 乙女としての恥じらいはないのですか?」  目を閉じた白い顔を、太陽光が照らしてピンク色の唇を一振りの花のように輝かせ、水面に広がる髪 は水底で揺らめく水草のように見せている。浮かび上がった乳房や白い腹は象牙のように滑らかで、森 の緑を写し取った湖面を背景にした最高の芸術品のようでもあった。  美しい。とはいえ、一国の姫君が裸を人目に晒していいわけがない。 「ロクサーヌもやってみれば。すっごい気持ちいいから」  目を閉じてまどろみながら言うクリステリアに、ロクサーヌはため息をつく。 「いいえ」 「どうして? もしかしてロクサーヌって、お腹が出てたりするの?」 「出てるわけないじゃないですか!」  騎士である自分の体が弛んでいるわけがないと怒っていうロクサーヌに、クリステリアがクスリと笑 うと目を開ける。  その視線の先で、今年初めて目にする色鮮やかなアゲハ蝶が舞う。  そして水面にできた足場を見つけたように、旋回するとクリステリアの乳房の先のピンク色の蕾にと まる。 「お花と間違われたかな?」  ロクサーヌを見て笑うクリステリアに、怒っていたロクサーヌも毒気を抜かれて苦笑した。  姫の裸に触れたとはいえ、それが蝶では怒りようもない。  しかもそのアゲハ蝶は、クリステリアと森の湖という絵画をより高みへと運ぶ最高の装飾となってい た。  そんなほんの一時の穏かな空気が二人を包んでいたまさにその時、湖の岸辺に群生していた背の高い 葦の間から物音がした。ガサリと草を踏み分け、明らかにその後で音を立ててしまったことに身を硬直 させている緊張した空気が草の合間から漂ってくる。 「姫」  険しい顔に変じたロクサーヌがクリステリアを背に庇い、前に進み出る。  腰に刺していた短剣を手に取ると、口に咥えて草むらを睨む。  そうしながらも、クリステリアをそこにいるであろうものから守るように後退させていく。  水の中で身動きができない不利を思って後退するロクサーヌに、クリステリアも素直にしたがって声 を上げずにいる。  一触即発の凍りついた空気が湖の湖面を漣立たせていた。  その空気にのって低く聞こえてきたのは男の声だった。  ブツブツと聞いてことのない異国の言葉の響きのある声が、流水の滑らかさに似た抑揚をつけて流れ 出す。  美しい旋律をもった呪文だった。 「魔法!」  その言葉のもつ意味を感じとったロクサーヌは身を硬くした。  エアリエル王国国内では魔法を操るものはいない。その才を持つものは、ごく一部の特異な突然変異 によって偶発的に生じる。  そのためにその特異な才をもって生まれたものはギルドに集められ、その中で成長し力を制御する術 を学んでいく。  そして盟約関係のある国の戦いを支援したり、問題を解決する知恵として存在することとなる。  ここのところ戦争という戦争を起していないエアリエルだけに、ロクサーヌも直接に魔法の発動を見 たことは少なかった。せいぜいが祭りのときに派遣される下級術士が見せてくれる奇術めいた炎や光の 曲芸くらいだった。  だが今目の前で行われようとしている術が、より強大で攻撃的なものであろうことは、今までに感じ たことのない、濃密な意思が込められて粘度を増した空気で理解できた。  対戦士であればどんなことがあろうとクリステリアを守る自信があったロクサーヌだったが、相手が 魔法ではどう対処したらいいのかが分からない。  裸の姫を守って岸に上げ、剣を抜いて構える。  そのとき、淀みなく流れていた呪文の言葉が途切れた。同時に葦の茂みの中で青白い光が生じ、それ が急速に拡大していく。  光の球体は大きく成長していき、反して空気がその中に吸い込まれて強烈な風を巻き起こす。  目を大きく見開き、ロクサーヌは全てを見届けようと体に緊張を走らせた。  が、その瞬間に聞こえてきたのは、男の間が抜けた悲鳴だった。 「ああ〜〜〜〜! また失敗したぁ〜〜〜〜〜」  声と同時に葦の中から飛び出してきたのは、血相を変えて逃げ出そうとしている男の姿だった。  呆気に取られて見守る中で、キレイな球体だった光はその周りに鋭い牙を生やした刃と化して弾けた。  幾十の回転する刃が四方へと吹き飛ばされる。  一番側にいた逃げだした術士が頭を抱えて地面に倒れこむ。その背から跳ねた銀の髪の束があっさり と切り取られて宙に舞う。  そしてクリステリアやロクサーヌに向かって飛んだ刃が、湖の水を抉りながら、あるいは花や草を跳 ねながら向かってくる。  全ての軌道を読んだロクサーヌは、クリステリアを胸に抱えて走り、地面に伏せる。  二人の上を唸りを上げて通り過ぎていった光の刃は、その背後を疾走して触れるもの全てを抵抗一つ 許さずに切り裂いていく。  切り裂かれていく森の木々が、メリメリと音を立てて倒れていく。  頭上からは舞い上げられていた湖の水が降ってくる。  その突然の雨を受けながら、ロクサーヌとクリステリアが頭を抱えて震えている男を見た。尻だけを 上げて抜けてしまった腰で逃げ出そうとしている姿が間抜けだった。 「ロクサーヌ。捕まえろ」  クリステリアの指示にロクサーヌが駆け出す。  それを振り返って脇の下から見た術士の男が悲鳴を上げる。 「ひぃぃぃぃぃぃぃ! 殺さないで〜〜!!」  あっさり襟首をロクサーヌに掴まれて釣り上げられた男は、次の瞬間、泡を吹いて失神したのであっ た。
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