第二章 運命に魅入られた娘


    
   自分には特殊な運命がついて回っていると、アンリは思っている。  そして今もその確信を強めていた。地面を途絶えそうな意識と戦い這い進みながら。  特殊な運命。決して幸運ではない。  たとえば百の運命の選択が彼女の前に広がっていたとする。一つが幸運、九八が普通だとすると、必 ず彼女は残りの一つの悪運を引き当てる。九九の彼女の人生を花開かせるか、特に影響を与えない道で はなく、必ず転落人生の道を選んでしまうのだ。ある意味強(凶?)運の持ち主なのだ。  この連鎖は今のところ止まる様子はなく、次々と不幸を数珠繋ぎのようにアンリの前に呼び寄せてく れていた。  まず最初は生まれて何日もしないころに起こった。もちろん彼女自身は記憶にないのだが、なにしろ 命を取り留めたことも不思議だという大事故に巻き込まれたのだ。  彼女が乗っていたのはどうやら粗末な馬車の荷台であったらしい。橋の上にとまっていたのを何人も の通行人が目撃していたのだから、それは確かだ。  だがその馬車に不幸が襲い掛かった。邪魔だとばかりに激走する豪奢な馬車が、その粗末で吹けば解 体してしまうようなボロ馬車に激突した。  文字通りに見事に解体していしまった馬車は、橋の上から転落。  御者台に乗っていた爺をそのまま橋の下の川原で頭をかち割って昇天。  だが、この御者の爺がアンリの祖父かといえば、そうではない。なにしろ馬車の幌付き荷台には十人 以上の生まれたばかりの赤ん坊が転がっていたのだから。  身動きも取れないほどにサラシできつく巻かれた赤ん坊たちは、ある者は川に転落して流されていき、 あるものは爺のお供に召され、そしてアンリはこの時ばかりは幸運に柔らかい草むらに落ちて命を取り 留めたのだ。  もしかしたらこの時にありったけの幸運を使い切ってしまったのかもしれない。  いや、やはりこの時にも悪運を引き当てたのかもしれない。というのも、爺の商売が人身売買であっ たことは明らかで、その手を逃れたはずの赤ん坊たちだったのに、アンリは再び物として取引される商 品にされてしまったのだから。  アンリを買い取ったのは、本人曰く高級旅館の女将。アンリが知っている内情は、高級な金をとる娼 婦の館だ。  そこで物心つく前から働かされるというのがアンリに与えられた道だった。  だが、ろくに食事も与えられず、寝るのも馬小屋という不幸を絵に描いたような生活を送っていたア ンリは、ゲソゲソに痩せ、常に小汚いなりをしていたために客をとらされるようなことはなかった。  ひたすら毎日店の掃除をし、姐さんたちの部屋を回ってシーツを替えて洗濯をし、疲れ果てた頃に馬 小屋に帰ると、藁の上に萎びたリンゴや生のジャガイモが転がっているのだ。  そんな生活を十年以上続けたある日、発育不良のアンリも女の子になって初潮を迎える日が訪れた。  そしてそれを知った女将がアンリにも客をとらせようと画策したのだ。  初めて優しくされ、お風呂に入れてもらってキレイな服を着せてもらった。女将は今まで聞いたこと もない暖かい声で、風呂上りのアンリの髪をいい匂いのする櫛で梳かしながら言ったのだ。 『おまえも飾ればキレイな娘になるじゃないか。まだ貧相で色気なんてものはないけれど、そのまっさ ら加減に興奮する男もいるんだ。初めてに恐怖して逃げ惑う、誰の手垢もついていない生娘をものにす るのが好きな、変態ジジイどもが。まぁここまで育ててやったんだ。恩返ししてくれよ』   それが何を意味するのかは、さんざん娼館で働いていたアンリにはすぐに分かった。  あの姐さんたちが毎夜うめき声をあげるあれを自分にもやれというのだ。  蒼白になったアンリに女将は言った。 『あんなのは女なら誰だってできるよ。それこそおまえみたいな馬鹿にだってね。寝っ転がって足だけ おっぴろげておけば後は男がやってくれるさ』  それまで一度も逃げるという素振りもなく働いてきたアンリだけに、女将はそう言った後、鍵をかけ るでもなくアンリを残して部屋を出て行った。豪華だが何に使うのか明らかなベッドと匂いのキツイ化 粧品が並ぶ鏡台が鎮座する部屋の中に。  そのままアンリがその女将の自称高級旅館を逃げ出した。鏡台に並んだ金目のものとともに。  それがアンリの盗賊生活の第一歩だった。  そして今も盗賊、アンリの言うところのトレジャーハンターとして生活しているのだ。  が、もちろん悪運の強いヘッポコ盗賊としてではあるのだが。  今回の仕事こそは当りだと思っていた。  なんといっても手に入れた地図が、見るからに怪しげなものだったからだ。  図書館の、持ち出し厳禁の年代物の歴史書の背表紙に丸めて入れられていたのだ。  茶色く変色してバリバリの紙に大陸地図と、その上に記されたドクロのバツ印。こりゃ、すんごいお 宝に違いない。  確かにそれは希少な宝石だったのだろう。だが封印されていたのだ。あえてドクロの危険だという印 まで残した。  朽ちた洞窟の奥で見つけたときには、ついにやったわとアンリが両手を握って飛跳ねた。  何重にも鎖で戒められた小さな宝箱を見つけ、そのまま地面に叩きつけ、得意のかぎ破りで宝箱を開 けると、そこには透明な卵大の石が入っていた。  どこまでも透き通り、傷一つないつるりとしたそれは、特に目立った光を放つでもなく、美しいと魅 入られるようなものではなかった。  だが目にした瞬間にアンリは魂が魅入られたようにその透明な石を手に取っていたのだ。  ぎゅっと胸に抱きしめ、大事な子どもを愛しく思うように頬擦りした。  しかしその一瞬に、ガクンとアンリの体から力が抜け落ちた。  それと同時に、透明であった石の中に真っ赤な色素が水に零した血のように滲んで消えていった。  結果から言えば、それは吸血石、通称ヒル石という希少な、だが呪われた石製生物であった。  今や腕の中で真っ赤に染まった石。  だがそれを捨ててしまおうという気にはならないのは、その石がもつ人を幻惑する力だったのかもし れない。  へろんへろんになりながらも決して手離さずに、それどころか口元にはニヘラと笑いを浮かべたアン リが洞窟の入り口に向かって這いずっていた。 「わたしのでっかいハンバーグは誰にもあげないぞぉ」  幻覚を見ているのだろう。誰もいないはずの中空を見上げながら言う。  きっと伸ばした手にはフォークを握っているつもりになっているのだろう。  這いずってきたせいで泥まみれになっている顔に笑みを浮べ、口をあけて目に見えないフォークの先 の、きっと肉汁したたるハンバーグを口に運ぼうとする。  が、その腕が不意に握られる。  アンリの顔がショックの色で悲しげに歪む。  フォークの先からハンバーグが転げ落ちたのかもしれない。 「どうしされたのです、お嬢さん。どこぞの悪漢に襲われたのですか?」  アンリの腕をとってそう言ったのは、逞しい体に凛々しい眉を持った騎士だった。簡略な服装ではあ ったが、腰にあるのは大剣だ。  その男が、「失礼」と声をかけると地面に顔をつけてへたり込んでいたアンリを抱き起こした。  そしてその腕に抱いている吸血石を見つけ、ハッとしたように目を見張らせた。 「これは!」  そう言って男がアンリの腕から石を取上げようとする。  だが石に魅入られたアンリは、どこにそんな力が残っていたのかという勢いで唸り声を上げると石に しがみついて男の手に齧りついた。 「ダメ! これはわたしのハンバーグ」  幻覚に捕らわれて男の手に齧りついたままにもごもごと反論するアンリだったが、男はやや顔をしか めたもののむんずとアンリから石を取上げ、放り投げた。 「ああ、ハンバーグがぁ………」  世界の終わりを目にしたように叫ぶアンリだったが、石が地面に落ちる頃には、突如としてハンバー グが血色の石に変わっていることに気付いて目を丸くした。 「あ、あれ?」  そして自分が筋骨逞しい美丈夫な騎士様の腕に取り付いていることに気付いて、一気に頭を沸騰させ た。  とはいっても血は十分に吸血石にくれてやっているわけで、そのままアンリはバタリと倒れてしまっ たのであった。  その顔の色は、その後の騎士の談によれば、赤とチアノーゼの紫のまだらであって、かなり不気味で あったらしい。
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