第一章 鳥かごの中で牙を剥く、美しき姫


 笑顔で歩く姿は、そこにいるだけで優雅に紳士と舞う淑女のようですらあった。
 軽い足取りに揺れる襟足の後れ毛が、白くて細い首をくすぐるように飛び跳ね、ハンカチを持つ手は
今にも踊りだそうとするバレリーナのようであった。
 クリステリアの大好きな幾重にも重なった大ぶりのバラが咲き乱れる庭園を離れ、あまり人が寄り付
かない小川の流れる休息所に見立てた涼やかな水音をたてる庭園に足を踏み入れる。
 ここには原生の小さなピンクのバラが作る垣根があり、人目を隠してくれる。
 クリステリアは優雅にお辞儀をするように左右を確認すると、さっとバラの垣根にできた穴を潜った。
 そこには、彼女がロクサーヌの目を盗んではこつこつと作ってきた隠れ家があった。
 バラの棘に気をつけながら潜れば、立ち上がることはさすがに出来ないが、不思議と広い空間が現れ
る。そこは、かつて大木が立っていた場所で、その木に大きな洞ができていたのだ。そしていつしかそ
の木が纏ったように幹にバラが巻きつき、緑とピンクの衣装となっていったのだ。
 言うなれば、クリステリアは大木の纏ったドレスのスカートの裾を捲って、その中に隠れているよう
なものなのだ。
 小さい頃に見つけて以来、まだ誰にも発見されていない隠れ家であり、彼女の本性が全開にされる恐
ろしい場所でもあった。
 クリステリアはバラのアーチを潜っていくと、ちょうど彼女が真ん中に座るようにセッティングされ
ている円形の絨毯の上に腰を落ち着ける。
「やっぱりここは素敵ね。お父様のセンスで作られた宮殿もそれは素敵だけど、わたしのここのお部屋
の方が、ずっとセンスがいいわ」
 高さ僅か1メートル、スペースとしては1メートル半四方の空間ではあったが、そこにはクリステリ
アのお楽しみグッズがいっぱいだった。
 その一つ。六角形のガラスの瓶を手にとり、クリステリアが微笑みを讃えて胸の前に抱く。
 両手に抱えるほどの大きさの透明なガラスの中には、緑色のものが底のほうに見えていた。厚みが一
定でないために偏光するガラス瓶を顔の前にかざして、クリステリアがバラのアーチの向こうから差し
込む光を当てる。すると瓶の中のものがブーンと音を立てて飛ぶ。
 薄く向こうが透けて見えるグレーの羽をもったそれは、瓶の壁にぶつかってガチっと音を立てて底に
転がり落ちる。
 ひっくり返って六本の足を蠢かせるそれは、俗に屁っぷり虫と呼ばれる昆虫だった。
 なんとかひっくり返った体を起して歩き出す屁っぷり虫が、緑色とも玉虫色ともいえる背中を見せて
仲間を踏みつけて進む。
 瓶の底にはゆうに30匹を越える屁っぷり虫が蠢いていた。
「さぁ、楽しいお遊戯を始めましょう」
 誰に告げるでもなくそう宣言すると、クリステリアはおもむろに準備を始める。
 並べられていくのは、城の中から抜け目なく盗み出してきた数々の品だった。
 まずはマスク――これはトイレを掃除中の下女の荷物の中から拝借。もちろん消毒済み――を装着。
つづいて手袋――厨房の料理長のもので、彼女が盗み出したせいで下男の少年が怒られた――をはめる。
それから昔使っていた宝石箱の中に入れた、ピンセット――具合の悪い振りをして呼び寄せた医者の治
療セットからちょろまかした――を膝の上に置いて実験の準備は完了だ。
 まずは六角形のガラス瓶を胸の前に抱え、勢いよく前後に振りはじめる。
 途端にガラス瓶の中は、超巨大な地震に襲われたように揺れ動くわけで、屁っぷり虫たちが大恐慌を
起して暴れ始める。ガンガンとガラス壁に激突しては、ブンブンと羽音も高く飛び交い、その度に尻か
ら臭気を放つ液体を放つ。
 中には振られすぎて、体の一部をガラス瓶にぶつけて粉々に砕いてしまったために死骸になってしま
ったものもいるくらい。そのくらいになったところで、クリステリアが振るのをやめる。
 そしてその瓶を絨毯の上に下ろすと、今度はピンクのレースのハンカチを取り出す。
 今は静かになっているが、その中にはミツバチがいるはずなのだ。
 そっと覗き込めば、確かに足をモゾモゾとさせて丸い尻をヒクヒクと動かすハチがいる。
 その体をピンセットで掴んで引っ張り出す。
 途端に羽音をさせて飛び立とうとするハチだが、クリステリアによって放り込まれたのは、よりによ
って屁っぷり虫の放った臭気だらけの瓶の中だった。
 ピンセットを持つ手にもその生命力が伝わってくるほどの活発な動きを感じさせていたハチだったが、
瓶の中に放り込まれて出口の蓋を閉じられると、途端にその毒に満ちた空気に当てられたようし失速し
て瓶の底に落ちてしまう。
 自分の身を守るために臭気を発散させるのが屁っぷり虫の習性なのだ。あまりの匂いに外敵はその虫
を喰らうことをあきらめて逃げていくのだ。
 そんな臭気が三十匹分も込められた閉塞空間に入れられたら、人間とてすぐに出してくれと泣いて懇
願するかもしれない。
「あらあら、ハチさんもかわいそうに。あまりに匂いに失神してしまったのかしら?」
 笑顔で言ったクリステリアは、瓶ごとお気に入りのバラで覆われた部屋から出ると、今度は小川へと
歩いていく。
 そして瓶の蓋を外して川の水をいっぱいに入れると、浮いてきたハチだけをピンセットで掴んで救出
し、あとはすでに用済みだという様子で川の中に流してしまう。
 散々に瓶の中で揺すられ、地震の恐慌状態を脱したかに見えた屁っぷり虫たちは、今度は逆巻く水地
獄に叩き落され、なす術もなくどんぶらこどんぶらこと流されていく。それでも、命尽きる最後までク
リステリアにつき合わされなかったのは、せめてもの幸運だったのかもしれない。
 そういう意味では、今びしょ濡れで悪臭地獄からの生還を果たしたハチくんの方が不幸そのものだっ
た。
「おまえもバカねぇ。ハチには毒針という武器があるのでしょう。だったらそれを振るって勇敢に戦わ
なくてはダメよ」
 そういうと、クリステリアは憐れなハチくんを連れて厩へと歩いていく。
 朝の清冽な空気を吸って、今日という一日を感謝のうちに過ごすかのように見える美少女は、だがそ
の頭の中で次の悪戯を考えてこの上ない幸せに満たされていた。
「おまえも最後は自分のハチとしての生涯に誇りを持って死ねるように、大舞台を用意してあげますか
らね。自分の体よりも何倍も大きな生き物に挑んで勇ましく死んだ英雄になるのよ」
 熱っぽく語りかけるクリステリアに、だがハチはこの不幸から解放したまえと祈るように羽を振るわ
せる。
 だがもちろん死刑執行人クリステリの手を逃れることは不可能。
 嫌な匂いを体に纏ったクリステリアの登場に、厩の馬たちが途端に精神不安を訴えて足を踏み鳴らし
始める。
 なにも臭いことだけが原因ではない。彼女が来るとろくなことが起こらないことを、賢い馬たちは学
習しているのだ。
 そしてもちろん今日も不幸は訪れる。
「さあ、この大きく逞しいお尻に一刺ししてやりなさい」
 クリステリアの前には、栗毛の優美な馬がいた。
 横目で姫の存在を見て震えている。かわいそうな姫専用の馬だった。
 クリステリアはハチの尻の針を構えると、馬の尻に突き刺す。
 当然の如く、痛みに仁王立ちになった馬が嘶きの声を上げる。
 その声に馬番たちが飛び出してくるが、すでにそこに姫の姿はない。さっと草陰に身を隠したのだ。
「どうどう。落ち着け。何があったんだ?」
 馬番たちが暴れる馬をいなして落ち着けようとするのを眺める。
 そして一人の馬番が馬の尻に刺さっている黒い棘に気付いて抜いてやる。
「ああ。これか。ん? ハチにでも刺されたか? でもなんだってハチも立ってるだけの馬を刺すんだ
? 八つ当たりでもするんかいなぁ?」
 その会話を聞きながら、クリステリは手にしたピンセットの間のハチを見てフフフと笑う。
 ハチは微動だにでずに息絶えていた。ハチの一刺しの攻撃は命がけなのだ。
 毒針は一度突き刺せば、ハチ自身の体からもげてしまうのだ。そして命は尽きてしまう。
「さぁ、あなたは英雄よ!」
 姫はそう囁くと、厩の横に砂を掘ってお墓を作る。〈馬と闘った英雄ビー将軍の墓〉と書いた墓石つ
きで。
「冥福を祈るわ」
 勝手に殺しておきながらそう言うと、クリステリアが今日も素敵な日課をこなすことができたと、颯
爽と歩き出すのだった。
 ちなみに、クリステリアの攻撃対象となった栗毛の馬は、先日姫恐ろしさに便秘で歩けなくなったの
だ。それがきっかけでロクサーヌに自分がした馬への悪戯を感知されてしまった。その報復だったこと
は間違いなかった。




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