「わたしだけのスポットライト」



 キラキラと輝いて美しかったあの舞台に憧れて、バレエを始めてから15年。
 わたしは今日、その世界に別れを告げた。


 手に持ったバックの中にあるのは、使い込んだトウシューズと毎日着てい
たレオタード。
 今日はいつもに増してそのバックが重かった。
 陽が落ちて随分経った薄暗い路地を、トボトボとうつむきながら歩く。
「あ〜あ、自分で決断したのに、やっぱ落ち込むわ」
 カバンの中には、バレエ教室の友達からもらった花束も入っていた。
「綾ちゃんがいなくなるなんて寂しいよ」
 一番の仲良しであり、よきライバルであった美紀の、涙を浮かべた顔が脳
裏に残っていた。
「美紀はがんばって続けてね。きっと名プリマになるよ」
 精一杯の強がりで笑って見せたが、どこか顔は引きつったままだった。
 わたしだって、続けられるものなら続けたいよ。でも、プロになるほどの
才能がないわたしには、どんなに好きでも引き際ってものがあるのよ。
 コンクールで上位入賞をした美紀には分からないよ。
 そんな皮肉を心の内でつぶやく自分も嫌だった。
 家々の窓からもれる光はどこまでも優しく、その中にあるだろう家族の暖
かさを思うと、気持ちはどうしようもなく沈んでいく。
 夕飯の匂いが、優しい母親を連想させる。
 わたしにもお母さんがいたら、こんなことにはならなかったのかもしれな
いよ。
 父と母が離婚したのは中学1年の時だった。父に引き取られてたわたしは
お金で苦労することはなかったが、バレエを続けたいという心情を理解して
もらうことはできなかった。
「もう、いいの。十分楽しんだんだから」
 自分に言い聞かせて顔を上げたときだった。
―ミャーオ
 一匹のネコがそこにいた。
 暗くなった道に灯った街灯をスポットライトのように浴びて、一匹の子猫
が目のあったわたしに小首を傾げて見せる。
 小さな子猫が、大きな目でじっとわたしを見つめていた。
「何してるの? こんなところで」
 しゃがみ込んで指を子猫にむけると、くんくんと鼻を近づけ、そのまま顔
をすりすりとなすりつける。
「かわいいね、おまえ」
 そう言いながら、ふと自分が子猫の浴びていたスポットライトのエリアに
入っていることに気付いた。
 あの舞台の上のような眩いばかりの目もくらむ光ではないが、暖かく照ら
すオレンジの光。
「よし。おまえにわたしの引退ダンスを見せてあげる」
 子猫の鼻先にビシっと指さして、笑ってみせる。
 そのわたしを、子猫がきょとんとした顔で見上げた。
 踊るのは、ずっと憧れてきた白のバレエ。ジゼル。
 愛する人と結ばれることのなかった娘たちが亡霊となって、恋人を捨て
た男たちを踊り殺す。
 だがジゼルは、愛するアルブレヒドを守り通す。
 体が軽かった。何のプレッシャーもなく、自分と目の前にいる子猫のた
めだけに踊る。
 いつもはふらつくピルエットもピタリと止まる。
 ああ、やっぱりバレエって楽しい。
 その時だった。
 不意にわいた拍手の音。
 慌てて踊りを止めた背後に、一人の少年が立っていた。高校の部活の帰
りなのだろう、大きなスポーツバックを下げている。
「ブラボーっていうの?」
 そのすっとぼけた口調に、おもわずわたしもクスリと笑いをもらした。
 そして優雅にお礼のお辞儀を返すと、足元に擦り寄ってきた子猫を抱き
上げた。
「今踊ってたのバレエでしょ?」
「そうよ。よく知ってるわね」
「母ちゃんが熊川哲也のファンでさ」
「ははは、そうか」
 わたしは笑いながらカバンを持上げた。
「俺、バレエなんてよく分からないし、何が楽しいんだかわからないけど
、いまのあんたの踊りはちょっとよかったよ」
 ただの素人の通りかかりの見ず知らずの少年の言葉。
 だがそれがなんだか心に染み渡った。
「ありがとう。でもわたし今日でバレエ、やめたんだ」
 少年が、その言葉に面食らい、しばらく絶句した。だが返ってきたのは
予想外の言葉だった。
「そっか。まあ、もったいない気もするけど、そのぶん新しい道が開けたんじゃん」
 少年はさらりとそう言うと、わたしの手の中にいる子猫に手をのばした。
「さっきの踊りが見れたのはおまえと俺だけだ。ラッキーだったな」
 ちらりと見上げた少年の目が、いたずらっ子のように輝いていた。
「新しい道か」
「そうそう。俺肩痛めて野球は断念したけど、今水泳部でエースだし」
「へ〜。肩痛めたからこそ、見つけた新しい道?」
 片眉を上げて見せた少年の顔が、得意げだった。
「さっきの踊りはなんて踊り?」
「ジゼル。愛する男アルブレヒドに裏切られながらも、愛し続ける女の踊りよ」
「ふ〜ん。壮絶じゃん」
 少年は子猫を抱きとると、顔の前にかざした。
「このネコ飼うの?」
「うん」
「じゃあ、俺もたまに見に行っていい?」
「………」
 初対面の男の子の言葉に答えがつまる。
「アルブレヒドみたいに、あんたの踊りに魂取られちゃったの、俺」
「は?」
「なあ〜」
 少年はわたしには答えず、子猫に同意を求めて話し掛けている。
―ニャオン
 子猫も偶然にか、鳴き声を返す。
 子猫と少年がわたしを見つめる。
 どうしたものかと天を仰ぎ見る。
 でも重かったはずのバックが、今はとても軽いのだった。


 バレエをやめた日、わたしは二つのものを拾った。
 かわいい子猫と、手のかかる生意気なボーイフレンド。
 きっとわたしは、あの日のスポットライトを忘れない。
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