「ひぐらしは鳴かない秋の空」

                                                           原案:ゆかり  作:さくらみかん 

 
 あまりに高い空。
 体まで溶け出しそうな澄んで青い空を、細い雲がたなびいていた。
 木々を揺する風も、すっかり秋の空気に冷たく、むせび泣くように木の葉を揺する。
「空も泣き出しそうだ」
 層をなす雲の向こうから、黒い暗雲が迫りつつあった。
ずっと空を見上げていた。
 何もかもが現実感を失って、自分の存在さえ曖昧に溶けてしまいそうだった。
 だが、確実に胸の中では心臓の鼓動が続いている。
 君を求めて痛む胸を感じつつ、そこから目をそらして考える。
「これは現実ではない。きっと俺はただ、涙を誘う映画を見ているだけ。そうだろ?」
 ―― なに泣いてるの? 意外と涙もろいんだぁ?
 そう言って君がどこからか顔を出してくれる気がしていた。
 涙を隠す俺にティッシュの箱を差し出しながら、笑ってくれるような気が。
 トンボが飛んでいく。
 あの頃は、ひぐらしが鳴いていたはずなのに。ほんの数ヶ月前まで。
 下げた目線の先で、君の笑顔がぼくを見つめる。
 菊の花に囲まれた遺影の中の君の笑顔。


「なにそのブスっ面」
 咥えタバコで運転する園田空(そのだ・そら)が隣りの助手席に座る彼女をみやる。
 髪を結わえてアップにしたうなじが、色気よりも頑固さを滲ませていた。助手席の窓に映った目が、
するどくにらみ返す。
「おっかね」
 わざとらしくブルブルと震えてみせれば、浴衣姿の大和なでしこ気取りだった振る舞いもすっかり忘
れ、ゲンコツを振り上げる彼女、海野杏奈(うみの・あんな)。
「もう!」
 運転中の腕を殴られそうになり、慌てて杏奈の手を受け止める。
「危ないって」
「運転には自信があるんでしょ?」
「もちろん。でも杏奈が乗ってるから、いつもより安全運転を心がけたいから」
 横目で杏奈に微笑みかければ、怒っていた顔にポッと赤みがさし、おとなしく助手席のシートに収ま
る。
 窓の外には、やはり浴衣を着た女の子たちが期待に胸膨らませた笑顔で列をなして歩いている。
 今日は全国的に有名になりつつある大きな湖上での花火大会の日だった。
 たくさんの見物人で賑わう湖畔には、すでに人だかりができていることだろう。たくさん並んだ屋台
からは威勢のいい呼び声が響き、人いきれの熱気の中で下駄の音がカランコロンと響く。
 そんな中を一緒に歩いて、空に咲く大輪の花を見せてあげたい。
 そう言って花火大会に誘ったのは空の方だった。そして一も二もなく杏奈も頷いたはずだった。
 もう何週間も前から、屋台攻略作戦を立てて笑いあうほどに気合をいれていたぐらいだ。
 それが今隣にある沈黙に沈んだ杏奈の顔に笑顔はない。
「で? なにを怒ってるのかな?」
 タバコの煙を窓の外に吐き出し、火を消す。
「あ、タバコか? 杏奈はタバコ嫌いだったっけ?」
「ううん。平気。……っていうか………」
「っていうか?」
 促がした答えに、なぜか赤面する杏奈を、ゆっくりとしか進まない車の運転の隙に見る。
「何赤くなってるの?」
「そんなことはいいの! それより、今日うちに迎えに来るの3時って言ったじゃん。それなのに、空
何時に来たか分かってる? 5時だよ5時! 二時間も遅刻。それを、『お、わりぃ、昼寝してたら寝
過ごした』って」
 見事なものまねつきで、ついさっき自分が口にした言葉を言う杏奈に、空が笑い声を上げる。
「つうか、おまえ俺のまねウマイなぁ」
「だ〜か〜ら〜、問題はそこじゃありません!」
 額に伸びてきた杏奈の手を自ら受けると、ピチャっといういい音が車内に響く。
「イタ」
「おしおきです」
 なかなかスナップの効いた手の平に声を上げれば、初めて杏奈の顔に笑みが浮ぶ。
「この償いは?」
「う〜〜ん。屋台の代金は俺がもつ」
「よし! でもそれだけ?」
 元気にガッツポーズを決めた杏奈が、ねだるように上目遣いで空を見る。
 それに片眉を上げて見せた空が、意味深に笑みを浮かべる。
「わかってるって。約束どおりサプライズは用意してるから」
 杏奈の顔が、この上ない幸せを照れ隠しで誤魔化すようにして笑う。
 付き合い始めて2ヶ月。
 何度もみた杏奈の笑顔だったが、この日の笑顔が今までで一番かわいいと空は思った。


 鳴り響く花火の巨大な爆音が、建物に反響してビリビリと空気を振るわせる。
 頭上に咲く巨大な花火は、一瞬の煌めきを目に焼きつけ、儚く散っていく。
「キレイ」
 湖面を渡ってくる風に寒そうにしている杏奈を後ろから抱きしめ、二人で夜空を見上げる。
「はい、どうぞ」
 顔の前に杏奈が手にしていた綿飴が差し出される。
 両手は杏奈を抱きしめたままでふさがっているので、鼻から綿飴に突っ込むようにして齧りつく。
「あま!」
 口の中で解けて消えていく綿飴に、空が顔を顰める。
「だって砂糖のかたまりだもん」
 そういう杏奈は、もう片方の手に握った五平餅を齧っている。
「俺もそっちがいい」
「えーー。これ、わたしの大好物」
「一人でそんなにでかいの食べたら、デブるぞ」
 意地悪く耳元で言えば、キッと睨みつけながらも杏奈がクルミ味噌が塗られた餅の串を目の前に差し
出してくれる。
 こんがりとオコゲをつけた餅とクルミ味噌の甘しょっぱい味に、大口で齧りつく。
「うん、うまい!」
「あーー、こんなに食べちゃった!!」
 五平餅についた大きな歯型を見て叫ぶ杏奈。
 そのとき、再び大きな音を立てて花火が夜空に向う。
 濃紺の夜空に咲いたのは、金色に煌めく宝石箱。そしてその中で色を変えて姿を見せたのは、特大の
ハート。
 淡いピンクから赤へと色を変えたハートが、金色の箱の花で輝いていた。
「かわいい〜」
 杏奈が歓声を上げる。
 その頬に、空が軽く唇を触れさせる。
「あれが俺の愛の大きさ」
 花火を指さして言った空を、杏奈が照れた顔で見る。
「でも空が指さした瞬間には、もうハートは消えてたよ」
「そりゃ、残念」
 空が抱きしめていた杏奈の肩に、がっかりだと頭を垂らす。
 そんな空に杏奈が笑い声を上げる。
「大丈夫。空の愛情をちゃんと杏奈ちゃんの胸に伝わったから」
 顔を上げた空と杏奈の目が合う。
――本当?
 声を出さずに問う空に杏奈が頷くと、二人は声を殺して笑い合うのであった。


 本日のサプライズ企画だといって連れて来られたのは、一人暮らしをする空のマンション。
 幾分緊張気味の杏奈だったが、「はいはい」と張り切っている空に部屋へ通され、そのまま一気にベ
ランダに押し出される。
 キャンプ用のパラソルつきのテーブル席に座らされ、そこで待ってろと念を押されて、杏奈は手持ち
無沙汰でベランダの向こうに見える景色を眺めていた。
 この日のためにキレイに飾り付けたのか、観葉植物や花の鉢が並び、ちょっとした庭園風にレンガで
無骨なはずのコンクリートのベランダを変身させている。
 仕事から帰ってきた後で、夜な夜な一人、花やレンガを並べていたのだろうか?
 想像した杏奈は、感激するようなちょっと可笑しいような気分になって咳払いをする。
 と、そこへなぜかギャルソン風にエプロンを腰に巻いた空が、手にガラスのボールを掲げて現れる。
「お待たせいたしました」
 本当にギャルソン気取りだ。
 そしてテーブルの上に差し出したのは、フルーツがたくさん浮んだフルーツポンチ。
「え? え?」
「召し上がれ」
 大きなガラスボールから小皿に取り分けてくれた空が、スプーンと一緒に杏奈の前に差し出す。
「うん」
 受け取った杏奈が、丸く切り抜かれたスイカをスプーンに載せて口に運ぶ。
「おいしい。これ、作ったの?」
 杏奈の正面に座った空が、すごいだろと自慢げにうなずく。
「フルーツ全部、缶詰じゃないからな。全部自分でカットしたんだからな。スイカが思いの他時間がく
っちまってさ。スプーンでチマチマとくりぬいて丸くしてくんだぞ。しかも食べやすいように種は取っ
てさ。あんまり早くから作っておくと味が変わると思ってギリで作り出したら、待ち合わせに遅刻して
しまいました」
 最後に一言に、杏奈が目を見開く。
「寝坊したってウソ?」
「だって言ったらサプライズじゃないじゃん」
 空もフォークでスイカをすくい取ると、口に運ぶ。
「……だったらあんなに怒ったわたしがバカみたいじゃん」
 申し訳なさそうに言う杏奈に、いやいやと空が首を振る。
「別にいいって。それだけ俺と出かけるの楽しみにしてくれてたってことでしょ? 浴衣もかわいいか
らOK」
 笑って言う空だったが、「でもそうだな」と呟いて腕を組む。
「何?」
「杏奈にも怒った償いをしてもらうかな」
「ん?!」
 自分は散々屋台で買い物をさせてくせに、自分に向けられた償い宣言に飲み込みかけていたオレンジ
を喉に詰まらせる。
「俺、女の子に『はい、アーーン』ってやってもらうのが、実は憧れ。アホな憧れだけど」
 そう言ってにっこりと笑う。
「……恥ずかしい」
「いや、それが償いだから」
 見たことのないほどの嬉しそうな笑みで言う空に、杏奈は仕方なくスプーンでスイカをすくう。
「空。はい、アーーン」
「アーーン」
 口を開けた空にクスリを笑いを漏らしながら、アンナが零さないようにと空の口に運ぶ。
 口に入ったスイカをモグモグと咀嚼しながら、目で続きは? と空が促がす。
「ん? え〜っと、おいしい?」
「うん。でも、今度はこれ、杏奈の手料理でやってね」
「ヤダ、恥ずかしい」
 いてもたっても居られなくなった様子で杏奈は席を立つと、目についた花火のセットを指さす。
「あ、花火」
「って、さっき散々見てきたでしょ」
「でも、これもやりたい! 線香花火大好き!」
「はいはい」
 わざとらしいくらいに元気に飛跳ねてみせる杏奈に、苦笑交じりで空が頷く。
「待ってろ。バケツ持ってくるから」


 あの時見た線香花火は、パチパチと生き急ぐように火花を散らし、真っ赤な火の玉をポトリと落とし
た。
 シーンと静まり返った闇の中で響いていたのは、ひぐらしの声。
 闇の中で交わしたキスは、だがはっきりと杏奈の唇の色を空の脳裏に残していた。月光の中でキラリ
と光った艶やかな唇。
「あの。園田空さん?」
 不意に掛けられた声に、空は声の主を捜して振り返った。
 そこには杏奈とよく似た面影をもつ、少女が立っていた。
「君は?」
 黒いワンピースをまとって、真っ赤に染まった目で立っている少女が、空に向って一通の手紙を差し
出す。
「杏奈の妹で、美奈といいます。姉に、いつも空さんのこと、聞かされてました」
 白い封筒の上に、杏奈の字で「空へ」と書かれていた。
「姉の机の上にあったんです」
「……ありがとう」
 無気力な声が、喉から惰性で言葉をつむぐ。
 辺りを漂う線香の香りが、空を覆い始めた暗雲の湿気で地面を這うように進む。
 これが夢幻の世界だと示すスモークのように。
「姉は、生まれたときから心臓に欠陥があって、生まれたときに10歳まで生きられないと言われたそ
うです。だから、何をするのも一生懸命で、病気があるなんて信じられないくらいに、いつも明るく笑
っていて」
 涙をハンカチで押さえる杏奈の妹を見つめながら、空は手の中の手紙を指でなぞる。
「俺も知らなかった。病気があるなんて」
 知っていたら、もっといろんなことがしてやれたはずなのに。
 現実に迫った杏奈を失った喪失感に、胸の奥が苦しく潰れていく。
「姉は、空さんに病気の自分ではなくて、元気に笑う自分だけを見て欲しかったんだと思います。空さ
んが、姉の最初で最後の恋人ですから」
 頭を下げて去っていく杏奈の妹を見送り、手の中の手紙を開く。
 そこにあったのは〈199212〉と書かれたカギと短い手紙だった。


 指定された場所は何度も杏奈とドライブした景色の美しい山の中腹だった。
『秋には紅葉を見に来ようね』
 杏奈の声が脳裏に甦る。
「俺一人で来させてんじゃねぇよ」
 まだ明けきらない夜のしじまに、タバコの先で燃える赤い火の上げる音だけが聞こえる。
 杏奈の手紙にあったのは、この場所へ朝の四時に来ることという指示だけだった。
 助手席に転がっているのは、〈199212〉の貸し金庫からもって来た紙袋。
「ちゃんと来てやったんだ。迎えに来いよな」
 空中に向ってそう声を掛け、タバコの火を消す。
 紙袋を手に、車から降りる。
 濃い霧が、強い風に乗って流れていく。
 空の体からも熱を容赦なく奪って、哀しい涙を残して去っていく。
 袋の中に手を入れ、硬く冷たい固まりを取り出す。
 黒光りする、手に重く圧し掛かるそれは拳銃。
 それを手の中でしっかりと握り締める。
 躊躇いはない。
 撃鉄を起す。
 シリンダーが回転する。
「待ってろ。今、俺も行くから」
 空はこめかみに拳銃を当てると目を閉じた。
 恐怖はない。
 引き金をひく指に力をこめる。
――カチ
 冷えた音とわずかな振動だけを残して、拳銃は火を吹くことなく手の中にあった。
 再度引き金を引く。何度も引く。
 だが弾がでてくることはなかった。
「なんだよ、これ!」
 空は拳銃を地面に投げつけた。
 ゴトンと音を立てて転がった拳銃のシリンダーから、薬莢が一つ零れ落ちる。
 火薬が抜かれた空の薬莢が転がる。
 死を選ぶ覚悟を奪われ、地面に座り込んだ空は、空の薬莢を手にとり、笑い声を上げた。
「なんだよ、杏奈。俺に何をさせたいんだよ。こんなものを用意しておいてさ。俺に自分のところに来
いって言ってくれてたんじゃないのかよ!」
 憤りはいつしか涙になって空の目から零れた。
「からかってるのかよ! え?!」
 声を限りに叫ぶ。
 だがそのとき、空の周りを漂っていた霧が嘘のように晴れわたり、雲海の向こうから一条の太陽光を
煌めかせた。
 どこまでも広がって優しく全てを覆う青い空。そしてその下に広がるのは、真っ白な雲でできた海だ
った。
 体の中に溜まった怒りも悲しみも、全てを流し尽くすほどに美しい荘厳ともいえる光景だった。 
 空は手の中に握っていた薬莢から、白い紙がはみ出しているのに気付いて呆然とした意識の中で取り
出した。

―― 空へ

 空がこれを手に取ったってことは、きっとわたしはもう死んでしまったってことだね。
 本当のことを言わなくてごめんなさい。
 一人、勝手に死んでしまってごめんなさい。
 でも、空とは一点の曇りもない、幸せな女の子として側に居たかったの。
 そして空の隣りにいたわたしは、本当に世界一幸せな女の子でした。

 空はとっても素敵で優しくて、大好きなわたしの彼。
 知ってる? 空と海はいつでも手をつないで隣りに並んでるって。空と海。あ、わたしの名字覚えて
るよね、海野。
 残念ながら長野には海がないね。でも、今空の目の前には海があるでしょう。
 空はずっとわたしのことを抱きしめてくれている。わたしも空の隣りにいる。
 
 だから悲しみ続けないで。
 大丈夫。空の中の悲しみや後悔は、わたしが撃ち殺してやったから。
 空は、生きて。わたしのぶんも。

 空。

 ありがとう。


 杏奈の予告通り、目の前には白い海を抱きしめた空が広がっていた。
「バカ。なにが悲しみは撃ち殺してやっただ」
 白い海に向って文句をいう。
「勝手に死んでしまってごめんなさいじゃねぇよ!」
 叫んだ声の語尾が震える。
 堪えた口から嗚咽が上がり、手紙を握った手で頭を覆って涙を零す。
「ありがとうなんて……なにも俺は………」
 ぎゅっと手紙を握り締める。
 その背中を、ふっと温かい感触が掠める。
 誰かが抱きしめてくれたような温かさが。
 顔を上げた空を、太陽の光が照らしていた。
 木々の間から、鳥のさえずりが響く。
 それが空には、杏奈がよく口ずさんでいた歌に聞こえた。
「あなたといる……夢をみていた………いつまでも……永遠のときの中を……」
 脳裏に甦る声に空の声を重ねる。
 その声が、秋風の中に溶けていく。
 空高く舞い上がったその声が、消えたひぐらしの代わりに聞こえてた。
 いつまでも、いつまでも。



                                                                                  <了>
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