「紫の天の川」




 夜中に目をさまして見上げた空は、凍って透き通った紫色だった。
 真夜中の静かに澄み渡った空気を胸いっぱいに吸い込む。電気が消えて闇に沈んだ
街並みは、深海のようだった。
 その中で車も通らないのに明滅を生真面目に繰り返す信号機だけが、生き物のよう
に見える。
「ああ。寒い」
 春先の寒さに、首に巻いたマフラーを握り締める。
 なごり雪が降った今日は、空気が鋭く緊張していた。
 だからこそ、星が空にこぼれた粉砂糖のように美しく見えていた。
「また物好きが屋根に登ってる」
「そっちも同じでしょ」
「ま、ね」
 里奈は後ろからやってきた隣家の友人、瑞希に笑いかけた。
 用意周到に、瑞希の手には温かそうな湯気をあげるミルクを入れたマグカップが二
つ。
「はい」
 渡されたカップをサンキューとつぶやきつつ受け取ると、両手で包んだ。
「はぁ〜、あったかい」
 心底うれしげに言う里奈に、瑞希が微笑む。
「で、今日は何の悩み?」
 瑞希はさっきまで里奈がしていたように、夜空を見上げながら言った。
「何よそれ。別に悩みなんて…」
「なに言ってるの。里奈は悩みがあると屋根に登るのは、小さいときからのお決まり
でしょ」
 幼いときから時を共有してきたのだ。全て行動パターンを知り尽くされていては、
言い返す言葉もみつからない。
 でも、この時間の共有も、もうすぐ終わりを迎える。
「瑞希のウエディング姿はきれいだろうな」
「なによ、いきなり」
 里奈はマグカップの上に顔を置いたまま、その湯気をじっと見つめていた。
 3つ年上の瑞希が結婚を決めたのは3ヶ月前だった。
 そして、あさって隣りの実家を出て新居での生活を始める。
 ずっと側にいて支えてくれていた瑞希がいなくなる。
「なによ。彼にわたしを奪われて妬いてるわけ?」
 瑞希の揶揄に、里奈は膝の上の顔を瑞希に向けた。
 真剣に瑞希を見つめる里奈の目から、ポロリと涙が落ちる。
「ヤダ、なに泣いてるのよ!」
 びっくりした顔で里奈を見ていた瑞希だったが、つられたように目を潤ませ顔をそ
らすと里奈の頭に手を置いた。
「瑞希ちゃん、結婚おめでとう。わたしだって、瑞希ちゃんが幸せな花嫁さんになる
のはうれしいよ。でもね」
 そこで声をつまらせた里奈が、再び目を向けた瑞希に言った。
「いつも側にいてくれたお姉ちゃんだったから、いなくなっちゃうなんて。これから
わたしは誰に悩みを相談すればいいのかなって」
 瑞希の目からも涙がこぼれた。
 里奈の横にくっ付いて座りなおした瑞希は、里奈の肩を抱いて座ると一緒に闇に沈
む街並みを見つめた。
「あのスーパーに一緒に行ったの覚えてる? 里奈がはじめてのお使いでお財布落と
しちゃって、泣きながらわたしのところに来たっけね」
「気付いたらポシェットにお財布だけなくて、パニックだったよ」
 里奈が涙を拭うとクスクスと笑い声を上げた。
「それから、スーパーの向こうの公園では、ブランコから落ちて気絶したことがあっ
たわよね」
「立ちこぎして大きく揺らしたのはいいけど、滑って宙を飛んだんだよ。怖かったな」
 二人の思い出話に花が咲く。二人で一緒に歩んできた過去の道筋。
 瑞希はかわいい妹のような里奈の頭を抱き寄せる。
「里奈。いいこと教えてあげるね」
 里奈は瑞希の顔を見上げる。
「ここから歩いて20分のスーパーの向かいの公園。その公園の南側に建ってるマン
ションが分かる?」
 うなずく里奈。
「そこがわたしと彼の新居」
「… え?」
 途端に瑞希の肩から顔を上げた里奈が大きな声を上げる。
「結婚して家を出るっていうから!」
 泣き顔だった里奈の顔が、今度は赤く染まる。
「そんなの詐欺じゃん! さんざん人を悩ませといて!!」
「悪い悪い! でも里奈ったらかわいいなぁ。そんなにわたしのこと愛してたんだ」
「違うもん!」
 屋根の上でバタバタ暴れる女二人に、二階の窓が開き、里奈の母親が顔を出す。
「うるさいよ、あんたたち。いい年した女が二人で屋根なんかに登ってるんじゃない
よ!」
 眠そうな顔で言うだけ言ってひっこむ母の顔に、里奈は思わず笑い声を上げた。
「心配するな。結婚したって、わたしがわたしでなくなるわけじゃない。いつまでも
里奈はわたしの妹分だから」
 屋根の上で立ち上がった瑞希に、里奈がうなずく。
 月明りに照らされた瑞希の横顔が、月夜にだけ咲く月下美人のように美しかった。
 里奈は紫色の夜空と、そこにかかるレースのような天の川を見つめて伸びをした。
 このキレイな瑞希の横顔を知るのはわたしだけ。
 流れ星が一つ、流れていった。



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