「オアシス」



 立ち上るのは陽炎。
 灼熱の熱気で息がつまる。
 一歩踏み出す足の裏は、すでに焼けどでむけた皮が垂れ下がり、麻痺した痛みに口から擦り切れ
た喘鳴がこぼれる。
 浅黒い肌を薄布で覆っただけの少年が、クレムゾン色に染まった岩砂漠の中をフラフラと歩いて
いた。
 その手首にあるのは縄で縛られてできた紫の圧迫痕。
 擦り切れた手と体中にできた痣が、少年の今まで生きてきた道を示していた。
 奴隷。
 少年は今、逃亡奴隷として砂漠の中を彷徨っていた。



 少年の目に映るのは、真っ赤に染まった大地と、高温に脱色された太陽の白い光。
 すでに汗も出ない。
 口の中は渇いて張り付き、息もつまって時折むせ込んだ。。
「水… 水…」
 幻さえ見せてはくれない熱しきった砂漠の中で、ついに少年は膝をついた。
 がくんと落ちが膝に、体は支えをなくして赤い岩の上に倒れこむ。
「熱いよ… 痛い…よ…」
 つめを地面につきたて、せめて木陰へと体を進めようとしても、その木陰さえも視界になく、体
も一ミリたりとも動きはしなかった。
「こんなところで… 死にたくない… あのままあそこにいたら… 逃げたりしなけれが…」
 後悔とそれでもあの場にこれ以上いられなかったという思いで、心は引き裂かれる。だが、その
顔を悔しさで歪めるこさえできなかった。
「誰か…たすけ…て」
 そのときだった。彼の頭上に影を作るものが現れた。
 目をあげれば、そこにあるのはサンダルを履いた女の細い足。
 自分と同じ褐色の肌は、しかし涼やかに潤っていた。
「助けて…」
 やっとの思いで顔を僅かにあげれば、青い空の下で、頭上を薄絹で覆った女の美貌が自分を見下
ろしていた。
 暑さなど感じていない青い目は、しかし人間のものとは思えなかった。
 女は少年の上に身を屈めると、その頭に手を置いた。
 ひんやりとしたその手が、苦痛だけで埋まっていた少年の意識をわずかに癒す。
 少年は穏かな思いで目を閉じた。
「ぼく…死ぬの?」
 その声に、女は沈黙で答えた。
 静かに髪を撫でるその手が、少年にとって、初めて経験する安らぎだった。
 少年の体が息を吸って大きく膨らみ、そして…。



 少年の目から涙が一粒零れ落ちた。
 その涙を女は手に取ると、そっと手にしていた種の上にのせた。
「少年よ。そなたの思いがこの地に潤いをもたらすだろう」
 女のその涼やかな声とともに、手の中の種が輝きを発した。
 白い太陽光のもとで、青い光をはじけさせた種は急速に芽を伸ばし、女の手の平の上からその葉
を大きく繁らせていく。
「さあ、この地にオアシスを!」
 女の叫びで、砂漠に光が満ちた。
 清涼な風をともなって吹き抜けた光。
 その光が消え去ったとき、そこには緑の繁るオアシスがあった。
 水辺に倒れた少年。
 緑の草に抱かれた少年は、まるで眠っているようだった。
 少年の髪を、風が優しく撫でていた。
 オアシスのほとりの木に、女の薄絹がはためいていた。



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