「桜」



 見上げれば、風情溢れる桜の枝越しに満月が輝いていた。
 白に見まがうばかりの淡い桜色が、風にゆらゆら揺れていた。
 酔っ払いも花見の安っぽいちょうちんも揺れていない。小さな公園に立つ一本
の桜の木。
 その木の根元に一人の少年が立っていた。
 まだ幼い痣だらけの足にスニーカーをはき、短パン姿で空を見上げていた。
「みんな春だって浮かれやがって」
 口からもれたのは、ひどく桜の下で吐くには不似合いの言葉だった。
 口元は強情そうに引き結ばれ、目は三白眼に尖っていた。
「出会いの季節なら別れの季節でもあるんだ!」
 いらだった口調でそう言えば、足が桜の幹を蹴りつける。
 その時だった。
「痛い!」
 少年が幹を蹴ったのと同時にした声に、思わず少年はびくっと体をすくめた。
 そしてよくよくと桜の木を見つめた。
 苔むした木の幹は太く、根がそこらじゅうに張り出した立派な木だった。
 自分の蹴った部分の木の幹が捲れて下の若い茶色の肌を見せていた。
「なんで蹴るんのよ」
 若い女の声でそう言われて幹の後ろ側を覗くが、人の姿はない。
「桜の木が喋ってるのか?」
「他に誰がいるのよ」
 ちょっとふて腐れたその声に、少年は恐る恐る木の幹に触れた。
「ひょっとして、桜の木のしたに埋まってるっていう死体の人?」
 腰の引けたその弱々しい声に、女の声が笑う。
「そんなキモイものと一緒にしないでくれる? わたしは桜の精。桜子よ」
「桜子?」
「あなたは?」
「英太郎」
「ふん。なかなか渋い名前じゃない」
「ほっとけ」
 少年は木の根元に座り込むと、幹に背を預けた。
「何か気に食わないことでもあるの? 人のこと蹴ったんだから話なさいよ」
 どこか桜の木のイメージの、楚々としたお嬢さんではないようだ。
 どっちかといえば、山で人知れず、だが色濃く咲く山桜なイメージ。
 少年は祖母の家で見た桜の木を思い出して笑った。
「何一人で思い出し笑いしてるわけ? やらしー」
「やらしくなんてないわ!」
 言い放った少年が再び仏頂面で押し黙る。
 だが突然の沈黙に耐えられなくなって足元の草を引き抜くと、呟いた。
「親友がさ、転校しちゃったんだよ。来年は一緒に中学に入って野球やろうな
って言ってたのに」
 少年の尖った口元が、きゅっと引き結ばれる。
「そりゃ、あいつだって好き好んで転校するわけじゃないさ。親が離婚しちゃ
ったんだ。しょうがないよ。でもさ、あんな弱った顔でさよならって言われて
も、俺、何を言ったらいいのか分からなくて」
 少年は草に八つ当たりして遠くに投げ捨てると、ため息をついた。
「英太郎」
「何?」
「もうその親友は引っ越してしまったのか?」
「ううん。明日の朝、出発だって」
「では、時間はまだ残されているではないか」
「だけど、俺なんて言っていいか…」
 ヒラヒラと舞い落ちてきた花びらを頭にのせたまま、少年がうつむく。
「おまえは何で今落ち込んでるんだ」
「なんで? …もう、一緒にたくさん話もできないし、喧嘩もできないし、野
球もできないし」
「そんな気持はなんていう」
「…さみしい?」
「そうだ。そう言ってやればいいだけじゃないか。おまえがいなくなると寂し
いって。親友も同じ思いなはずなんだから。腹を割って話して来い。親友に近
づけないバリアを自分で張ってしまって、そのバリアで足掻いているだけなん
だから」
 少年は勢いよく顔を上げると、桜の木に顔を向けた。
「そんなこと言っていいのか?」
「親友だから言えるんだろ」
「………うん」
 少年は立ち上がると、赤く上気した顔で桜の木を見上げた。
「俺、今からあいつの家に行ってくる。桜子ありがとう!」
 少年が公園から走り抜けていく。
 少し晴れ晴れとした、緊張感に溢れた背中だった。
「がんばれよ。英太郎」
 桜の木が呟いた。
 そして木の上方から降りてきた一人の女の姿。
 長い黒髪を背中に流した凛とした顔が、少年がしていたのと同じように夜空に
浮く月を桜越しに見つめていた。
「桜子って聞いて親友の姉を思い浮かべないとは、あいつもまだまだお子様」
 つぶやく桜子の頬に降り注ぐさくらの花びら。
 それを目を瞑って受ける桜子は、桜色の涙を流しているように見えた。
 明日、弟と母が家を出て行く。
 桜子はまるで自分の面倒を見れない病気持の父を思って残る決意をした。
「寂しいよ…か」
 言いたくても言えない言葉が心に積もったとき、母や父との間に深い溝ができ
ている事に気付いた。
 まるで見えない壁を前に、自分が立ち尽くしている感じだった。
 きっとこれも自分が作り上げた障壁。取り除けないはずはない。
「離れたって、嫌だって言ったって、親子の縁は切れませんからね」
 桜子は地面に積もった桜の花びらを手の中にかき集めると、空に向かって舞い
上げた。
 そして夜空に向かって叫んだ。
「がんばれ、英太郎! がんばれ桜子!」
 桜子も月を一睨みして公園を駆け抜けていく。
― がんばれ、若人
 桜の木が二人の姿を見送っていた。
 舞い散る桜は、二人に手を振る姿のようだった。




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