エピソード 4   暴かれた命の末路に




 ベットの上で携帯電話を握り締めたまま、ただ呼吸以外にできることがないことにジャスティスは苛
立ちを覚えていた。
 だが同時に、心が乱れるほどに体を動かす神経が混乱をきたして、息が止まるほどの恐慌に襲われる。
 そのたびにジャスティスが思い浮かべるのは、まだ1歳になったばかりのジュリアを連れて妻のレイ
チェルと行ったキャンプの映像だった。
 アウトドア派の妻に連れられ、何をしていいのかもわからずに右往左往するジャスティスをおもしろ
そうに見ながら、レイチェルはさっさとテントを建て、バーベキューの用意を始めてしまう。
 ジャスティスは元来、男の役割、女の役割とこだわりを持つ方ではなかったが、なんとはなしに妻が
力仕事をこなし、男の自分がジュリアをあやしてゆったりと座っていることが申し訳なかった。
 そんなジャスティスにレイチェルが言ったものだった。
「きっと、わたしとジャスティスは性別を間違って生まれてきた者同士なんじゃないの? わたしはず
っと男に生まれてきたほうがよかったと思ってる。静かに座っていることよりも、ボクシングで汗を流
すことが大好きで、きっと山で熊に出会っても、格闘する気満々で立ち向かっていく性格だもの」
「おい、それは実際にはやらないでくれよ」
 暴れるジュリアを腕に抱きなおしながら、ジャスティスが苦笑する。
「ね、あなたなら、もしここに熊が出てきたらどうする」
「……大きな音を立てながら、逃げる」
 思ったとおりだと言いたげにして、レイチェルが笑う。
「だから気にしないで。あなたはあなた。わたしはわたし。他人の決めた基準で自分を縛るのはやめま
しょう。わたしはこうして動き回ることが楽しいの。あなたは、ジュリアの寝顔を見つめてうっとりし
ているのが大好き」
 言われて腕の中のジュリアを見れば、さっきまでむずがって盛んに体を動かしていたものを、今にも
閉じそうな目で体を揺らしながら、ジャスティスのシャツの腕に涎を垂らしながらうつらうつらとして
いた。
 おもわずその愛らしい顔に微笑みを漏らす。
「ほら、うっとりしてる」
 薪を手に取りながら、レイチェルが笑う。
「だってかわいいじゃないか」
 前に突き出した赤い小さな口が、ジャスティスのシャツに吸い付くようにして凭れかけられ、眠りに
つこうとしていた。
 起さないようにそっと抱きなおし、ジャスティスはジュリアの背中をポンポンと叩いた。
「幸せね、わたしたち」
 同じように幸せに酔った笑顔でいるレイチェルに、ジャスティスは立ち上がって横に立つとキスをし
た。
「君とジュリアがいてくれれば、ぼくはどこにいても幸せだよ」



 思い出の映像から目を開ければ、不思議と体の震えはおさまっていた。
 ホッと息をつき、握り締めていた携帯電話を枕の下に置く。
 本来外部との連絡を遮断されている状態で、携帯電話を所持いしてることが見つかれば、即没収される。
だが、今はこれだけがジャスティスにとって事態の進行を知るための唯一の接点であった。だからこれ
を奪われるわけにはいかない。
 その時にしたドアがノックされる音に、ジャスティスは携帯をさらに枕の奥へと押し込んだ。
「はい、どうぞ」
 半身を起してベットに座るジャスティスに、防御スーツを着た研究員が笑顔で入ってくる。
「副所長、体の方はどうですか?」
「うん。今のところ時々痙攣がくるけれど、大丈夫みたいだ」
「そうですか」
 馴染みの研究員が笑顔でうなずく。
 だがその顔の笑みが、どこか不自然に作られていることに、ジャスティスは気づいていた。
 やはり感染を警戒しているのか? だが普段からウイルスを扱いなれている研究者は、完全な防御を
施したスーツを着た状態で、それほどまでに心を乱すのだろうか?
「何か、あったのか?」
 ジャスティスは研究員の顔色を窺いながら尋ねた。
 その言葉に、一気に研究員の男の顔が固まる。
 一度崩れた表情が笑みの下から、本当の思いを晒すのはたやすいことだった。
 悲痛に寄せられた眉が眉間に深く皺を刻み、硬直した頬が細かく震える。
 嗚咽を絶えるように目を閉じた研究員が、ジャスティスのじっと見つめてくる視線にその手をぎゅっ
と握った。
「こんなこと、感染している副所長に伝えるべきではないのかもしれないけど、……俺は黙っていられ
なくて」
「何だ?」
 逸る気持ちを必死に抑え、研究員の男のグローブに包まれた手を握り返した。
 涙で潤んだ瞳が、ジャスティスを捉える。
「カイルが、死にました。これから解剖に入ります」



 手術室を見下ろす見学ルームの中で、ジャスティスは震える心を抑えるのに必死だった。
 お互いに防護服の中であるのだが、その中から溢れるジャスティスの動揺を感じるのか、何度もジャ
スティスのことを気遣い、研究員の男がジャスティスの肩に手を回す。
 眼下の手術室では、カルロスの執刀の元でカイルの解剖が行われていた。
 切り開かれた頭皮から、剥き出しになった頭蓋骨にカッターの歯が当てられ、荒々しい工事を思わせ
る音を立てて削り切られていく。
 もう生きてはいないのだからカイルが痛みを感じることはない。だが、暴かれいくカイルの体にジャ
スティスは体に力を込めずには見ることができなかった。
 拳を強く握り、ガラスに両手をついて凝視する目は、痛ましさに時折逸らされる。
 頭から頭蓋骨が外され、その下から白い脳が露わになる。
 あの脳内のどこかに病巣があるのは明らかだった。
 だからそこ完璧な標本を作って、どこにどんな作用がおこっているのかを突き止める必要がある。
 それは同じ科学者として理解はしていた。
 だがこんなに身内の死体を切り刻まれる姿に動揺するのだとは思いもしなかった。いや、考えたこと
もなかったのだ。自分の身近な人間にこんな不慮の死が訪れることなど。そして、その死体と対面する
ことなど。誰もがいつかは死ぬものだと分かっていながら、まるでそれは自分からは遠く離れた架空の
世界の御伽噺のように、遠くに見ていたのだ。
 カイルの脳が切除され、盆の上に置かれる。
 次に腹部が開かれるのだろう。
 カルロスが移動を始める。
 そして手にメスを受け取ったところで、不意に視線を感じたのか顔を上げる。
 カルロスの目が、ジャスティスの姿を認め、顰められる。
 そして隣りに立つ看護師に何かを指示して自身はカイルの腹から胸にかけてを一気に切り裂く。
 切り裂かれた皮膚の下で、流れを止めた血が滲む。
 何度か繰り返されたメスの動きの後に、鈎で一気に引かれた肉の下で肋骨が空気に晒される。
 その下にあるはずの心臓はすでに動きを止めて紫色の固まりとしてそこにあるのだろう。
 すでに何度かの手術を受けていたために生生しい傷で覆われていたカイルの腹部が、さらに切り開か
れていく。
 あれはもう、カイルではない。
 ぼくの知っているカイルはどこに行ってしまったんだ?
 不可解な感覚に襲われるジャスティスの肩を、後ろからやってきた看護師たちが掴む。
「副所長。病室に戻りましょう」
 それにも振り向かないジャスティスの首に、スーツの継ぎ目を狙って注射針が打ち込まれる。
 瞬間にガクリと崩れた膝に、ジャスティスの体は看護師たちに抱きとめられる。
 そのジャスティスの最後の視界に、カイルの死体が目に入る。
 取り除かれつつある肋骨の下で、カイルの心臓が眠っていた。
 彼の命の源。
 カイルの心。
 それを手の取るカルロス。
 人の命を弄ぶ悪魔よ! おまえこそ滅びよ!!
 ジャスティスの心を過ぎる呪いの言葉を最後に、意識が途切れた。






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