第六章  新たなる命の行方




 ジュリアは手の中のジャスティスの血で濡れた紙を見つめ、滲みそうになる涙を堪えた。
 紙に記されていたのはワクチンの製造法。
 今機械にかけられたペルの血からワクチンが作られようとしていた。
 背後では、ペルが苦しげな息を続けるスイレイの横に座っているはずだ。
 まず最初のワクチンは、スイレイに投与しなくてはならない。
 二人の赤子は、イサドラの腕に抱かれて眠っていた。
 初めて与えられた乳に、腹を満たしたためか、満足げに眠っていた。
 この部屋の中に張り巡らされた緊張を、わずかばかり緩めてくれる唯一の存在が双子の赤子だった。
 時折上げる甘えた声に、わずかに笑みを浮かべることができる。
 だがペルが乳をあげるときも、ジュリアがその腕から血を抜くときも、両者の間に言葉はなかった。
 重く苦しい沈黙が、壁として二人を隔てていた。
 沈黙に落ちていた部屋の中で、ワクチン製造機が完成を告げてアラームを鳴らす。
 ジュリアは製造機から白濁した液体を取り出し、注射器に移し変える。
 それを手に、スイレイの枕もとに立つ。
「ワクチンができたわ。まず、スイレイに打つから」
「うん」
 ペルが頷く。
 注射針がスイレイの腕の浮き上がった血管に刺され、ワクチンが流れ込んでいく。
 ローズマリーの変異した病原体に接触しても発病しなかった、ペルの鉄壁の抗体が、おそらくスイレ
イの体の中に巣くった病原体をも駆逐していくことだろう。
「ジュリア、わたし」
 じっとスイレイの顔色を見つめるジュリアに、ペルが声をかける。
 その声を無視したように反応ひとつ示さないジュリアだったが、目に見えて呼吸を落ち着かせ始めた
スイレイに、笑顔を見せてペルを振り返った。
「ペルの抗体が働きはじめた」
 いつも通りの明るいジュリアの笑顔を向けられ、泣きたい気分でペルも頷き返す。
「ペル。お願いだから謝ったりしないで。わたしは自分の意志で全てのことを決めて行動した。それに
後悔するかしないかは、全てわたしのもの。ペルに負い目も責任もない」
 真っ直ぐにスイレイを見下ろした横顔が、何の迷いもないと告げていた。
「わたしたちは常に選択を繰り返して生きている。一方を選び、一方を捨てていかなければならない。
でも、手に取られることのなかった選択肢も、わたしたちに必ず大切なものを与えてくれているんだと
思うの。大事なことを教えてくれたり、大切な経験を与えてくれる。たとえそれが痛みや苦しみを伴う
ものだとしても、わたしたちの糧になってくれる」
 ジュリアの言葉を聞きながら、握ったスイレイの手に暖かさが戻りつつあることに気づき、ペルがギ
ュッとその手を握った。
「もう安心ね」
 ジュリアはスイレイの横から離れると、注射器をトレーに戻し、出来上がったワクチンの組成をプロ
グラムを現実の世界に転送し始める。
 ワクチンの作り方から、現実のジャスティスを救うための全ての手順が、死んでいったジャスティス
の残した紙に記されていた。
 ジュリアに与えられた〈エデン〉のジャスティスからの最初で最後の手紙。
 彼は何を思い、葬り去ろうとまでしたジャスティスの命を救う手立てをなぜ用意したのだろうか。ジ
ュリアが、現実の父を選ぶことを予想していたのか。それとも。
「わたしね」
 ジュリアはコンピューターに向かい、ペルに背中を向けたままに言葉を紡ぐ。
「お父さんって、大好きだったけれど、その愛情を当たり前のものだと思っていた。面倒なときとか、
機嫌が悪いときは突き放したって構わないって。女の子なんていずれ別の男の人と結婚して、お父さん
以上に大事な存在になっていくわけだし、親が子どもに愛情を注ぐなんて当たり前のことなんだって」
 タンと音を立ててエンターキーを押したジュリアが振り返る。
「でもわたし、この世界のお父さんに教わった。お父さんは、命をかけてまでわたしを愛してくれてい
るんだって。当たり前なんかじゃない、すごく大きな力でわたしを守っていてくれてたんだって」
 笑顔の瞳に涙を潤ませながら、それを隠そうと背をむけるジュリアに、ペルはうなずいた。
 一度だって愛情があるとは思えなかったローズマリーも、自分に力を貸すために、壮絶な死を迎えて
まで自分を守ってくれたのだ。
「……わたしたち、いいお父さんとお母さんを持ったよね」
 ペルのつぶやきに、無言のままジュリアがうなずく。
 イサドラの腕の中で、眠っている赤子たちが声を上げる。
 幸せな暖かさの中で眠りにつくこの子達をまた、自分たちは守ったのだ。
 イサドラが不器用な手付きでその子どもたちを抱きなおす。
「ねえ、わたしからお願いがあるんだけど」
 不意に赤子に視線を落としたままに、イサドラが口を開いた。
「あのね。この後、ペルもスイレイもジャック・アウトしてしまうでしょ? ペルはわたしにお母さん
になってこの子たちを育てて欲しいって言ったよね。もちろん、そういってくれるくらい、わたしを信
用してくれることはとても嬉しいし、こんなに可愛い子供たちだもの、育ててみたいと思うの。でもね、
今回のジャスティスやローズマリーの姿を見ていて、わたし一人では、やっぱり不安だなって思うよう
になったの。親の子どもを思う気持ちの深さっていうかな」
 イサドラは自分の気持ちを自分に問い掛けるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「だからね、一緒に育ててくれる助け手が欲しいと思ったの」
「助け手?」
 尋ねるペルに、イサドラが赤子を見つめたままに頷く。
「ジャスティスとレイチェルに、手伝ってもらいたい」
「………」
 イサドラの言葉に、ペルとジュリアが沈黙した。
 今、自分たちの手で奪った命を、再びこの〈エデン〉に復活させようというのか?
 ちらりと上目遣いでジュリアを見上げたイサドラが、申し訳なさそうに言葉を続ける。
「もしジュリアが許してくれるなら、ジャスティスとレイチェルの記憶を修正して復活させたいの。二
人の自分の子どもを愛する気持ち。ジュリアへの気持ちの部分を、書き換えたいの。二人の子どもは、
ジュリアではなく、このわたしだと」
「イサドラがお父さんとお母さんの子どもに?」
 ジュリアがつぶやく。
 衝撃に感情がともなわないかすれた声。
 その声に、イサドラが眉を下げる。
「………やっぱりダメだよね」
 赤子を腕に抱いたまま、イサドラが肩を落とす。
 その様子をじっと見つめたまま、ジュリアはじっと考えを巡らせていた。
 自分の手で奪ったジャスティスの命。娘を愛することだけを生きがいに生きていた〈エデン〉の命。
 もし彼の望みを叶えられるのだとしたら、イサドラの提案は他には変えられないものだった。ただ、
自分の気持ちが追いついていかないだけで。
 ジャスティスの望みを叶えるのが自分ではないという、寂寥。
 〈エデン〉の二親の記憶から消される自分という存在への喪失感。
 だが、そんな自分の思いを除けば、最高のチャンスだった。
「イサドラ」
 ジュリアは双子をじっと抱えて俯いていたイサドラに声をかける。
 顔を上げたイサドラが、ジュリアの目の中にある意思を読み取ろうと真っ直ぐな視線で見つめ返す。
「わたしには〈エデン〉のお父さんを救うことはできない。だから、わたしの方からイサドラにお願い
したい。……お父さんとお母さんを、愛してあげて」
 ここ〈エデン〉が、家族とともにあることを誰よりも望んだ、父と母の願いをかなえる楽園であって
欲しかった。
「……ジュリア、いいの?」
 信じられないと見つめてくるイサドラに、ジュリアが頷く。
「イサドラなら、わたしよりいい娘に、きっとなれるよ」
「……ありがとう」
 イサドラはそう言うと、自分の方が赤子に縋るように、二人の顔に、自分の顔を埋めた。
「ママがそんなんで泣いててどうするんだ?」
 目をあけたスイレイが、イサドラの漏らす泣き声につぶやく。
「ママだって、嬉しいときは素直に泣くものなんだよぉ」
 嗚咽に揺れる声で反論するイサドラに、ペルとジュリアが声を上げて笑う。
 笑われたイサドラは、不満げに頬を膨らませてみせたが、ぐずっと鼻をすすり上げると、自分の仕事
を思い出したように、三人に告げた。
「ペル、ジュリア、スイレイ。ジャック・アウトの準備が出来たけど」
 イサドラが告げる。
 三人がうなずく。
「ジュリア、スイレイ。現実の世界で会おうね」
 ペルが言う。
 ジュリアとスイレイがその言葉に頷く。
―― ジャック・アウトしますか?
 目の前に浮ぶ文字。
 三人は顔を見合わせ頷き合うと、選択した。
 YES



 ペルとスイレイがジャック・アウトして目の前から消えていく。
 同時にジャック・アウトしたはずなのに。
 ジュリアはそう思いながら、目の前で始まった光景に息を止めた。
 自分の姿はすでに〈エデン〉の中からは消えていた。
 ただ見えるのだ。〈エデン〉で行われようとしていることが。
 ジュリアは辺りを見渡し、それがいつもジャック・インするときに最初に訪れる白い部屋であること
に気づいた。
 その部屋の中で、今までいた〈エデン〉の一室の光景を見ているのだ。
 双子の赤子にキスを降らせるイサドラが、顔を上げる。
 その目の前で、無数の星が空中で誕生するように煌めく。
 そしてそれは人の形を取り始め、男と女の姿に変化していく。
「……お父さん、お母さん……」
 ジャスティスとレイチェルがそこにいた。
 新たに〈エデン〉に生み出されたジャスティスとレイチェルが、赤子を抱くイサドラを目を留め、零
れそうな笑みを浮かべてイサドラを抱きしめる。
 声は聞こえない。
 だが愛することのできる娘の存在と、その娘が産んだ赤子の存在に最高の幸せを感じていることが、
その体中から発散されていた。
 そう、これでいいのだ。
 〈エデン〉というもう一つの世界に、新たな家族が生まれ、歴史が刻まれていく。それに干渉しては
ならないのだ。
 ジュリアは幸せな気持ちで微笑むと、〈エデン〉の地から姿を消した。



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