第五章   激流の翻弄される力なき一振りの枝




「ねえ、あれ。アヒルの首に何かついてる」
 目を反らして吐き気と戦っていたペルに、イサドラが言う。
「え? 付いてるって?」
 すでに死体に背を向けたまま体が凍り付いてしまっていたペルには、振り返って確かめる勇気はなか
った。
「アヒルの母さんの首に何か突っ込まれてる。……紙……みたい……」
 肩を抱いてくれていたイサドラが、ペルから離れて死体へと歩き出そうとする。
「イサドラ! 何するの?」
 半分悲鳴になる声に、だがイサドラはそこにいてと体を死体から背けたままのペルに手で示す。
 イサドラの足音が木の床の上を、ギシギシと音を立てて移動していく。
 考えたくはなかった。だがペルの脳裏に、鮮明に今イサドラがしていることが想像できるのだった。
 ゴクリとなったイサドラの喉の音。
 軋む床に、アヒルの首へと手を伸ばす様子。
 幾分湿った音を立てる紙の擦れる音。
 イスに突き刺さっていたボーガンの矢を抜く音と、イサドラがアヒルの死体を机の上に横たえなおす
音。
 ペルは目を閉じて、震える息を吐き出した。
 首を千切られたアヒルの死体が恐ろしいのは仕方がないのかもしれない。だが同時にそんな自分が酷
く冷たい人間にも感じていた。
 毎日外へ散歩に行く度に顔を合わせ、一緒に畑で過ごしたこともあるアヒルの母さんが、命を落とし、
その姿を変えただけでそれほどまでに恐ろしいものとして扱う自分が。
 嫌悪すべきものと自分から遠ざけるよりも、その最後の苦しさ無念さを思って丁重にその体を扱うべ
きではないのか?
「ペル?」
 隣りに立ったイサドラがペルの耳元で囁く。
「これ、自分で読める?」
 自分から少し離したところで開いて見せてくれた紙を、ペルが見る。
 血で染まってペンで書かれた字が滲んだ紙だった。
 なぜそんなものがアヒルの母さんの首の中に詰まっていたというのか?
 ペルは震える指を紙へと伸ばす。
 ひんやりとした感触に指が竦む。だが思い切って手の中に握りこむと、手の平が血で汚れるのも構わ
ずに、焦る指先で紙を開く。
 そして細いペン先で書かれた神経質そうな文字を読んでいく。
「こんにちは、ペル。
 ペリカンの郵便配達ならぬアヒルの郵便配達で君を驚かせようと思ったのだが、このアヒルさんがな
かなか反抗的だったので、思わず殺してしまったよ。
 でも、死んでからの彼女はとても従順だったので、かねてからの予定通り手紙を運んでもらうことに
した。ちょっと奇抜な配達員だけどね。
 では本題に入ろう。
 君をわたしの家にぜひ招待したい。
 もちろん君が現在妊娠していて、臨月であることは知っているが、その君に無理を強いてでもここに
来てもらいた。
 ここにはアヒルの子どもたちも待ってくれている。
 もし君がこばむようなことがあれば、アヒルの子どもたちは親鳥と同じ運命をたどるかもしれないね。
 では、後ほどお迎えにあがろう。
                              J      」
 一気に読む下してから、ペルはその内容に手にしていた紙をギュッと握った。
 そしてイサドラが机に横たえたアヒルの母さんの死体に目を向けた。
 イサドラがきちんと切断されそうな首を机に横たえてくれていたので、血に塗れている以外は、いつ
も通りのアヒルの母さんが眠っているだけのように見えた。
 ペルはアヒルの母さんに近づき、その血で濡れた腹を撫でた。
 いつもふくよかに膨らませて見せていた柔らかな白い羽が、冷たく濡れていた。
「ごめんね。子どもたちを守ろうとして、体を張ったんだよね。それなのに、気持ちが悪いなんて思っ
て」
 そっと何度もその腹を撫で、ペルは零れてくる涙を服の袖で拭った。
「イサドラ。このJって誰?」
 ペルが机の上に手紙を置きながら尋ねた。
「……ごめん。わからない」
「イサドラでも分からないの?」
 振り向いたペルの赤くなった目に、イサドラが申し訳なさそうにうなずく。
「さっきのペルが見たって言う光景の記録の改ざんにしても、このJという人間の存在にしても、わた
しには感知できてない。つまり、ペルやスイレイ、わたし以上の権限をもったものがこの〈エデン〉で
活動しているってことなんだよ」
「わたしたち以上の権限って………」
「カルロスかジャスティス」
 イサドラの返答に、ペルが絶句する。
「まさか、このJがジャスティスさんだっていうの? そんなわけない。ジャスティスさんは本当に優
しい人で、ジュリアのお父さんだし、わたしのことだっていつも気遣ってくれる叔父さんなんだよ」
 そんなはずがあるわけがない。どこか気楽な気持ちで否定の言葉を並べる。
「とにかくスイレイにすぐに連絡を」
 イサドラが言った瞬間だった。
 不意に目の前でイサドラの姿が、ノイズが走るように揺らぐ。
「え?」
 当のイサドラ自身が、そのことに心底驚いた様子で目を見開く。その間にも、二度三度とその体が荒
い粒子の流れに変形して乱される。
「イサドラ?」
 不安な声がペルの口から漏れる。
 ついにノイズまみれになったイサドラが、ペルに顔を向け叫ぶ。
「わたしの人格形成プログラムがハッキングされている。ごめん、ペル。もうここに姿を構築している
余裕がない。お願い。すぐにスイレイに連絡して。わたしはなんとかハッキングに対抗するから!」
 その叫び声が終らないうちに、イサドラの姿が風に吹かれて消える砂の虚像のように消え果る。
「イサドラ?」
 誰もいなくなった部屋の中で、ペルは震える声で呟いた。
 蝋燭の炎だけが不安なペルの心を写すようにユラユラと揺れ、心臓のように脈動するカーテンの動き
を強く影として映し出す。
 机の上にはアヒルの母さんの死体と、抜かれたボーガンの矢。
「誰? 誰が〈エデン〉にいるの? 何が起きているの?」
 ペルは恐怖の影に肩をつかまれたように腹の底から這い上がってくる冷気に、狂気に陥りそうになる。
 その気持ちをなんとか激しくつく息で押さえ込むと、棚の引き出しに閉まっておいた携帯電話を取り
出した。
 スイレイ! お願い。スイレイ、側にいて。〈エデン〉を、わたしを守って!
 震える指でメールを打つ。
 その携帯を胸に抱きしめ、ペルが床の上に蹲る。
 こんなに幸せと希望で満ちていた〈エデン〉が、いったいどうしてしまったと言うのだろう。わたし
たちの楽園が。
 ペルがスイレイの返事がくるのを待ち望みながら、両手で頭を抱えた。
 だがそのペルの耳に入ったのは、スイレイの返事を知らせる携帯の音ではなかった。
 今までに聞いたこともないような、動物たちの遠吠えの声。
 そして、家の周りを取り囲むようにして聞こえる大量の犬たちの狂った息使いだった。





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