第五章   激流の翻弄される力なき一振りの枝




 轟々と荒れ狂う風が部屋の中を走り抜け、激流と化して暴れまわっていく。
 カーテンが大きくはためき、バタバタと音を立て、冷たい雨の雫を大量に撒き散らす。
 その風と雨に蝋燭の火は全てかき消され、一瞬にして辺りは闇に落ちる。
 イサドラの腕の中で目を閉じ、轟音の恐慌に震えていたペルがそっと目をあける。
 その目に入ったのは、イサドラの腕に突き刺さった大きなガラスの破片だった。
「イサドラ!」
 悲鳴に似た叫びを上げたペルに、イサドラが体を起す。
「ペル、大丈夫?」
「わたしは大丈夫、でもイサドラが」
 そしてペルが指さした自分の怪我を見た瞬間、イサドラが泣きそうな顔を作る。
「痛いの?」
 心配してギュッとイサドラの服を握るペルに、すがるような目をしたイサドラだったが、不意に思い
直したように顔を引き締める。
「わたしは大丈夫。こんな体すぐに復元できるんだし。でも、ペルは違うでしょ。お腹の子も大丈夫?」
 荒れ狂う風の音の中で顔を寄せてかわす言葉に、ペルがハッとして自分の腹に手を当てる。
 だがその手の平に返ってくる穏かな胎児の寝返りのような動きに、ホッと顔の緊張を解く。
「大丈夫みたい。この子たち、動じてないよ。強いなぁ」
 僅かにではあったが、湧き上がった笑みに、ペルがイサドラを見上げる。
 イサドラは自分の腕に刺さったガラス片を抜き去り、「じっとしていてね」と声をかけて立ち上がる。
 イサドラの足元で踏み砕かれたガラスの音が、一瞬で惨状となった部屋の様子を伺い知らせた。
 イサドラが壊れた桟を外に叩き落し、はためいて怒り狂ったように音を立てるカーテンを押さえ込み、
側にあった釘と金槌で壁に打ち付けていってしまう。
 それだけでも吹き込む風の激流が抑えられ、少しだけ不安が消えていく。
 さらに雨よけにしようと、イサドラがその上にシーツを被せようとしていた。
 ペルはイサドラの手伝いをしようと立ち上がりかけた。
 だがその瞬間に左足を襲った激痛に唸り声を上げた。
「うう……いたっ……」
 暗闇の中でそっと痛みの元に指を走らせ、その指先にふれたぬるりとした感触に手を止める。
 血だ。
「ペル? 怪我してるの?」
 ペルはさらに指を先へと動かし、鋭く尖ったガラスの破片がふくらはぎに突き刺さっているのに気づ
く。
「ガラスが足に刺さって……」
 今のところ動かさない限り痛みはない。だがそれは同時に痛みが麻痺してしまうぐらいに深い傷であ
ることを示していた。
「待って、今行くから」
 イサドラは素早く動くと、箒を取ってきて散らばったガラスを履き寄せ、消えてしまっていた蝋燭の
一つに火をつけペルの元に歩み寄る。
 その蝋燭の明かりにキラリと光るガラスの破片は、思い描いたよりもはるかに大きく、深々とその身
をペルの肉の中に埋めていた。
 思わず、その自分の足にあるとは思えない光景に、ペルは目を背ける。
「抜かないといけないね」
 抜いた後も、縫い合わせないとならないほどの傷の大きさになるだろうことは予想がついた。
 イサドラは急箱箱やタオルなどを集めると、床に広げたブランケットの上にペルを横たわらせる。
「麻酔使ってあげたいけど、今ないんだよ。だから痛いとは思うけど、少し我慢してね」
 刺さったガラスの角度などを計測しながら、イサドラが言う言葉を、ペルは蒼ざめた顔で聞いていた。
「ガラスはね、体内で砕けてしまうと取り除くのが難しいんだよ。血に塗れて、しかも下の肉を透過し
て見せてしまうから、どこにあるのか肉眼で探すことが難しいの。その上、X線にも反応せずだから、
レントゲンにも映らない」
「イサドラ、今レントゲン撮影までしてみたの?」
「わたしが? 目からX線出す機能はペルたちが付けてくれてないからできないって」
 イサドラが膝の上をタオルで縛って止血の準備を進める。
「人間の医者だったら手探りで肉を切り裂いてガラスを探すしかない。でもわたしはそんなことしなく
ても、ペルの情報を裁断して調べればすぐに分かる。わたしの目の前で怪我したペルは、病院の前で事
故に会うよりもラッキーだってこと」
 イサドラは、これから行われることを予想して不安を溢れさせたペルの気持ちを解きほぐすように笑
う。そしてそっとペルの腿の上に膝を乗せてペルの動きを拘束する。
「はい、抜くよ。一、二、三で抜くからね」
 その言葉にすでに体に力を入れてしまうペルに、イサドラが握ってしまっていた拳を開かせる。
「そんなに固くならない。力入るほど、ガラス片を肉が締め付けちゃうからね」
 大きく深呼吸してと言われて、ペルが両手を開いて体操するように大きく息をつく。
「はい、上手ですね。なんかお産のときのラマーズ法の練習してるみたい」
「あれは、ヒッヒ、フーでしょ?」
 言い返したペルに笑って、イサドラがカウントを始める。
「一、ニ、」
 だが三が来る前にイサドラはガラス片を握って一気に抜き去る。
「! うあ、ぅぅぅぅぅ」
 突然冷たさに似た衝撃が背骨の中を走りぬけ、次に襲った痛みに、ペルはうめき、思わず足を上げそ
うになる。
 だがその足はイサドラの体重を乗せた足で押さえ込まれ、さらに傷口をタオルで止血する腕に押さえ
込まれて一ミリたりとも動かない。
「ちゃんと抜けたよ。あとは止血して縫うからね」
 まだ縫うなどという作業が残っているのだと思うと、後退りして逃げたい気分になる。
 堪える痛みに吐き気が襲い、食いしばる口の間からうめきが漏れてしまう。
「これ、噛んで」
 口の中にタオルを押し込まれ、ペルが涙を流しながら頷く。
「ガラスは折れずにちゃんと抜けた。うまく行ってるよ」
 ペルは痛みから気をそらせようと、両手で目を覆い、違うことに考えを馳せようとした。
 外から聞こえるのは相変わらず激しい暴風の音と、その風を受けて膨らんだり吸い出されたりを繰り
返すカーテンの音。
 いったい何が窓ガラスを破ってきたのだろう。折れた木の枝でもあったのだろうか?
 ペルは太い木の枝が窓を突き破ってきた映像を思い浮かべて、腹の底から走った冷気に身を震わせた。
 もしイサドラが一緒にいてくれているときでなかったら、窓辺にボーっと立っていたかもしれない自
分は、その枝とガラスの直撃を受けて、とてもこんな程度の怪我では済まなかったのかもしれないのだ。
 足にぶちまけられた消毒薬の肉の中を焼く痛みに、考えが中断され、咥えたタオルの間から再びうめ
きが漏れる。
 それでもペルは意識を違う方へと飛ばし続ける。
 タンタンと床を打つ音が聞こえる。
 水音に似た思い音が、床板を叩いていた。
 机の上にあった何かが零れているのだろうか?
 机の上にあったものを思い返してみる。
 夕飯用の食材であったジャガイモに、トマト、玉ねぎ、ナイフ。
 それから庭摘んだ花を飾ったガラスのコップがあったはずだ。
 その花の水が机から滴っているのだろうか?
 イサドラが蝋燭で炙った針先を傷口に当て、縫い始める。
「ううぅぅぅ……ぐぅ……あぁぁ」
 さすがに鋭い痛みの元で、うめき声が大きく漏れ、意識が傷へと集中していく。
 一針、二針。
 針が肉の中を通る度に、貫かれる不快な痛みが足から腰、背中へとせり上がる。
 イサドラってば、いったい何で人の足縫ってるのよ。縫合用の針や糸なんてここにはないはずなのに。
 七針目が足を通り、糸が通されていく。
「お疲れ、これでもう大丈夫だよ」
 口から外されたタオルに、ペルは荒い息で頷く。
「……何で……縫って?」
 途切れがちな声で問えば、イサドラが余裕あるねと笑いながら答える。
「ペルがパッチワークに使っていた縫い針」
 足に巻きつく包帯の暖かさに吐息をつきつつ、ペルが引きつった笑い声を上げる。
「縫い針か……」
 漏れたため息に、自然と強張っていた体から力が抜けていく。
 それと同時に、再び耳についたのはあの床を叩く水音だった。
 規則的にタンタンと床を叩く音に耳を傾ける。
 花の水にしては、やけに重苦しい音のような気がした。
 床に落ちてからの飛び散る音も、軽やかではなくドンと床を叩いて散る。
「はい、完了!」
 ポンとペルの足を叩いて立ち上がったイサドラにお礼を言い、体を起こす。
「本当にいったい何が窓を破ったんだろうね?」
 イサドラが蝋燭の火を掲げて部屋の中を照らした。
 床にはジャガイモなどの野菜や花が投げ落とされ、雨に濡れたガラスがあたり一面に散らばっていた。
 そしてペルは水音がした方に目を向け、机の下に黒く見える水溜りがあるのに気づいた。
「イサドラ、あれ」
 水溜りを指さしたペルは、見上げたイサドラの顔にある驚愕に目を見開いた表情に、言いかけた言葉
を途切れさせた。
 楽しいと笑ったり、怒って見せたりするイサドラだったが、恐怖に蒼ざめた顔を見せたことはなかっ
た。
 だが今目の前にあるイサドラの顔は、明らかに余りに恐ろしいものを目にして動けなくなっている血
の気の引いた顔だった。
「イサドラ?」
 声をかけても反応しないイサドラに、ペルは痛む足を庇いながら立ち上がる。
 そしてイサドラの視線の方向へと顔を向ける。
「ヒッ」
 喉をついて出た悲鳴に、ペルは後退りをしようとして足の痛みに尻餅をつきそうになる。それをイサ
ドラが後ろから支えてくれる。
 同じように震える体を寄せ合い、顔を見合わせる。
「あれは」
「アヒルのお母さんだよね」
 ペルとイサドラが見たもの。そして重い水音の正体。
 それは、半分切断された首をダラリと垂らしたアヒルの体と、それを貫く太いボーガンの矢だった。






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