第五章   激流の翻弄される力なき一振りの枝


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 しっかりと閉じられカーテンによって部屋の中は暗く陰鬱な空気に満たされていた。
 イサドラが灯した蝋燭で生まれた光が、ポウっと柔らかく丸みを帯びた輝きを宿して膨らんでいく。
 カーテンの上にはユラユラと揺らぐ陰が映し出され、振り返ってイサドラを見たペルも幾分安心した
顔で赤い光を見つめる。
「玄関も、窓もみんな鍵締めたしね。外は大荒れの天気だけど大丈夫だよ」
「うん。ありがとうね」
 ペルも窓ガラスの桟に手を掛けて鍵が確かにかかっていることを確認すると、カーテンを閉めた。
 激しく吹く風に窓枠はカタカタと不安を煽る音を立て、外からも木を撓らせて悲鳴を上げる風の声が
絶え間なく響く。
 庭を何かが転がっていく音がする。きっとペルが畑の水まきに使っているバケツだろう。
「本当に大荒れの嵐になってしまったみたいね」
 イスに座りながら、ペルがイサドラに小さく微笑みながら声をかける。
 だがその顔にあるのは、拭うことのできない恐れだった。
 ペルは再び嵐の様子を伝えて震える窓を振り返ってみて、ため息をつく。
 まるで自分の心の内を示しているかのような空模様だ。ペルにはそんな風に何もかもが不吉な運命を
示す予感のような気がして仕方がなかった。
 だがそんな風に暗く沈んだ瞬間に、おなかを手でさすって「いたたた」と声を上げた。
「どうしたの?」
 とたんに駆け寄ったイサドラに、ペルが痛みに眉を顰めたまま笑ってみせる。
「おなかの子たちに蹴られた。何をネガティブになってやがる! って言われた感じ。それも絶対二人
して蹴ったわよ」
 全く困った子達ねと笑うペルに、イサドラも笑う。
「母親はいつも穏かな気持ちで過ごすことで子どもたちの精神を穏かなものに保ちましょうって育児書
で読んだけど、ペルと子どもたちの場合は逆じゃん。子どもにペルが穏かになれって叱咤されてる」
「ふふふ。本当ね」
 ペルは大きくせり出した腹を撫でると、「ありがとね」と声をかける。
「特に理由がないのに不安で仕方なくなるなんて、精神的に弱すぎだよね。困ったお母さんだね」
 いとおしそうにお腹の中の子どもたちに声をかけるペルに、イサドラが不思議なくすぐったさを感じ
たように頬を掻く。
「ペルがお母さんか。変な感じ」
「どうして?」
「う〜ん。だってペルってずっといつまでもかわいい少女って感じなんだもん」
「だからそれは頼りないってことなんじゃないの?」
「そうかな?」
「……そんなことないよって否定してくれてもいいのに」
「だって、否定はできないもん」
 二人でひとしきり見つめ合うと、お互いに笑い出す。
 笑顔を見せたペルに、イサドラが少し安心した様子でその顔を見つけた。
「スイレイがちょっと顔見せないってのも不安の原因なんじゃないの?」
 イサドラが壁に掛けてあるカレンダーを振り返ってみて、怒った様子で腰に手を当てる。
 ここで子どもを産むことを決めた日から、スイレイは一日と欠かさずにペルの元に通っていた。もちろ
ん一緒にいられる時間には制限があり、ほんの2、3時間話をしてペルが眠るまでしかいられなかったこ
ともあったが、それでも顔を見せていた。
 だが一緒に朝のハイキングに行ったのを最後に、これで3日間顔を見ていなかった。〈エデン〉時間
で3日だから、現実の世界では2日ほどペルの元に来ることができない事態になっていることになる。
「……何かあったのかな?」
 イサドラにそう言ってみたものの、ペルは内心を占める思いは違っていた。
 昔は恋人になれさえすれば、不安にゆれる恋心で苦しむことはなくなるのだと思っていた。自分が愛
されている確信を揺るがずに持っていられるのだと。
 でもそれは幻想に過ぎなかったらしい。こうしておなかにはスイレイの子どもを抱いているというの
に、いつのときも付きまとう不安を拭うことができなかった。
 スイレイの誠意を疑っているのではない。
 スイレイはいつも愛していると言ってくれる。
 目の前にスイレイがいてくれて、ほんの少し手と手が触れるだけでも、ペルの胸は幸せな温かさに満
たされる。手の肌と肌を通して、スイレイの愛情がペルを包んでくれるのが分かるのだ。
 だがスイレイが目の前からその姿を消した瞬間、その確信に満ちていたはずの気持ちに自信が持てな
くなってしまうのだ。
 こんな自分をスイレイが本当に愛してくれているのだろうか?
 それがただの根拠のない焦りに過ぎないということはよく分かっていた。理性は理解しているのだ。
大丈夫。スイレイは心の底から愛してくれているのだよと。だが、ペルの心の深層で何かが囁くのだ。
自分になど人に愛される要素がないのだと。人間と人間が一つに結びつくことなどできはしないのだと。
信じればいつの日か必ず裏切られるのは明らかなのだと。
 自分の深層にあるヘドロに似た臭気を放つ暗い本能に、ペルは癖癖しながらも惹かれていく。
 そんな物思いに耽っていってしまうペルを、イサドラは心配げに見つめていた。
「スイレイの怠慢が絶対原因だって。マタニティーブルーになっているペルを放っておくなんて、夫と
して怠慢です!」
 顔を上げたペルが、怒って腕組みするイサドラに困った笑顔を見せる。
「スイレイのせいじゃないわ。もちろん、わたしが愛されている自信を持てないっていう部分があるの
も事実だけど」
「だから、溢れるくらいの愛情を注がないスイレイがいけない……かな? でも結構スイレイも固そう
に見えて、崩れるとすごいよね。今やペルの前ではデレデレで、もうペルしかこの世にいないような目
つきしてるもんね」
「え? ……そうかな?」
 イサドラの言葉に、ペルが照れた様子で顔を赤くする。
「もう! 気づかないわけ? ペルしか目に入ってないよ、あの男は。人の目って本当に不思議でさ、
自分の見たいものだけを見るんだよね。網膜に映ったものを見ているようで、違うんだよ。見たいと頭
が思ったものを見ているんだよ。だから人間には、ふとした瞬間に幽霊ってものが見えたりするんでし
ょ? あれは、見たいと思っているからではないらしいけど、そんなものが見えそうだと思う脳が、僅
かな人間のシルエットに似た一部を目が捕らえた瞬間に、目で見えているかのような像を脳内に結んで
見えた気にさせちゃうのが原因らしいよ」
「へえ。で? 幽霊の話とスイレイがどう結びつくの?」
 感心した顔をしながらも、結局うまいところで突っ込んでくれるペルに、イサドラが笑う。
「スイレイの目にだってたくさんのものが本当は映っているの。わたしの姿だって、花だって、このジ
ャガイモだって」
 イサドラが夕飯の用意のために机に並べたジャガイモの一つを手に取ると、ペルの目の前に掲げてみ
せる。
「でもね、スイレイはどれを見てもペルを思い見てしまってるの。わたしの顔なんて見えてないも同然
で見過ごすし、花を見ても、ペルの笑顔の方が可憐だぞと花に挑戦してみせたり、ジャガイモみても、
ペルのためにジャガイモパンを作ってやろう! なんてね。もう、全てがペルを中心に回っているの」
 ポンと手の中に投げられたじゃがいもをキャッチしてから、ペルが照れくさげに口を尖らせ、上目遣
いでイサドラを見る。
「それこそ、イサドラがそうあったらいいなっていう思い描いているスイレイじゃなくて?」
「どうしてわたしが人間みたいに幻想で映像を読み取らないといけないの? だいたい、これは全て事
実です! スイレイが実際に口に出していってたことなんだからね」
 ペルがジャガイモで顔を隠して、赤い頬を覆う。
 ペルの脳裏にあるのは、庭を散歩しながら部屋に飾る花を摘んできてくれたときのスイレイの姿だっ
た。あのとき、花を選んで顔を寄せているように見えていたが、一つ一つの花と話していたのかもしれ
ない。「ペルのほうが可愛いんだぞ」とか、「きれいな色だけど、この色はペルの方が似合うな」とか。
 その想像のスイレイの姿が次第に変化し、子ども二人を腕に抱いて頬擦りする姿に変わる。
 自分のこともそこまで贔屓で褒めてくれるのなら、自分の子どものこととなったら親ばか丸出しにな
りそうだった。その姿が容易に想像できる。
 思わずクスリと笑ったペルに、イサドラがナイフを手渡す。
「今日の夕食は何なの?」
「えっとね、じゃがいものニョッキを作ってみようかなって。ソースは、トマトソースと」
「タンパク質が不足してるよ。チーズとか卵とか使ってみない?」
「分かった。そうだね。じゃあ、カルボナーラ風にしてみようかな」
「うん。それいいかも」
 二人でイスに座り込み、黙々とジャガイモの皮むきに専念し始める。
 クルクルとまわしながら器用に皮をむくペルに対し、イサドラは不器用に手を切りそうな危うい手付
きで分厚く皮をむいていた。
 その様子を横目で見たペルが、こっそりと微笑む。
 なんか幸せだな。
 こんなふとした瞬間を持てることがペルには幸せで仕方がなかった。ユラユラと揺れる炎のオレンジ
色の光の中で、外は荒れ狂う嵐なのに、安全な家の中でジャガイモの皮むきに専念できる。側には自分
を気遣ってくれるイサドラがいてくれて、もう少しすればおいしいニョッキも食べられるのだ。
 伝わる温度が幸せの象徴かな?
 ペルは自分の感じている幸せを分析して思う。
 蝋燭の炎に、ご馳走の上げる立ち上る白い湯気。見守ってくれる家族の愛情という暖かさ。 
 そんな幸せな気分を楽しんでいたペルは、思わず散漫になった集中力のせいでナイフを親指の先で横
に動かしてしまっていた。
「あ、いた!」
 危ないと思った瞬間には、親指の先をナイフの切っ先が過ぎり、切り裂かれた皮の間から血が滲み出
す。
 危うい手付きでジャガイモと格闘していたイサドラが、にやりと笑う。
「ジャガイモの皮むき、ペルのが下手なんじゃないの?」
 足元や机の周辺に、それこそ揚げたらおいしいポテトフライになるぞと言いたくなるほどの厚さの皮
を撒き散らしながら、イサドラが言う。
 親指をエプロンの裾で押さえながら、ペルが悔しそうに睨む。
「今はちょっとした不注意です」
 そっと親指をエプロンから外してみれば、わずかにかすっただけの割りに血が玉のように盛り上がっ
て膨らんで、次の瞬間に流れ落ちた。
 その血に、ペルは何かを思い出したように眉をしかめた。
 深刻に眉を顰めて見せるペルに、イサドラジャガイモを剥く手を止める。
「どうした?」
「え? うん。……なんか思い出せそうで出てこないことがある感じ。引っかかっていて気持ちが悪い。
しかもいい記憶である予感がしない」
 そんな経験などあるはずのないイサドラは、意味が分からないながらに反論はせずにじっとペルの顔
を窺っている。
「血を見て思い出したの?」
「……うん」
「いつごろの記憶っぽい?」
 身動きすれば記憶が脳から転げ落ちてしまうと思っているかのように、ペルがじっと身を固めて記憶
を探って目を上向かせる。
「そんなに遠くないね。スイレイが来てくれたときよりも前。……そう、スイレイに話そうと思ってで
きなかったことがあったはず。なんだっけ?」
 イサドラが少し遠い目で何かを探るように意識を飛ばす。
「スイレイが来た朝の前日のペルの動きは、朝、畑へ水撒きに行って、アヒルのお母さんに追いかけら
れて本気で逃げてる。あと、朝ごはんにスクランブルエッグとトマトのサンドイッチを作って食べてる
ね。ヤギの乳しぼりしてチーズ作って、午前中の散歩にスイレイとも見に行っている子馬の森辺りにま
で散歩に行ってる。それから――」
 その先の記録を読み上げようとしたイサドラに、ペルが「待って」と声をかけて手の平をむける。
「その辺な気がする。散歩へ行ったのよ。子馬の元気に走り回る姿が微笑ましくて、とっても癒される
気持ちで、すがすがしい気持ちだった。でも、その後で」
 記憶を探って額に皺を寄せていたペルの顔が、ハッと上げられる。
「そう、見たのよ」
「何を?」
「しっぽ」
「しっぽ?」
「そう。千切れたしっぽ。猿のしっぽだと思う。付け根から千切れたしっぽが森の中に落ちていたのよ。
緑の草を黒く変色した血が染めていた。その血に塗れて。茶色のしっぽが転がってた」
 ペルの説明にイサドラが眉を顰める。
 イサドラの顔が無機質な能面へと変化して、それから疑うようにペルを見た。
「本当に見たの?」
「ええ。どうして?」
「わたしの記録にはない。確かにペルが何かを見て怯えた顔で目を逸らしている姿は記録されている。
でも、その視線の先に何もないんだよ、記録の上では」
 イサドラの怪訝な顔に、ペルが目を見開く。
「そんなこと……」
「確かに変だね。わたしも気づかなかったけど。いくらペルが変だとしても、何もない草むら見て怯え
ないよね」
 その意味するところが分からずに、それでも何か異常なことが起きているのではないかという気持ち
をペルに起させるには十分なイサドラの顔つきだった。
「ほかにも何かあった?」
 イサドラがジャガイモとナイフを台に下ろすと、ペルを見上げる。
「……他? えっと、……そう、そのしっぽのことと結びついてるのよ。今日の朝ね、畑の横の小川が
あるでしょう? アヒルの親子がいつも泳いでいる小川。わたしもそこで畑の水を汲むんだけどね、そ
こを死体が流れていったのよ。びっくりしてよくは見れなかったんだけど、今思い起こせば、あれはし
っぽが無い子猿の背中だった。顔を水につけた状態で流れて行っちゃったけど、頭のところが白い猿で」
 ペルの説明にイサドラが頷くと、ふたたび記録を見直しはじめる。
 そして次の瞬間、その眉間が深くよせられる。
「………」
「また記録がないっていうの?」
 小声で聞くペルに、静かに視線をペルに向けたイサドラがうなずく。
「でも今回はただ記録がないだけじゃない。水面の波の変動率の計算をし直さなかったんだろうね。歪
んでる。そこにあったものを消しただけの記録だって分かる」
「……どういうこと?」
 イサドラはペルの問いには答えずにイスから立ち上がる。
「スイレイに相談しないとまずいかも。記録がわたしにも気づけないほどに巧妙に書き換えられてる。
……ハッキングを受けてる」
「え?」
 予想していなかった言葉に、ペルの目が丸く開かれる。
 そのペルの顔に笑いかけ、イサドラが不安そうなペルを安心させようと両腕で抱きしめた。
「大丈夫だよ。ペルは不安がらないで。わたしがついてるから」
 耳元で聞こえたイサドラの声に、ペルが頷いた。
 イサドラの胸から顔を上げてペルが見上げれば、イサドラは眉を上げて元気だせと笑ってくれる。
 なんだか動作がスイレイに似ている気がした。
 頼もしく成長したイサドラの顔を見上げたペルだったが、途端に険しくなったイサドラの顔に作りか
けていた笑みを凍らせた。
「イサドラ?」
 呼びかけたペルの声に、反応を見せずにハッとした顔で背後を振り返ったイサドラが、次の瞬間には
ペルを腕に抱えて床へとダイブした。
 何が起こったのか分からないまま目を瞑ったペルの耳に聞こえたのは、耳をつんざくようなガラスの
破砕音だった。






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