第四章   天使の烙印




 ドアをノックする。
「ジュリア?」
 そっとドアの隙間から声をかける。
 だが返ってこないジュリアの返答にスイレイがドアを僅かに開け顔を覗かせた。
 視界にソファーの上で背を丸めて蹲るジュリアの背中が入る。
 ジュリアの着替えのために部屋を出てから、すでに10分以上が経っているにも係わらず、まだバス
ローブ姿のままのジュリアがそこにいた。
 肩から半分バスローブがずり落ちた格好のまま、何かを憑かれたように凝視していた。そして目だけ
が、光る何か鋭い目で追っていた。
「ジュリア? 着替えないのか?」
 ドアの中に体を入れ、声をかけたスイレイに、ジュリアが飛び上がるほど体をビクつかせ、顔を上げ
る。
 青白い顔が、眉の間に悲壮感を漂わせてスイレイを見つめる。
 指先がさっと動き何かを隠す動作をする。
「?」
 ジュリアの顔からは罪悪感とともに、親を見失って怯える子どもに似た絶望が滲み出ていた。
 何かがあったらしいと分かるのだが、スイレイは近づくことができずに立ち尽くしていた。
 肌けたジュリアのバスローブから胸の膨らみが覗き、長い髪の絡みついたうなじが、今までの幼馴染
のジュリアを女に見せていた。それも濃厚に女の香りを発散させながら。
「早く着替えて。風邪ひくといけないから」
 そう告げて背をむけたスイレイに、ジュリアが声をかけた。
「スイレイ、待って」
 固く尖った声が、スイレイの背に向けられる。
 振り向いたスイレイの目の前に、ジュリアの手から何かが投げられる。
 それを手の中に受ける。
 ずっと握られていたためにジュリアの体温で温められた携帯電話。
 その液晶の画面に、メールの文面が並んでいた。
 差出人がペルの名前であるメール。
 サッと顔を上げたスイレイに、ジュリアが口元をゆがめて笑う。
「それはどういうこと? イサドラからもメールが来てる。毎日のペルの様子報告。今日もペルもおな
かの子も元気です。……ペルのおなかの子って何?」
 次第に表情を消していくジュリアがソファーの上から降りると、スイレイに向かって一歩づつ近づい
てくる。
「イサドラからのメールってことは〈エデン〉よね。ペルは〈エデン〉にいる。そして妊娠しているら
しい。いったい誰の子を?」
 スイレイの目の前で立ち止まったジュリアが、じっと黙ったままのスイレイを見上げる。
 言い逃れは許さないと告げる瞳を、スイレイは目を逸らさずに受け止めた。
「ペルは〈エデン〉にいる。この半年以上の時間を〈エデン〉で過ごし、宿った命を育てている。……
ぼくとの間にできた子どもを」
 そのスイレイの言葉に、ジュリアの平手が飛んだ。
 鋭い音を立てて叩かれたスイレイの顔が横を向き、切れた唇から血が滲む。
「ぼくの子ですって!? 兄と妹であることが分かっていながら、体の関係を持ったというの? 近親
相姦よ!! 分かっているの? どんな言い逃れもできない罪よ!!」
 ジュリアの口から絶叫とともに罵りの言葉が吐き出される。
「それも〈エデン〉で隠れるようにして。三人で作った汚れなき地球で」
 ジュリアは唇を噛みしめると、流れる涙が不本意だというように手の甲で拭った。
「ペルもスイレイも不潔よ! いくら好きだからって、わたしにまで何もかも秘密で」
 だが言えば言うほどに、ジュリアの顔が歪む。
 決して本心でないからこそ、だが決して許せない裏切りだからこそ、口から吐き出される悪意を止め
ることができなかった。
 それがどれだけスイレイを愚弄する行為であるかが分かっていながら。
「所詮ペルもスイレイもオスとメスに過ぎないってことよね。心と心のつながりというかけがいのない
もので満足することができないなんて。……そうよね。湧き上がる欲望を満たすために、友情もドブに
投げ捨てるようなことができるんだもの」
 何も言わずにただジュリアの言葉を聞いているだけのスイレイに、罵倒しているはずのジュリアの方
が止めようのない涙に咽ながら叫ぶ。
 その泣け叫びに狂気に満ちた笑い声が重なる。
「そうよ。わたしは捨てられたのよ。スイレイにもペルにも。……ハハハハ……わたしに女としての価
値がないことなんて分かっていたけれど、人間としても価値がなかったとは思わなかったわ。ずっと一
緒にいた幼馴染にさえ捨てられるほどの価値ない人間か!」
 バスローブが肩からずり落ちた姿で腹を抱えて笑いはじめるジュリアに、スイレイがその肩を掴む。
「ジュリア!」
 両肩を掴んで揺さぶるスイレイに、ジュリアが目を開けて笑い続ける。
「ぼくを罵倒したければ気が済むまですればいい。ぼくとペルがジュリアを裏切ったことは事実だ。そ
の報いならすすんで受けるさ。でも、そのことでジュリアが自分を蔑むことなんてするな! ジュリア
に価値がないなんて」
「だったらわたしを抱きなさいよ!!」
 ジュリアが怒りの形相で叫ぶと、唯一、体を覆っていたバスローブを脱ぎ捨てた。
 スイレイの目の前に、ジュリアの裸体が晒される。
 女性らしい曲線を描く体が、ホテルの部屋の間接照明の中で浮き上がる。
 白い肌を足元のオレンジ色のフットランプが照らし出す。
 何一つ隠さずに立ったジュリアが、目に怒りを灯したままに笑う。
 そして両手をスイレイに向かって開く。
「ほら、これがもう子どもを産めない女の体よ。ペルとは大違いね。どんなに抱いても子どもができる
ことはない。それともかえって好都合かしら?」
 白い肌の上で、下腹部を赤い手術の痕が這う。
スイレイは目を逸らさずにジュリアを見つめた。
 そのスイレイに、ジュリアがフッと笑う。
「顔色一つ変えないか。ペルの裸にしか欲情できない?」
 ジュリアはスイレイの体に両手を回し抱きつく。
 そしてその胸に頬を埋める。
「ねえ、お願い。わたしのことも抱いてよ」
 身動き一つしないスイレイの手を取り、自分の胸に導く。
 だがその手が乳房にたどり着く前に、ぎゅっと握られ止められる。
「ジュリア……そんな捨て身なことをしなくても、ジュリアは十分素敵な女の子だよ」
 スイレイは着ていた上着を脱ぐと、ジュリアの体を覆うように肩に掛ける。
 そして唇を噛みしめながら、スイレイを睨むように見つめるジュリアに笑いかける。
「ぼくだって苦しいところだ。だからもう刺激しないで。ぼくだって男だから、本当に愛していなくた
って抱くことぐらいはできる。でも、ジュリアにはちゃんと、愛した人と肌を重ねる喜びを知って欲し
いから」
 その言葉に、ジュリアは初めてスイレイから目をそらして床を見つめた。
「愛してない……ね。……やっぱり、……スイレイの愛情はペルにだけしか注がれないんだ。……わた
しがどんなに願っても」
 小さなささやきが、次第に嗚咽に震えて涙とともに吐き出される。
「……わたしは……ほかの誰かの愛情なんて欲しくないのに……スイレイにだけ……愛して欲しかった
のに」
 ジュリアがスイレイの掛けた上着に包まるようにして床に蹲ると、すすり泣く。
「……ジュリア……」
 その横に座りこんだスイレイが、そっとその頭を撫でる。
 子供の頃に、転んでは泣き続けたジュリアを慰めてくれた小さな手と同じ手付きのままに。
「……スイレイのバカ……ペルのバカ……。……でも……でも……、ふたりとも大好き。だから……わ
たしを見捨てないで」
 泣きじゃくるジュリアの背中を、スイレイはそっと抱きしめた。
 ジュリアがスイレイの首に腕を回す。
 だがそこにいるのは、子どもの頃と何も変わらぬ、一人ぼっちに怯える女の子だった。
 胸に密着するジュリアの乳房に苦笑しつつ、スイレイがその背中を宥めるように叩いてやる。
 そのときだった。軽快な音を立ててスイレイの携帯電話が鳴り始める。
 その割って入った外部からの邪魔に、スイレイが反応する。
「ジュリア。電話、出てもいい?」
 ギュッと首に回された腕に窒息しそうだ、などと思いながらスイレイが言う。
 その耳元ですすり泣いていたジュリアが、とってつけたように舌打ちする。
「……なによ、いいところだったのに」
 負け惜しみのように言ってスイレイにさっさと背を向けたジュリアが、床に落ちていた携帯を拾い、
スイレイに向かって放る。
「さっさと出ればいいじゃない。切れちゃうわよ」
 そして急に裸であることが恥ずかしくなったのか、ソファーの向こうに隠れるとそそくさと着替えは
じめる。
 その姿を視界の片隅に納めながら、スイレイが電話にでる。
「はい、スイレイです」
「ローズマリーよ。フェイから連絡があったわ。なるべく早くここに来て。それから、ジュリアも連れ
て来て」
 相変わらず用件だけを言い立てるローズマリーの話し方に癖癖しながらも、スイレイが返答する。
「……ジュリアもですか? 今ここにいますけど」
「そうよ。ジュリアにも一緒に〈エデン〉に入って貰わないと。それから、一つ確認したいことがある
んだけど」
「はい」
 電話の向こうで言いよどむ気配を見せるローズマリーにスイレイが、先を促がす。
「信じられないようなことなんだけど、ゲームの裁きの天秤を知っているでしょ?」
「ゲームの? はい」
「あのゲームの中で出てくる紅い花。あれが今回のバイオハザードの原因らしいのよ」
「は?」
 思わず聞き返したスイレイの声に、電話の向こうが沈黙する。
「信じないならそれでもいいわよ。それで、あの紅い花みたいな花が〈エデン〉にはあるのかを知りた
いのよ。そうでないと、〈エデン〉にワクチンがあるという話に合点できないから」
 何もかもが荒唐無稽に感じられる。だがスイレイは電話を抱えたままにジュリアに声をかけた。
「ジュリア」
 スイレイの呼びかけに、ジュリアがソファーの向こうから恨みがましい目ながら顔を覗かせる。
「何?」
「〈エデン〉に植えた植物の中に、ゲームの裁きの天秤に出てくるみたいな幻覚をおこす紅い花はある
か?」
 ジュリアの顔が「え?」と顰められる。だがその顔が不意に何かを思いついた様子で、目を見開く。
「紅い花がどうしたっていうの?」
 明らかに何かを感じとったジュリアの顔に、スイレイの顔が険しくなっていく。
「あるのか?」
 鋭いスイレイの問いかけに、ジュリアが仕方なしと頷く。
「ただ、戒めのつもりで植えた植物がある。紅い花をつけるもので、古代には儀式の一環として使われ
たらしい幻覚性の花。それが、いつの間にか増え広がっていて」
 スイレイは電話口の向こうにいるローズマリーにジュリアの言葉を伝えながら、確かめなければなら
ないことに気づき、逸る心臓に苦しさを覚えた。
「ローズマリー。一つ聞きたいことが」
 改めて呼びかけられたスイレイの声に、ローズマリーが言いかけていた用件を途切れさせて沈黙する。
「もし、すでに〈エデン〉にワクチンがあるのだとしたら、それは今研究所で蔓延している奇病が、す
でに〈エデン〉で発生したものだからだと言えるのではないのですか?」
「………」
 電話の向こうでローズマリーが沈黙する。そして、事実を確認するように言葉を続ける。
「〈エデン〉には紅い花がある。そして病気を発生させた病原体を送りつけた人間もいる」
「病原体を送りつけてきた? いったい誰が?」
 スイレイの声が詰問するように強くなる。
 その声にジュリアが怪訝な顔をしながら側に寄る。
 携帯電話からローズマリーの語る声が漏れる。
「〈エデン〉には、もう一人のジャスティスがいる。そして、そいつの目論みで、本物の現実にいるジ
ャスティスが恐ろしい奇病に感染してしまった。そのもう一人のジャスティスがワクチンを持っている。
そのワクチンを手に入れる条件が、わたしとジュリアが〈エデン〉に行くこと。だから会いに行かなけ
ればならないの。ジュリアを連れて。それがここにいるジャスティスを奇病から救う唯一の手立てだか
ら」
 ジュリアが目を見開く。
「お父さんが感染って、何? バイオハザードでお父さんが?!」
 あまりの興奮にスイレイの胸を掴み、次の瞬間、ガクリと体を傾かせたジュリアを支えながら、スイ
レイが言葉を継ぐ。
「ペルは? 〈エデン〉にいるペルに感染の危険は?」
 そう言った瞬間、電撃が走ったように思い出した事実にスイレイは電話を切った。
 そしてメールの画面を開く。
 ジュリアが言ったではないか。ペルからのメールが来たという事実を。
 ペルがスイレイに直接メールを送ってきたことは、〈エデン〉で生活するようになってから一度もな
い。
 メールの文面に目を通した瞬間、スイレイは携帯を握り潰すかの勢いで握った。
手の中で携帯の機体がミシっと音を立てる。



―― スイレイ、〈エデン〉がおかしい。
   怖いよ、お願い。側に来て。




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