第四章   天使の烙印



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 突然胸のポケットでした振動に、ホテルの廊下の壁に寄りかかって立っていたフェイが声を上げて飛
び上がった。
 その顔をスイレイに凝視され、フェイは照れて頭を掻く。
「携帯電話だ。あんまり普段持ち歩く習慣がないから」
 ジュリアがつけたのか、ブタのストラップを下げた携帯を取り出し、スイレイから離れて電話に出る。
 その様子を見守っていたスイレイは、不意に自分の携帯の存在を思い出し、まだ着替えていないタキ
シードのポケットに手を入れた。
 だがそこにはない携帯に、体中を叩いて確認する。
「え? スイレイ? ああ、ここにいるけど」
 携帯を探していたスイレイの背に自分の名前を告げるフェイの声が聞こえ、顔をむける。
「ぼくに?」
 フェイがスイレイに向かって携帯を差し出す。
「ローズマリーだ。君に話があるって」
 頷いてスイレイが携帯を受け取る。
「もしもし、代わりました」
「スイレイ? 〈エデン〉にわたしもエントリーしたいんだけど、どうしたらいいの?」
 ローズマリーが開口一番に告げる。
 性急に用件だけを告げてきたローズマリーの声に何かを感じとり、スイレイは一瞬返答できずに口を
あけたまま押し黙った。
「〈エデン〉に? もしかしてペルに何か?」
「いいえ、ペルじゃないわ。とにかくすぐに〈エデン〉にわたしが行く必要があるのよ。どうしたらい
いの?」
 いつも通りの少し低いローズマリーの声に、だが確実に苛立ちと焦りを含ませた香りが立つ。
「〈エデン〉にエントリーするには、ぼくとペル、それからジュリアの許可の印としてMOディスクと
三人のパスワードが必要になります。それから、その登録は、研究所内のメインコンピューターによる
入力が必要で、ぼくにしかできません」
「え? なんですって?」
 スイレイも事実を告げてから、今自分が言ったことを実行することが異常なほど困難であることを理
解した。
 まず研究所は軍の監視下にある以上、外部からMOディスクを届ける術がない。それができたとして
も、研究所のメインコンピューターによる登録作業はマスターであるスイレイが立ち会う必要がある。
つまりスイレイが研究所内に潜入しなければならない。
「……そんな……、どうしてもわたしが行かないとジャスティスが。ジャスティスの命が救えないの
よ!」
 冷静を装っていたローズマリーの声が怒りを滲ませて爆発する。
「ジャスティスさんの命って、どういうこと?」
 ローズマリーの焦りに感染し、スイレイが携帯電話を持つ手に力を込める。
「ジャスティスが感染した。研究所内で何かの奇病が発生したのよ。カイルの死亡がさっき確認された
って知らせが」
「……カイルが……死んだ? ……」
 スイレイは何かの聞き違いであるかのように携帯の受話口と見つめた。
 だが漏れるローズマリーの声は現実であり、疑いようもなく事態は最悪への道をたどっていたのだと
思い知らされる。
 研究所で起こっていたバイオハザードのレベルが、予想をはるかに越えて、危機的状況であることに
スイレイは愕然とし、喋り続けているローズマリーの声に慌てて耳を傾けた。
「その病気のワクチンが〈エデン〉にあるって。それを受け取るためにはわたしが行かないとならない
のよ」
「〈エデン〉にワクチンが? どうして? いったい誰がそんなことを」
 ローズマリーが唐突に出した〈エデン〉とワクチンという言葉に、疑問が先に立つ。
 だがそれに対するローズマリーの返答は、厳しく突き放したものだった。
「そんなこと今説明している暇はない。とにかく〈エデン〉にわたしが行かないとならないの。その方
法を今すぐに考えなさい!」
 鈍る思考回路に言葉が出てこない。
 ただどうして? という言葉と、いくつもの不吉な言葉の群れが頭の中を渦巻くだけだった。
 バイオハザード。死を招く奇病。カイルの死。ジャスティスの感染。〈エデン〉にあるワクチン。そ
して不意に立ち上ったペル以外の人間が〈エデン〉にいるのではないかという不穏な予感。
 携帯を耳に当てたまま呆然と立つスイレイの手から、フェイが携帯を抜くと喋りだす。
「ジャスティスの命に係わることなんだな。手は打つ。こちらも考える時間が必要だ。結論は5分で出
すから待っててくれ」
 フェイはそう言って電話を切ると、呆然と顔を見上げるスイレイの背中に手を置いた。
「何が出来るのかを考えよう。まず何が必要なんだ?」
 ただ結論を出すのをじっと待つ姿勢で見つめる目に、スイレイはいつの間にか震えていた自分の手を
見下ろした。
 それから、ただ恐怖に飲まれている自分と、目の前で最大限自分のできることをしようとしているフ
ェイの存在を比較し、大きく息を飲んだ。
 何が今自分にできるのかを考えろ! 何をすべきなのか? それをなすための手立てはどこにあるの
か見極めろ!
 スイレイは自分にそう言い聞かせると、目を閉じた。
「ディスクを取りに行かないと。ぼくのとペルの病院に、ジュリアのはたぶんジュリアの自宅。それを
持ってなんとか研究所に潜入する。それからメインコンピューターでローズマリーを〈エデン〉に登録」

 口に出しながら、スイレイはその全てを成し遂げるための道程を考え、訪れるだろう困難に直面した
自分を想像してため息をついた。
 まずは病院へ行ってディスクを手にする。だがこのときに発生する問題は、ジュリアとフェイにしな
ければならないペルの状態の説明だ。なぜ昏睡を続けているのか。そしてなぜ〈エデン〉にいるのか。
 ジュリアが怒り狂うことは分かっていた。三人で作り上げた世界を、スイレイとペルで汚したと思う
かもしれない。いや、それ以前にスイレイはジュリアの〈エデン〉に関する権限のレベルを勝手に下げ
ている。ペルの存在を隠すために。ジュリアに対して秘密を守るために。
 それが無事済んだとしても、最大の困難が待っている。
 研究所への潜入。
 そんなスパイじみたことが出来るとは思えない。だが成し遂げなければならないのだ。
「……分かった。では、二手に分かれよう。君とジュリアはMOディスクを手に入れてくれ。俺は、研
究所に潜入する方法を調べる」
「………」
 何か当たり前の計画を手分けするかのように言ったフェイに、スイレイがありえないものを見るよう
に見上げた。
「そんなことできるのかって?」
 スイレイの言いたいことを見越して笑うフェイが、髪をかき混ぜるようにして頭を掻く。
「できるかどうかは分からんけど、ローズマリーに振られて自暴自棄になって軍隊に入隊したことがあ
るんだ。俺は使い物にならなかったけど、そのときにできた友人なんかもいるしな……、なんとかして
みるよ」
 頼りになるのかならないのか分からない笑みで頷くと、気合を入れるようにスイレイの背中を叩く。
「いつまでも辛気臭い顔をして蹲っていても、事態は何も変わらない。何事もダメ元なら結果は期待せ
ずに、でも実現できると信じて最大限の行動をせよ! ってのがうちのばあさんの格言でね」
 フェイの大きな手に叩かれて咽ながら、スイレイが頷く。
「……いい言葉ですね。……ぼくも最大限の努力を」
 フェイがスイレイに頷くとホテルの部屋の中を視線で示す。
「ジュリアを頼む。気が強そうで意外に脆い奴だから」
「はい」
 スイレイに背を向け、フェイが歩き去っていく。
 その後ろ姿に、スイレイは一抹の寂しさと不安を感じていることに気づき、自嘲する。
 いつの間にか、側にいて支えてくれるフェイの背中に寄りかかっていた自分がいたらしい。
 だがここからは、自分がジュリアを支え、ペルを守るために動かなくては。確かな意思という核を揺
るがぬように芯にもちながら。
 スイレイはジュリアの待つ部屋のドアへと向かっていった。




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