第四章   天使の烙印




 ジャスティスの姿を認めたマリアンヌが、大きな目を見開いて見つめていた。新たに現れた男を、カ
ルロスと同じように自分を恫喝する存在なのか、見極めようとしながらも怯えていた。
「マリアンヌ、気分はどうだい? なんて聞くのは野暮というものか。自己紹介しよう。ぼくはジャス
ティスだ」
 ジャスティスはなるべく穏かに話し掛けててから、マリアンヌの震える肩を指さした。
「寒いかい? それなら毛布を使うといい。後ろのベット上にあるだろう?」
 マリアンヌはジャスティスの言葉を理解して後ろを振り返り、ベットの上の毛布を見た。そしてそれ
を手に取ると、毛布の中に身を隠すようにして全身を覆った。
「それから足を怪我しているね。手当てをしないといけない。さっきのおじさんは気づかなかったみた
いだ。怖い思いをさせて済まなかったね」
 ジャスティスは救急箱を取りに行こうとマリアンヌに背を向けた。
 その瞬間、カプセルのガラス壁をドンと叩く音がした。強化ガラスだけに響き音は重く鈍いものだっ
たが、確かにマリアンヌが中から叩いた音だった。
 振り返ったジャスティスに、カプセルの壁に両手を打ちつけたマリアンヌが必死な顔で叫んでいた。
「行かないで。一人にしないで!」
「大丈夫。置いていってしまおうっていうんじゃないんだ」
 ジャスティスはそう言って棚の上に置かれた救急箱を指差した。
「あれを取ってくる。それだけだ。いいだろ? それともぼくのハンサムな顔をずっと見ていないと気
持ちが落ちつかないって言うんなら、後ろ向きで歩いていってもいいんだけどね」
 おどけた仕草で後ろ向きで歩き始めたジャスティスだったが、足元に置かれていた箱に躓いて転びそ
うになるに至ってマリアンヌに向かって頭を掻いて見せた。
「後ろ向きは難しいみたいだ」
 その言葉に初めてマリアンヌはほんの少し笑みを見せる。
「数秒間ぼくの顔が見えなくなるけど、いいかい?」
 マリアンヌがうなずく。
 ジャスティスは足早に救急箱を手にとり、マリアンヌのいるカプセルに近づいた。
 だが鍵の掛かった扉ではなく、搬出口になっている小さな扉の鍵を開けるとその中に救急箱を押し込
んだ。
「マリアンヌ。直接手当てして上げられないことは申し訳ないんだけど、救急箱は入れたから、自分で
手当てしてくれ」
 小さな搬出口に鍵を掛けながら言うジャスティスを、マリアンヌはショックを受けた顔で見つめてい
た。
「ドクターが手当てしてくれないの? どうして? どうしてわたしをこんなところに閉じ込めるの?」
 恐慌の一歩手前の精神状態の中で、マリアンヌが大粒の涙を浮かべながら訴える。
「マリアンヌ。ちゃんと説明してあげるよ。だけど、その前に足の手当てをしよう」
 静かに訴えるジャスティスに、じっと見つめ返すだけのマリアンヌだったが、力なく頷くと、搬出口
から救急箱を取り出した。
「傷はどんな様子だい? これでもぼくはお医者さんなんだよ」
「……すごく優しそうなお医者さん」
 マリアンヌが消毒薬と脱脂綿を取り出す。
「傷はとくに汚れたりはしていないです。内出血してるからどこかにぶつけたのかもしれない。……車
のドアだったかも」
 何かを思い出したのか身震いしたマリアンヌに、ジャスティスが言う。
「マリアンヌ。君はとても賢い女性のようだね。とても冷静に状況を分析できている。的確な説明でぼ
くも助かるよ。じゃあ、消毒して、中に滅菌ガーゼが入っているはずだから、それで患部を覆ってテー
プで止めようか」
 ジャスティスの指示に、マリアンヌが無言のうちに頷いて手を動かし始める。
「実はね、ぼくは君のことを知っているんだ」
「……雑誌で見たという意味ですか?」
「いや。そういえば君はモデルだったよね。でも見たのは確かに写真だったね。カイルがいつもデスク
に飾っていた写真でね」
 その言葉に、マリアンヌはガーゼを止めるテープを手にしたまま顔を上げた。
「ドクターは、よくカイルと電話でゲームの話してた副所長さん?」
「ははは。そう。そのゲーム好きの副所長がぼくだよ」
「……思っていたよりも若いです。それに本当にハンサム」
 マリアンヌが涙に濡れた顔に笑みを浮かべてみせる。
 その健気の笑みに、ジャスティスも笑みを返す。
「ありがとう。君みたいなきれいな子にそう言われると照れてしまうけどね」
 本当に照れた様子で顔に手を当てるジャスティスに、マリアンヌは笑みを見せながら立ち上がる。
「このゴミはどこへ捨てれば?」
 マリアンヌの手にしているのは、傷を拭って血の染みこんだ脱脂綿とガーゼを包んでいた包装紙だっ
た。
「その黄色いボックスが見えるかい? その中に」
 ジャスティスの指示されたボックスに近づいたマリアンヌは、その上に貼られたシールに気づきゴミ
を捨てようとした手を止めた。
「ドクター。これは……、バイオハザートを示すステッカーですよね?」
 禍々しいイメージを伝えるステッカーを見つめ、マリアンヌが振り返る。
 ああ、よく知っているね。君もカイルと一緒にゲームとかするんでしょ? そんな軽口を口にするこ
ともできたが、ジャスティスはどうしてもその言葉を口にすることができずに固まった。
 この状況でそう言ったところで、マリアンヌを笑わせることはできない。
「さっきの人も言ってました。カイルが昨日の夜何をしていたか、事細かに説明しろとか何とか。カイ
ルと何か関係があるんですか? あの人が何かしたんですか?」
 必死に真実を探そうとするマリアンヌが、ジャスティスには今にも崩壊をきたすことが分かっている
物語を見るようで恐ろしかった。いつ崩れ去るのか分からない精神の中で、それでも自分をつき通す剣
のような真実に向かって手を伸ばす。
「マリアンヌ。ゴミを捨てよう。それからそのイスに座って」
 ジャスティスは自分も側にあったイスを引き寄せると、わざと時間をかけてゆっくりと腰を下ろした。
 乱れてもいない白衣の襟を正し、インカムのマイクの位置を直し、時間稼ぎをする。真実を告げるこ
とから逃げているだけだと分かっていながら。
 カプセルの中でガタっと音を立ててマリアンヌがイスに座る。
 顔を上げたジャスティスが見たのは、自分に突き刺さりそうなナイフの刃を見つめながらも、けっし
て目を閉じることができずにいる恐怖と戦う女の顔だった。
 自分のこと、カイルのこと、今の不可解な状況のこと、すべてに対する答えが見出せないままに逃げ
惑うことを止めた女の決意を示した目の奥の光。
 ジャスティスはその強さに飲まれたように、言うべき言葉をなくして閉口した。
 だがマリアンヌの答えを求める目に我に返り、手にしていたファイルを開いた。
「君も気づいているように、君はいま隔離状態にある。君の体液がついたものは全てバイオハザートの
危険があるものとして取り扱われる。今のところは。検査結果が出るまではそのカプセルの中で過ごし
てもらわなければならない。その理由だが」
 ジャスティスはそこでゴクっと音を立てて唾を飲んだ。
 顔を上げたジャスティスの目を、マリアンヌがじっと見つめていた。
「カイルがある奇病を発病した」
「……カイルが? 奇病?」
 まるで意味の分からない言葉を耳にしたように一瞬惚けたような顔をしたマリアンヌだったが、次第
にその表情が強張り始める。
「その病気って、まさか死んだりしませんよね? 今、カイルは?」
「……誰も出会ったことのない、人類が初めて遭遇する病なんだ。この後どんな症状を見せるのかは誰
にもわからない。ただ感染症であるということ、それが……致死性であるということ以外は」
「……致死性?」
 震える声でマリアンヌが言う。聞き間違いであることを確認するように。自分が耳にした言葉がジャ
スティスのいい間違いではないのかと確認するように。
「カイルは………おそらく助からない」
 じっと見つめる目の前で、マリアンヌの顔からサッと血の気が引く。蒼ざめた顔が蒼白へと変化し
、意識を失いそうになった体をイスを掴んで支える。
 眼窩から眼球が飛び出すのではないかと思うほどに見開かれた目が、じっと何かを見つめたまま動か
なくなる。
 浅い呼吸を繰り返す背中だけが大きく揺れ、体中がガタガタと震え出す。
 だがマリアンヌの目から涙が零れることはなかった。
 この不条理な状況が、彼女にカイルの身に起きたことを否定し得ないことなのだと教えていたのだ。
カイルが死に瀕するほどの恐ろしい病気に罹ったからこそ、身近にいた自分が同じ病気に感染している
可能性がある。それゆえに隔離されたのだと。
「……わたしも同じ病気なんですか?」
 マリアンヌが呟く。
「……それはまだ分からない。検査結果を待たないと。でも、おそらくは感染はしていないだろう。感
染しているなら、とっくに症状が出ているはずだ」
「症状というのは?」
「……まず手足の震えに始まる身体機能の失調が起こり、体の中で突然の組織の自殺が始まる。その一
環として眼球の破裂が起こる。それからは、もう自分の意思では体は動かしようがない。ただ……心臓
が止まるまで体が破壊されていくのを待つだけ」
 率直に伝えた病気の症状を、マリアンヌは顔色一つ変えずに聴いているだけだった。
「カイルに……あの人には、もう会えないと?」
「……気持ちはわかるけど」
「カイルには意識はもうないのですか? わたしに会っても分からないのですか?」
「……」
 マリアンヌの思いを読み取れないまま、ジャスティスは口を閉ざした。
 視線の先に、次第にマリアンヌの目が忙しなく動き始め、唇が何かを訴えるように震え始める。
 そしてその目が助けを求めてジャスティスを見つめた。
 その目に、ジャスティスは何も返すことが出来ずに、じっと見詰め合った後、ただ目を閉じ首を横に
振ることだけしか出来なかった。
 カイルに会うことは出来ないのだと示して。
 マリアンヌの目から、初めて涙が零れた。
 声がもれる。嗚咽の声が。
 いったん溢れ出した感情は堰を切ったように止めどなく溢れ出す。
 自分で自分の肩を抱きしめ、イスの上で蹲ったマリアンヌが号泣する。
 ただ悲しみに溺れ、精神の悲鳴を口から吐き出し、恋人との過ぎ去ってしまった時間に届かないのだと
思いながらも手を伸ばしながら。
 ジャスティスがただ、その小さく縮んでいく背中を見つめ、立ち尽くしていることしかできなかった。
 そのジャスティスの背中を、隔離室に入室してきた研究員の一人が叩いた。
 そして僅かな耳打ちをしてファイルを残して去っていく。
 マリアンヌは感染に対してネガティブ。
 ジャスティスはその答えに、ある決意を固めて顔を上げた。
「マリアンヌ。一緒においで」


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