第四章   天使の烙印



3

 誰もいない廊下の隅で蹲ったジャスティスは、暗がりの中へと身を運ぶと、ポケットの中から注射器
を取り出した。
 震える手で駆血体を腕にまわし、浮き上がった血管に針を刺す。
 体を駆け巡る精神安定剤と抗痙攣薬が効果を発するのを待ち、大きく震えるため息をつく。
 いつ、より激しい症状が自分の身を襲うのかを考えると恐怖に押し潰されそうになる。その不安な精
神に反応した体の震えが強く出るような気がした。
 だから自分で配合した薬を持ち歩いていたのだ。
 こんなのは気休めでしかない。そんなことは分かっているのだが、今のところジャスティスに限って
病状の進行が遅いことも事実であった。
 目の前を真っ赤に染めるほどの恐怖が次第に和らぎ、心を押し潰そうとする重石が溶解して軽くなっ
ていく。ふわりと舞い上がれそうな羽が体の中に舞い降りる。
 ギュッと握っていた手を見下ろせば、震えもピタリと止まっていた。
「……なんとか、まだもってくれよ……」
 手の中で針が剥き出しになった注射器が光っていた。先端にジャスティスの血をつけた注射器が。こ
の先端にだけでも、どれだけの感染源が渦巻いているのか分かったものではない。
「……とんでもないものを体の中に入れちまったよな。……いったいどこから沸いて来た病原体なんだ
かな」
 半ば他人事のようにつぶやき、針にキャップをするとジャスティスは廊下に散らばった資料を脇に抱
えなおす。
 目指す先は第一隔離室。



 ドア横の指紋照合のためのパネルに指を近づける。
「……承認。ドクター・ジャスティス」
 機械の音声ガイダンスにしたがって銀色に光るドアがスライドしていく。
 さらにその中にあるガラス張りの隔離室との境界壁の中に、カルロスの姿があった。
 カルロスの目の前には、さらに透明な巨大カプセルのようなものの中に閉じ込められた女の姿があっ
た。
 カプセルと言っても人一人が過ごすだけのスペースは確保され、ベットに便器などが饐えられている。
完全にプライバシーのない刑務所の一室のようなものだ。ただ閉じ込められるのが犯罪者ではなく、病
気の感染源となる可能性がある者ということになる。
 そのカプセルの床に膝を抱えて蹲った女がいた。予想もつかぬ事態に混乱し、不安と恐怖の中で爆発
寸前の精神の中で泣きじゃくっていた。
 それを見守るカルロスの目には苛立ちしかない。同情も配慮もなく、何かを訴えて怒鳴りつけていた。
 女はその声に耳を両手で塞ぎ、頭を振って現実から乖離しようとしていた。
 予想通りの事態にジャスティスは思わず皮肉な笑みを浮かべた。
 カルロスに女性への、いや人間の弱さや苦しみへの感情を思いやる配慮なんてものを求めても無駄な
ことは知っていた。
 常に彼の中にあるのは、己の中にある科学への挑戦にとって益になるのか否かだけだ。すべての価値
はその基準の中で下される。
 今目の前で泣きじゃくる女のすべき事は、カイルが、感染源と接触した可能性のある行動を取ったか
否かを語ることであって、泣いて今の状況の説明を求めたり、自分の不安を和らげて欲しいと願うこと
ではあってはならないのだ。
 ジャスティスはカイルの恋人だったという女を気の毒そうに見つめた。
 願わくば、彼女が感染していないようにと祈るだけだった。
 ジャスティスは隔離室の中に通じるマイクをオンにすると声をかけた。
「カルロス」
 その声に振り向いたカルロスは不機嫌そうに振り返り、頭に装着していたインカムを調整した。声が
女のいるカプセルに通じないように回線を遮断したのだ。
「なんだ、ジャスティス。見ての通り俺は今忙しいんだがな」
「そうみたいんだね」
 ジャスティスは皮肉交じりに笑う。
 君がどんなにそこで怒鳴りまくったところで、彼女から有益な情報は引き出せないのに。
「……彼女のことはぼくに任せてくれないかな?」
「……ハッ……俺よりおまえの方が女の扱いには慣れているって言うのか?」
 辛らつな皮肉をやり過ごし、ジャスティスはカルロスの頭が冷えるのを待つ。
「……カイルはぼくと親しかった。そのカイルの恋人だ。ぼくの方が彼女と接点がある。それに新しい
発見があった。君に見てもらいたい」
 カルロスに向かってローズマリーから受け取ってきた大きな封筒をかざしてみせる。
 その封筒に、カルロスの眉が動く。
「……今から行く」
 尊大な態度でカプセルの中の女に背を向け、歩いてくる姿にジャスティスはホッと息をつく。時間を
無駄にできないのは自分も同じだった。ならば適材適所で動かなくてはならない。
 隔離室のドアが開いた途端に風が起こって髪を乱す。部屋の中が陰圧に保たれているためにカルロス
の背後へと空気が吸い込まれていく。
「で、発見ってのは何だ?」
 乱れた髪を手で押さえながら、カルロスが不機嫌に呟く。
 その手に封筒を押し付けると、ジャスティスは隔離室の中で肩を震わせてなく女を見つめた。
「……あの女は使い物にならん。泣いてばかりで事の緊急性を理解しようとしない」
 カルロスは不満をぶちまけながらも、封筒の中の写真を手に取り眺め始める。
 カルロスはいったい彼女に何を話し、どれほど彼女を追い詰めていったのだろう? 
 カルロスの性格はよく理解しているつもりだが、それでもこんな時くらいはどうにかならないのかと
怒りが湧き上がる。
 彼女がどんな心理状況に今置かれているのかなど、カルロスにはどうでもいいことなのだ。ただ今の
全ての実験の手を止めなければならない事態に苛ついているだけなのだ。だからこそ、新たな楽しみご
とを与えてやれば、すぐにそれに食いつくことも分かっていた。
「なんだこれは? 電子顕微鏡の写真だということはわかるが」
「カイルの脾臓の組織の中に見られたプリオンだ」
「……プリオン? あのCJDや狂牛病などに見られる病原性の?」
「そうだ。運動能力の失調の様子からローズマリーがあたりをつけ、発見した」
「ふぬ、ローズマリーか……。さすがというか、なんというか」
 そう言いつつも、カルロスの不機嫌だったはずの顔に好奇の笑みが浮び始める。
「原因物質の可能性が高いと。そうとくれば次にすべき事は、これが本当に病原体なのかを確かめる動
物実験に移行すればいいわけだ。カイルの組織を猿に与えてやる」
 その露骨な言葉に、ジャスティスは顔を顰めた。
 確かに何をするべきなのかはよく分かっていた。プリオンの含まれる組織を生理食塩水で薄め、猿の
大脳に直接注入して様子を見ればいい。そのとおりなのだ。
 電子顕微鏡の写真を見つめ、実験の算段をしていたカルロスはふと顔を上げると、珍しく殊勝な表情
でジャスティスを見た。そして肩に手を置くと言った。
「……ああ、すまない。カイルはお前と親しかったのだな。……ちょっと無神経な言い方だったよ。カ
イルも優れた科学者だったからな、惜しいことをしたよ」
 頷いたジャスティスにカルロスが背を向けて足早に部屋を後にしようとする。
「実験の方は任せてくれ。こんな病気はさっさと葬り去ってやる。おまえは、あの女からカイルがどこ
でこの病原体と接触したのかを調べろ」
「わかった」
 勢いよく閉まるドアの向こうに消えようとしていたカルロスの背中に言い、ジャスティスはため息を
ついた。
 カルロスは科学者としては超一流だ。だが、人間としては最低な部類に入るのだろう。人間の価値を、
もって生まれた遺伝子でしか判断できないのだから。彼の目には全てが二重螺旋に見えているのかもし
れない。だが今はそのカルロスの才能にかけるしかない。
 より迅速な病原体の同定と、その病原体に対する対抗策を講じる。誰よりもそれができるのがカルロ
スだろう。
 ジャスティスは顔を上げると、隔離室の中の女をみた。
 カイルの恋人マリアンヌ。弱々しく床のタイルの上で膝を抱えて、恐る恐る辺りを見回している。そ
の目は真っ赤に充血し、涙でぬれていた。震えた肩が痛いたしく、見れば膝を怪我したのか血を流して
いた。
 ジャスティスはカルロスが残していったインカムを装着すると、隔離室の中へと入っていった。
 開いた扉に再び風が起こる。
 その風を背中から受けながら、ジャスティスはマリアンヌの座り込むカプセルの前に立った。



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