第四章   天使の烙印



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 指定されたホテルの前に車を止める。すかさず寄ってきたベルボーイに車のキーを渡すと、スイレイ
とジュリアはホテルのエントランスへと入っていった。
 五つ星の最高級ホテルだけに、着飾った二人の姿もさほど浮くわけでもなく、豪奢な雰囲気にマッチ
していた。
 広々ととられたエントランスの中央には、ライトアップされた噴水がブルーの光にきらめく水のしぶ
きを躍らせ、白い石膏像の女神がその水を浴びて艶かしく肢体をくねらせていた。
 その像の前に、一人そのホテルの雰囲気にそぐわない男がいた。その男がスイレイとジュリアに手を
上げて合図を送ると近づいてきた。
 背が高くがっちりした体型の、高級ホテルよりも野山でキャンプしていた方が似合うような風体の男
だった。長い髪を後ろで束ねたワイルドと形容したほうがいい男が、神妙な顔でそこにいた。
「フェイおじさん」
 ジュリアが近寄ってきた男の前に駆け寄ると、その腕に抱きついた。
「どういうこと? お父さんに何があったの?」
 今まで押し黙っていたジュリアが、重圧に耐え切れずに縋りつくようにしてフェイを見つめた。
 その姿を一瞬閉口して眺めたスイレイだったが、自分をじっと見つめている男の視線に気付いて手を
差し出した。
「フェイさんですね。スイレイです」
 その手を握り頷いたフェイは、怯えるように胸に縋って身を縮めるジュリアの肩に両手を置いた。
「ここで出来る話でもない。部屋を取ってある。そこで話そう」



 ホテルの部屋のソファーに身を沈めたスイレイに、フェイが冷蔵庫から取り出したミネラルウォータ
ーを差し出す。
「気持ちが急くのは分かるが、精神が持たないぞ。言葉ではどうにもならないが、気持ちを落ち着けて」
 フェイの手からミネラルウォーターを受け取って頷くと、スイレイは一口飲み、ため息をついた。
 部屋の片隅の浴室からは水音がしていた。
 混乱に気持ちを取り乱していたジュリアが、シャワーを使いたいと言い出したのだ。
 もうかれこれ10分以上経つが、出てくる気配はなかった。
 シャワー室のほうを気にして振り返れば、フェイがそんなスイレイを何か言いたげに見ていたが口に
はしなかった。
 だがその視線に気付いて振り返ったスイレイと目が合い、気まずい沈黙の中で視線だけがぶつかり合
う。
「あー、その。もちろん二人はもう大人なのだし口出しするつもりはないのだが、その……」
 言いにくそうに口を開いたフェイの言葉に、スイレイはつい苦笑を漏らした。
「ぼくとジュリアなら付き合ってませんよ。今日は友達のパーティーに行くのにエスコートがいるって
いうから付き合いましたが……」
「ああ、そうなのか?」
 どこかホッとしたような、だが何かに納得しない顔のフェイが頭を掻いた。
「昨日やけに張り切ってパックなんてしてたから聞いたら、彼氏とお出かけだって言うからてっきり…
…」
 それを聞いて、スイレイもばつの悪い気分で口を閉ざすしかなかった。
 ジュリアは自分の口にしたことを実現するつもりでいたはずだ。きっとこんな事態になることは想像
もできなかっただろう。失恋と同時に、大好きな父親がいる研究所がバイオハザードを起こし隔離され
てしまうなどという事態は。
「……余計な詮索だ。答えたくないなら答えなくて構わないのだが。二人の間に何かあったのか? ど
うも様子がおかしい気がして」
 それはそうだろう。スイレイは口の端に笑みが浮ぶに任せ、目を閉じた。
 ジュリアはまるでスイレイの存在を無視したようにフェイに取りすがり、口をきこうとしなかった。
 今もフェイからすぐにでも状況を聞こうとしたスイレイに対して、ジュリアはシャワーを使いたいか
ら待っていてとフェイにだけ告げて行ってしまった。
 いつものジュリアらしくない態度だった。それだけにジュリアの許容を超えてしまった事態なのだと
いうことも表していた。
 今もきっとシャワーにうたれながら泣いているのかもしれない。不安や絶望、恐怖と戦いながら。
「……ジュリアに告白されました」
 視線を床に落としたまま言ったスイレイに、フェイが顔を上げた。
「……それで?」
「……ぼくはジュリアの気持ちに応えられない」
「ほかに好きな子がいるんだね」
「……でもそれはジュリアにはどうしても受け入れられないことなんです。簡単に気持ちにけりがつけ
られるとは思えない。しかもそんな時にこんなことまで起こってしまって」
 間が悪いとしか言いようがない。どうしてこんなにもジュリアを追い詰める形で物事が進行していく
のか。
 スイレイはため息をつくと、じっと話を聞いているフェイを見た。
 初対面の人間に何を話しているのかという思いと同時に、こうして聞いてくれる人間がいてくれるこ
とにありがたいという思いが交錯する。そしてフェイという人間の人を警戒させない空気感にも思いを
馳せた。
 実のところ、自分には何も言おうとしなかったジュリアが、フェイにだけその辛い心情を晒したこと
に、少なからず嫉妬したのだ。自分はペルだけしか愛せないくせに、自分から一歩離れたジュリアに寂
しさを覚える。
 だが今自分もフェイという存在に頼ろうとしている事実に、自嘲した。自分一人では抱えられない気
持ちを、一緒に背負って欲しいと思っている自分がいた。あまりに小さな自分の許容量と力のなさに落
胆する。
 そんなスイレイの気持ちを感じ取ったようにソファーの背もたれから上体を起したフェイは突然、話
はじめた。
「君はまだ小さかったから覚えていないだろうけど、じつは今日が初対面ではないんだ。君が二歳くら
いのころは、俺もローズマリーと婚約していたからね。君たちの周りをうろうろしていたんだ。高い高
いしてやったこともあるんだけど、覚えていないかい?」
「え? ……すいません。覚えてないです」
 不意に始まった昔話に目を丸くしながら、スイレイは答えた。
「そうか。そうだよな。片手で抱え上げられるくらいに小さかったんだもんな。ジュリアと一緒に遊ん
でいるときも、その遊びに夢中で側にいる俺なんか見えないお化け扱いだ」
 昔を懐かしむように笑ったその顔に、何かを思い出しかけたような気もするが、スイレイの記憶の中
から明確な形でフェイにつながるものが出てくることはなかった。
「あの小さかった二人も、俺がこの地を離れているうちにこんなにでかくなって、恋もする年になって
いたんだな。自分の年をしみじみ感じるよ」
 よく日に焼けた頬を撫でながら、フェイが言う。
「誰もが人を好きになって、結ばれて幸せになっているように見える。でもな、俺は思うんだ。人と人
がお互いを好きになって気持ちが通じ合うなんていうのは奇跡なんだって。こんなにたくさん人が溢れ
ている中で、たった一人を心に決めることができるなんて」
 フェイの目がどこかを見つめて細められる。
 スイレイはその目の中に、ローズマリーが一瞬掠めたのを見た気がした。
 かつてローズマリーと婚約していたフェイ。二人の間にどんな感情のやりとりがあったのかは想像で
きない。あのローズマリーとどんな恋愛関係を築いていたのか。だがその関係はペルを身に宿したこと
で崩壊した。それがフェイの子ではなく、父カルロスの子どもであったために。
 フェイは、そのときの辛い気持ちを思い返しているのだろうか? 愛した人に裏切られるという痛す
ぎる心の痛みを。
「スイレイ。君に心に決めた人がすでにいるなら、それを誇ればいい。ジュリアは、その固い思いを知
れば自分で心に受けた傷を治すことができる。君が後ろめたい思いを持てば持つほどに、ジュリアもい
つまでも傷を穿り返すだろうから」
 フェイは真剣な目でそう言ってから、目のあったスイレイに笑いかけた。
「なんて偉そうなことは言えないな。俺もローズマリーに振られて泣いて逃げていった口だからな」
 参ったなと頭を掻くフェイに、スイレイは微笑むと頷いた。
「なんだか気恥ずかしくて、ローズマリーともまだ会ってないんだ。彼女は元気にしてるかい? それ
からペルといったかな? 彼女の娘も」
 照れながら聞くフェイの姿を微笑んで見守っていたスイレイだったが、思いがけずに出たペルの名に
顔を強張らせた。
「あ、ええ。二人とも元気です」
 だが明らかに狼狽したこの声に、フェイが不思議そうにその顔を見つめた。
 そしてその視線が次第にスイレイの顔からずれていく。
「嘘はよくないわよ。それともフェイおじさんに気を使っての嘘かしら?」
 いつの間に出てきたのか、バスローブを羽織って長い髪から水の雫をたらしたジュリアが立っていた。
 どこか青白い顔で表情を無くした冷たい顔がスイレイを見下ろしていた。
 だがスッと合った視線を外すと、空いていたソファーに座り込み、タオルで髪を拭い始める。
「ローズマリーおばさんは殺しても死ななそうなくらいに元気よ。でもペルは違うでしょ? 今入院中
よ」
「入院中?」
 フェイが顔をしかめる。怪訝な表情が浮ぶその顔は、ただかつての婚約者の産んだ娘を気遣うものと
は違った。
「怪我か何かか?」
 いやに断定して言うその言葉に、スイレイとジュリアの目がフェイに向く。
「怪我じゃないわ。病気よね? 面会謝絶になるくらいの」
 視線で問われ、スイレイは不承不承頷く。
 どうしてペルの話題にならなければならないのか?
 スイレイは焦りにも似た気持ちで話を反らそうと頭を巡らせた。だがそれを裏切るようにフェイが言
った。
「……ペルが病気? そんなはずはないだろう。君とペルは病気になどなるはずがない。ローズマリー
がそう作ったんだから」
「え?」
 そのフェイの漏らした言葉に、ジュリアが目を丸くする。
 だがスイレイには思い当たる言葉だった。ペルと自分はローズマリーとカルロスの間で何らかの細工
のもとで作られた命だからだ。人工的な手が加わった生命であることは自分が調べた結果として知って
いた。
 だがそれをフェイが知っていたとは。
 スイレイはソファーから腰を浮かべると、フェイに言った。
「あなたは知っているんですね。だったら教えてください。ぼくとペルの間にある秘密を」

 


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