第四章   天使の烙印


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 発症者数5名。
 いずれも倒れたカイルに素手で触れた者たちだった。
 ジャスティスは自分の手を見下ろした。
 自分の手にも顔にもカイルの血が降りかかった。
 自分の身にもいずれ同じことが起こるのかと思うと、腹の底から恐怖が湧きあがる。
 原因はなんなのだ?
 カイルと共同研究を行っていた者に、同じ病気への感染はなく、使用された実験動物にも、研究所に
いる全動物にも、今のところ発症は確認されていなかった。
「ジャスティス」
 不意に声を掛けられ、ジャスティスはビクリと体を震わせると声をかけてきた人物に目を向けた。
「大丈夫なの?」
「ああ、姉さん。今のところはね」
 大きく溜め息をつくと、ジャスティスはローズマリーの持つ大きな封筒に目を向けた。
「それは?」
「ああ。ちょっと見て」
 それは電子顕微鏡の映像をフィルムに写したものだった。
「これは?」
「ちょっと気になることがあって、調べてみたの。ウイルスによる免疫反応もなく、アポトーシスを誘
導するような病気はないか。そしてカイルやほかの発症者の様子を見ていて気になった症状も合せて」
「気になった症状って」
 ローズマリーは一瞬、視線をジャスティスの手に合わせ、それからスッと反らした。
 その視線に自分の手を見下ろしたジャスティスは、フィルムを握る手が小刻みに震えているのに気付
きフィルムから手を放した。
「この震えのこと?」
「……そんな微弱なものではないわ。カイルも、ほかの所員もまるでパーキンソン病を患ったかのよう
に歩くこともままならない様子だった。全身の筋肉を操る機能が失われつつあるのよ」
「カイルはじゃあ」
「さっき人工呼吸器が取り付けられた。自立呼吸も今は不可能になったのよ。残念だけど時間の問題よ」
「……そうか」
 ジャスティスは悲痛な事実に感情が麻痺していくようだった。
 あの元気に笑って自分を慕ってくれたカイルが、今死に向かって時を刻んでいる。
 なぜこんな事態に陥ったのか? なぜカイルが?
 だがそう嘆き、悲歎にくれていたところで何の解決にもならないことは分かっていた。その疑問の答
えを導き出すことが、科学者たる自分の務めであることも。
 ローズマリーは激しい感情との戦いの中にあるジャスティスを黙って見つめていた。
 顔は冷静さを装っていたが、ジャスティスの目の中にある感情の渦は、いつ爆発してもおかしくない
狂気の中にあった。それを理性が必死で押さえ込もうとしている。
 ローズマリ―はうつむいたジャスティスの肩に手を置く。
「あなたには、休んでいてという労わりの言葉をかけるわけにはいかないの。今は何よりもあなたの頭
脳が必要とされているのだから。もっともカイルと親しかった、そして医師としての資格もあるあなた
の知識が」
 ローズマリーの真意をくみ取り、ジャスティスは肩の上のある手を握ると頷いた。
 ローズマリーの目が語っていた。ここから先はあなたの姉としては接しない。あくまで同じ科学者と
してのみ、接していくと。
「ああ、分かっているよ。ただ黙って寝ていろと言われるよりも、その方が救いだよ」
 ジャスティスは電子顕微鏡の映し出した映像を手に撮ると電灯の光にかざした。
「これは何の映像」
「……カイルの脾臓よ」
「……摘出したのか?」
「大出血を起してやむなく。脾臓には感染した細菌を全身に送らせないために血液中から濾しとる作用
があるでしょう。だから調べたのよ。何かあるとしたらココにあるはずだって」
 カイルの体から摘出された脾臓の組織がすり潰され、加工されてこの写真として今目の前にある。
 ジャスティスは感情を押し殺すと、じっと転写されたフィルムを見つめた。
「……この中央に移っている……線維片のようなものは?」
「そう、それよ。試料のいたるところに現れていた。そしてこれこそわたしが疑った病状の証拠なのよ」
 ローズマリーは言いにくそうに口を閉ざし、ジャスティスを見つめた。
「この繊維片のようなものが? 自立行動を阻止するような症状を呈する病気で……」
「そうよ。こんな線維片が脳内に蓄積すれば……」
 そこでハッと顔を上げたジャスティスに、ローズマリーが頷く。
「クロイツフェルト・ヤコブ病。……じゃあ、これは病原性プリオン」
「電子顕微鏡を扱いなれている友達に見てもらったわ。この形状はプリオンだって」
 クロイツフェルト・ヤコブ病。神経難病のひとつで、抑うつ、不安などの精神症状で始まり、進行性
痴呆、運動失調等を呈し、発症から1年〜2年で全身衰弱・呼吸不全・肺炎などで死亡する病だ。病気
の発生の仕方によって孤発性、医原性、遺伝性、変異型と分類される。プリオン病の一つされ、人間な
ら誰でも持っているプリオン蛋白を異常型に書き換えられることによって正常な神経の働きが急速に阻
害されることで、様々な症状を生む。
 そのプリオン病の一つが変異型に分類される狂牛病であり、変異プリオンを含む牛肉を食べることで
感染する可能性が指摘されている。
「確かに症状としては似ているし、変異プリオンが見つかったとなればCJD(クロイツフェルト・ヤ
コブ病)を否定することはできない。だが、感染症だなんて聞いたことがない」
「確かにそうよ。遺伝する病気とも言われているけど、食人行為でもしない限りはうつらないはずだわ」
「カイルがどこかで人を襲って、その脳でも喰らってきたというのか?」
 食人文化によって起こったクールーという病気もこのプリオン病に含まれている。だが、現代におい
て人食いなどありえない。
「カイルは硬膜移植手術を受けたとも聞かないし。でもこの病気は体液感染していることは事実。そし
てその結果起こるのは、異常型プリオンの急激な増殖によって起こるアポトーシス。問題はカイルがど
こではじめてその異常型プリオンと接触したか、あるいはそのプリオンを発生させるに至ったかよ」
 ジャスティスは説明を聞きながら、それでも信じられない思いでただ惰性で首を振ることしかできな
かった。
 プリオン病はどれも潜伏が10年ほどとされている。異常型プリオン蛋白が体内に入り、それが一種
の製核剤となって体内に本来あったプリオンの形を変異させるのに、それだけの時間がかかり、症状と
して現れるには時間を要するからだ。
 だが今回のこの病はどうだ? わずか数時間で発症している。ありえないほど強い感染力を有しなが
ら。
 今も、自分の脳内で蠢くプリオンが自分の脳を喰らって増殖を続けているのだろうか? 
 ジャスティスは不気味な想像に肌を泡立たせた。
「ジャスティス?」
 どこか呆然と虚空を見つめるジャスティスに、ローズマリーが声をかけた。
 その声にハッと我に返ったジャスティスは、恐怖に捕らわれる自分を叱咤するように自分の頬を両手
で叩いた。
「今現在発症した人間の様子を見ると、カイルの病原体との接触もそう時間が経っていないだろうな」
 ジャスティスは気持ちを切り替えてローズマリーを見上げた。
「そうね。どう長く見積もっても24時間以内のどこかでしょうね。その間のカイルの行動を検証する
ことね」
「ああ。そうだな」
 昨日。思い返して最初に思い浮かぶのが廊下ですれ違った時にみせた陽気で愛嬌のある笑顔だった。
ゲームにクリアしたというメールを見ていただけに、特にはその話はしなかったが、目と目で語ったの
はそのことだったと思う。おめでとうという思いと、この野郎、やりやがったなという思いを込めた視
線のやり取り。あの時はこんなことになろうとは思わなかった。
 今も苦しい思いをしているカイルのためにしてやれることといえば、原因解明のために最善をつくす
ことだけだった。
 ジャスティスはイスから立ち上がると、手にしていたフィルムを封筒にしまい手に取って歩き出した。
「姉さん、ありがとう。すばらしい発見だよ。これは借りていくよ」
 横を通り過ぎ、部屋を出ようとしたジャスティスに、ローズマリーが声をかけた。
「どこへ?」
「カルロスのところへ」
「それなら、たぶんマリアンヌのところよ」
「マリアンヌ?」
「カイルの同棲中の彼女よ。感染の恐れありでつれて来られてるから」
 ローズマリーの顔が何かを訴えてじっと目を見つめていた。
「……カルロスか。不安の中で一緒にいるのがカルロスでは、彼女が気の毒だな」
「そういうこと。早く行って上げて」
 頷くジャスティスに、ローズマリーが頼むわよとその肩を叩く。
「……でも無理はしないで。あなたも感染の疑いは強いのだから。症状が出たら、すぐに連絡して」
「わたしがすぐに隔離してあげるって?」
 冗談めかして言った言葉に、しかしローズマリーは笑わなかった。
「大丈夫だよ。こんな大問題を放ったまま倒れるなんてできないからな。それに、ジュリアを一人にす
るつもりもない」
「ええ、そうね」
 真顔で頷くローズマリーの肩を叩き、ジャスティスは部屋を後にした。
 だがジャスティス自身は分かっていた。
 自分がすでに感染していることを。右手に始まっていたの震えを止めることはできなかった。自立行
動の不全。感染の第一段階の兆候だった。





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