第二章 ニューワールド

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  強化ガラスで仕切られた研究室の中から、ガラスの割れる破砕音が響く。
  その音につられて顔を向ければ、新人の研究員二人が、ぶつかって落とした試験管とビーカーが床で
粉々に砕け、中に入っていた試料を床にぶちまけていた。
 それを騒ぎながら片付ける姿に、ジャスティスの真横でカルロスが舌打ちする。
「ここは小学校の理科室じゃないんだぞ。誰だ? あんな低脳な研究員をうちの研究所に入れたのは!」
 心底軽蔑した目で見るカルロスに、ジャスティスが研究室の中を見れば、所長の恐ろしいばかりの顔
色に気付いた研究員たちが肘うちをし合い、テーブルの陰に隠れるようにしてビーカーの欠片を片付け
始める。
「ああいうやつらは遺伝的に劣っているに違いない。接近する人の気配さえ感じられないんだからな」
 カルロスの早足の横を歩きながら、ジャスティスが小脇に抱えたファイルを開いた。
「別にそこまで遺伝子で語ることもないだろう?」
 そのジャスティスの反論に、カルロスが眉をひそめる。
 そして不意にジャスティスの顔に目掛けて拳を振るった。
「おい、なんだよ」
 それをファイルに目を落としていたにもかかわらずヒョイっと避けたジャスティスに、カルロスがほ
ほえむ。
「おまえは外見は軟弱そうな優男だ。美形で細面で、いかにも女にもてそうだ。その上遺伝的にも恵ま
れている」
「遺伝子の話と殴りかかるのと、何が関係するんだ?」
「我が信頼すべき副所長殿に、運動神経と遺伝の働きを説明するためだ」
 カルロスの薄笑みの浮んだ顔を見れば、しごく当たり前のことをしたのだという傲慢に近い表情が浮
んでいる。
「運動神経は持って生まれたものもあるだろうが、後天的に鍛えたものだというほうがあっているだろ
う」
「確かに持って生まれた天分の才も、きちんとしたトレーニングなくして開花はしない。が、最初から
その才能がないのにがんばってみたところで、出てくる成果はたかがしれている。急速収縮線維が筋肉
内に多いか否かは、生まれ付いての遺伝的決定要素だ。多く生まれた人間はそれだけで短距離や体操選
手としての才覚を表す。だがないものにはどうやったて、それだけの才能は見出せない。運動神経とて、
生まれつき遺伝子の中に書き込まれたるか否かの運命さ」
 遺伝子至上主義者らしい意見を展開し、カルロスは研究室のドアを開けて入っていく。
「人間の体には650もの筋肉がそれぞれの働きを担って働いている。その一つ一つを意のままに操れ
るかいなかは、幼少時の運動量に他ならない。いくら遺伝的な優劣があったとしても、それだけで人間
をはかることはできないとぼくは思うぞ」
「意見は聞いておくよ」
 デスクに座ったカルロスは形ばかり言うと、パソコンを起動した。
「でも感謝してるだろ? 自分の持って生まれた優秀な遺伝子に。そのおかげで君はすばらしい反射神
経と運動神経を発揮して、わたしの鋼鉄の拳を顔面に浴びずに済んだのだから」
 ジャスティスもパソコンを前に座ると、おどけて肩をすくめて見せる。
「本気で殴るつもりはなかったんだろ?」
「さあ、それはどうかな?」
「いずれにしろ、明日には所長と副所長の不仲説が研究所の中を駆け巡っているよ」
「それは結構なことだ」
 カルロスはジャスティスにディスクを出して目で合図を送ると、ジャスティスも頷く。
 僅かな指の動きで透明なガラス壁が白色へと変化し。視界を遮る壁へと変化する。
「【NW】(ニューワールド)の旅へと出てもらおうか」
「了解」
 ジャスティスは机の引き出しからジャックをとりだすと、こめかみにセットした。
「【NW】は嫌いじゃないが、いつもこの瞬間が嫌だね」
 こめかみのソケットにジャックが装着され、カチッと音を立てる。
「自分が開発しておいて何を言う。でもその開発もゲームのためだというのだから、わたしは頭が痛い
よ」
 机に肘をついた体勢で、カルロスがジャスティスをみやる。
「ゲームをバカにするなよ。今のゲームはビジュアル的にもストーリー的にも完成度が高い。昔のイン
ベーダーゲームしか知らないカルロスに言われたくないね」
「それは失礼したね。この頃のお気に入りのゲームは何だね?」
「裁きの天秤」
 ウインクしてみせたジャスティスに、カルロスが渋い顔のままジャスティスを見るだけだった。
「あれ? 所長殿は知らない?」
「なんの話だ?」
「研究所のLANケーブルを使っておすすめゲームとしてメールが回ってきたから、てっきり所長もご
存知かと」
「そんなものには興味もないことを、賢い研究員たちは知っているのだろう。聞いたこともないね」
「人望ないねえ」
 気の毒そうに言っても、カルロスは痛くも痒くもないという顔で、じっとジャスティスを見るばかり
だった。
「それで副所長殿は毎晩、そのゲームに明け暮れて目の下に隈を作っておられるわけですか」
 言われて机の上の銀のペンケースに顔を映せば、確かに目の下にうっすらと隈が浮いていた。
「いや、これは熱心な研究の成果でして」
「ふん」
 そんな嘘はつかなくてよろしいという鼻息に、ジャスティスは苦笑をもらすだけだった。
 40歳もとうに過ぎて、先生に怒られるように首をすくめる自分に嫌気がさす。
 だがそうさせるだけの貫禄と威光とが、カルロスという男にはあった。
 これで人に頼られる人望があれば完璧かもしれないが、いかんせん偏った優良遺伝子至上主義をはば
からずに口にするだけに、人望の点ではジャスティスの方が遥かに高いのが現実だった。
 それでも遺伝子という研究分野でいまやカルロスの名を知らぬものはいない、優秀な研究者であるこ
とに変わりはなく、研究所の運営も滞りなく行われていた。
 しかも予算をふんだくってくる才能も、カルロスは優れたものを持っていた。
「では、せめて【NW】のお仕事は精を出してやってくれたまえ」
 パソコンのキーを叩きながら言うカルロスに、ジャスティスが恐縮ですとばかりに頭をすくめる。
「今日の探査ポイントは座標軸 X40 Y20」
「X40 Y20。了解。入力終了」
 復唱したジャスティスに、カルロスが目配せをする。
 その合図でジャスティスはイスをリクライニングのように倒すと、その上に体を横たえた。
「こちらは現地の様子をモニターした。よく晴れて熱帯だな。気温38度」
「これは随分と苦労しそうだ」
「【NW】へのジャック・インのカウントダウンを始める」
 ジャスティスはソケットの電源をONにする。
 その途端に真っ白な何もない部屋に寝ている自分に入れ替わる。
 カルロスの声が耳に響き。
「3・2・1 ボン・ボヤージュ」
 次の瞬間、ジャスティスは生い茂る密林の中で目を覚ました。





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