第一章 彼女の決意

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 コーヒーを片手に新聞を読みふけるローズマリー。
 その前では全くそんなローズマリーの存在など無視でスイレイが〈エデン〉へのジャック・インの準
備をすすめていた。
 カバンからプラスチックケースを取り出し、その中から二本のジャックを慎重な手付きで取り出す。
銀色に光るそれは、ペルのこめかみで光るものと同じだった。
 スタンバイのスイッチを入れれば、緑色のランプが点滅する。
 そのうちの一本をパソコンですでに起動中のペルのジャックの隣りに挿し、もう一方をこめかみに挿
す。
 このジャックで、脳内に出来上がっている神経ネットワークに干渉。バーチャルリアリティーの世界
を体感させるのだ。
 IDカードをスキャナーに通し、もう一つの世界へのゲートを目覚めさせる。
 端末の上部にホログラムとしてあらわれた次なるセキュリティーに、スイレイは左手と右目を近づけ
た。
― 指紋……、網膜……、静脈パターン、スキャン………OK
  レベル2 ロック解除
― おはようございます、スイレイ
 端末から電子音の女の声がした。
 そして同時に、端末のディスプレイに、スイレイの顔と全身像が映し出される。
 その画像が右上に小さなウインドウとして移動すると、画面いっぱいに新たな風景を映した画像が映
った。
― 現在の〈エデン〉時間 〇五時三〇分
  天候 現在は霧が発生 のち晴れる模様
  気温一八度
 端末の説明どおりに、ディスプレイの中の川辺の景色は、上質の絹のような白い霧で覆われていた。
 スイレイはこめかみのジャックをONする。
 途端に、すぐ目の前にホログラムとして現れた選択ウインドウにジャック・インを命令する。
― 最終セキュリティーにはいります
  パスワードを入力してください
 スイレイは実際には誰にも見えない虚空にあらわれたパネルに手をのばし、パスワードを入力する。
― アナザリージョン
 スイレイの目にOKのサインが入る。
 次の瞬間、スイレイは病室ではなく、真っ白な部屋の中に立っていた。
 奥行も幅も認識できない、影ひとつない部屋。
― 感覚モード……オンライン
― 身体モード……オンライン
― 精神モード……オンライン
 電子音の読み上げで、ようやく自分の足で立っている感覚を取り戻すと、スイレイは頭を振った。
 もう一つの世界。コンピューターの中に作り上げられたヴァーチャル・リアリティー(VR)の世界
に足を踏み入れたのだ。



「あら。スイレイ。ずいぶんお早い再登場ですこと」
 少し高慢さの漂う女の声が頭上から降り注ぐ。
「イサドラ、遊んでないで、さっさと〈エデン〉に入れてくれ」
 スイレイは白い部屋に立ちつくして両腕を組むと言った。
「わたしはこの〈エデン〉のスーパーバイザーよ。もうちょっと敬意を払ってくれてのいいんじゃなく
て?」
「それなら、ぼくがこの〈エデン〉の創造主だ。君がぼくに敬意を払え」
「ずいぶんと偉そうね」
「偉そうでなくて、偉いんだ」
 そう言った瞬間、眼前ぎりぎりのところに顔を現したイサドラが、憤慨した顔で現れた。
「スイレイはわたしのことを見下してる!」
「見下してはいないだろ。だいたいにおいて、君を作ったのはぼくだ。ぼくの作ったものが完璧でない
わけがない」
「本当?」
「嘘は言わない」
 とたんに機嫌を直してほほえむイサドラに、スイレイは感づかれないように心の中でため息をついた。
 やっぱりあの二人に人格形成を任せたのが間違いだった。
 膨大な〈エデン〉の情報を管理・保存・分析するためのプログラムとして組まれたイサドラ。
 そのイサドラに人格を与えようと言い出したのは、スイレイやペルの幼馴染のジュリアだった。ただ
の数値でだけ管理するプログラムよりも、親身になって〈エデン〉を愛し、管理する人格を有したプロ
グラムを築こうと提案されてのことだった。
 だが、そのイサドラの形成に3人の人間が絡んだせいか、ほとほと分裂を起しそうな人格が出来上が
ったのだった。
 キャリアウーマンらしい、知的な外見と思考形態を授けたスイレイ。
 母親のように〈エデン〉を愛するようにと、愛情を与えたジュリア。
 素直な心で公正さをもって統治するような考えを与えたペル。
 全ては正しい考えのもとに取り組まれたものだったが、実際に目の前にいるのは、時にスイレイの、
ペルへの愛情に焼きもちをやき、自分の尊厳を求める自立心旺盛な、それでいて子どものように甘えて
くる、外見だけはれっきとした大人の女性だった。
「全くどうなるやら?」
「なんか言った?」
 独り言に、素早く反応するイサドラに、スイレイは何もないよっと両手をすくめて見せる。
 そんなスイレイを不信げに上から下まで見たイサドラは、不満そうに両手を組んだ。
 そして言った。
「スイレイの格好、どうにかならないの?」
「格好?」
「そう、格好。ちっともカッコよくない」
 これでは思春期の娘を持った父親だ。
 ぼくはまだ20歳だぞ!
 スイレイの周りをじろじろ見て周るイサドラが、ダメねと呟く。
「こんな安物のシャツに、いっつもジーパン。ペルに見捨てられるよ」
「うるさい。いちいちケチをつけるな!」
 スイレイはただただ消費されていく時間に苛立ちながら、イサドラの動向を見守った。
「これはイサドラさまがコーディネートしてあげないとね。たまにはペルを楽しませてあげないとなら
ないもの」
 言ってから、あまりにもいい思いつきをしたとばかりに両手を叩き、イサドラがスイレイを見て微笑
む。
「そうよ! スイレイをジョージにしてあげる?」
「ジョージ?」
 わけの分からないと眉をしかめるスイレイに、イサドラが空中から本を取り出す。
 本の題名は「ラブメロディー」
「知ってる? ネットではやってる小説」
「ああ、あの、次から次へと恋を重ねてく軽薄な男の話だろ」
 そう言った瞬間、イサドラの顔が冷たく冷める。
「ジョージを悪く言ったわね。スイレイは女心が分かってない!」
 おまえに分かるのかよ。
 言いたいところを抑えて黙り込むと、イサドラはスイレイを睨みつけた。
「スイレイ! ペルのために女心を学んできなさい!」
 そしてまるで女王のように手を振りかざすイサドラ。
 何様のつもりだ!!!
 だがスイレイの叫びは、イサドラには届かなかった。
 イサドラの宣言で、スイレイは〈エデン〉の中へと放り込まれていたからだった。
 白い部屋から姿を消したスイレイに、イサドラが微笑む。
「ペルを喜ばせてね。スイレイ♪」




 無重力から一気に重力のある空間に投げ込まれた不快感。
 スイレイはやっと落ち着いた体の感覚に目を開けた。
 そのスイレイの目の前に、大きく目を見開いたペルの顔があった。
「どうしたの? スイレイ?」
 鼻と鼻が触れそうなほどの距離で問われたスイレイは、一瞬何が起きたのか分からなかった。
 ただ自分の目の前にペルの顔がある。
 そして……。
 自分の状況を悟ったスイレイは、頭から血が下がっていくのを感じた。
 まるで今にもペルを襲おうとしているように両手をペルの頭の横につき、大きな腹のペルの上に覆い
被さっている。
 スイレイは慌てて自分の体をペルの横に転がすと、悪態をついて額を手で覆った。
「何を考えてる! ペルは妊娠中なのに!!」
 もし自分の体重をペルの上にかけてしまったかもしれないことを考えると、背筋を寒気が走った。
「イサドラね?」
 そのスイレイの落胆振りに、ペルが言った。
 だがその声に含まれている余裕の笑みに、スイレイが顔を覆っていた手を下げた。
「笑い事じゃないだろ?」
「うん。それはそうだけど……」
 心底怒っていることを示すスイレイの目にたじろいだペルだったが、上体を起すとやっぱり微笑みを
浮かべてスイレイを見下ろしていた。
「イサドラも悪気はなかったのよ。ちょっといたずら心を起したけど」
「いたずらが大事故につながることもある」
 スイレイの蒼ざめた顔にペルは手を伸ばす。
 そしてその頬に触れると、スイレイの手を自分の腹に置かせた。
「大丈夫だよ。ちゃんと生きてる。わたしとスイレイの赤ちゃんは、ちゃんとここにいる」
 手に伝わってくる温かさに、スイレイは荒れていた気持ちを落ち着かせると自分も身を起した。
 そしてペルの腹の上の手を見つめた。
 大きくせり出したペルの腹の下で、確かに息づいている命があるのを感じた。
 自分とペルの子ども。
 自然とその顔に笑みが浮んだ。
「心臓の鼓動を手に感じる」
「本当?」
 寝転んだままの姿勢で真剣な顔で手の平に意識を集中するスイレイをおもしろそうにみつめる。
「うん。ひとつは、『パパ、もうすぐ会いに行くからね』って言ってて、もう一つは『今日も元気に暴
れるぞ』そして」
「まだあるの?」
 そこで顔を上げたスイレイはニヤリと笑うとペルを抱きしめた。
「ペルの『愛しているよ』の声」 
 ペルもそのスイレイの体を抱きしめ返すと、スイレイの頬にキスをした。そしていつもなら着ないよ
うなジャケットの襟元をつまむと笑った。
「最高の日ね。スイレイはかっこいいし」
 そのペルの言葉に、さきほどのイサドラの言葉を思い出してスイレイはペルを抱きしめたまま、自分
の両手を前にかざした。
 その両手に、身に覚えない銀の指輪が幾つもはまっていた。
 そしてその両腕を覆っているのは、さっきまで着ていたシャツではなく、黒のジャケット。
 体中に神経を巡らせれば、違和感がそこらじゅうにあった。
 やたらと耳たぶも熱くて重い。
 スイレイはペルの抱擁をそっと解くと、自分の体を見下ろした。
 ジャケットの下のシャツは大きく胸元の開いた黒のシャツで、その首に太い鎖のネックレスがゆれて
いた。
 パンツは黒の皮で、履いている靴はやたらと先の尖ったブーツ。
 恐る恐る手を伸ばした耳たぶには、3つもピアスが並んでいた。
「なんだよ、これ!!」
 スイレイが叫びを上げる。
「似合ってるよ」
 スイレイの困惑顔に笑いながら、ペルがほめる。
「もちろんいつものスイレイも好きだけど。たまには気分転換もいいよね」
 楽しげに言うペルに、スイレイはベットの上でがっくりと肩を落とす。
 そのジャケットの胸で、赤いバラが揺れる。
「わたしはかっこいいスイレイが見れただけで、胸がドキドキ。本当だよ」
 ペルはスイレイに自分の胸を触らせる。
 本当にいつもより早い鼓動が、スイレイの手に伝わる。
 スイレイはそっと顔を上げると、すねた顔のままペルを見つめた。
「イサドラと一緒になって、ぼくをいじめてるわけじゃないよな?」
「まさか。イサドラだってかっこいいパパが見たいだけよ」
「いつものパパは?」
「う〜ん。柔和な青年。今日のスイレイはワイルドな男」
 ふーんと口を尖らせていたスイレイに、ペルが空中にも声をかける。
「ね、イサドラ。いつものスイレイもステキだけど、今日もかっこいいよね」
 その言葉に反応して、ベットのヘッドライトが点滅する。
 イサドラの返答だ。
 スイレイはそのライトに目を向けると、しょうがないかと諦めるように息を吐いた。
 そして胸に刺さったバラの花を抜くと、ペルの髪に挿した。
「キレイ?」
「いつでもキレイ」
 スイレイが微笑む。
「これもイサドラの贈り物ね」
 スイレイはそっと窓の外に目を走らせた。
 きっと今もイサドラがどこかから覗き込んでいるに違いない。
「たまにはイサドラの作戦にも乗ってやらないとね」
「そうね」
 笑顔で笑いあった二人の顔が近づき、唇と唇が重なる。
 その様子に、窓辺の枝の上の鳥が、狂喜乱舞していた。




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