第一章 彼女の決意

1

 湿度の高い夏の陽射しが目に痛いほどだった。
 窓辺に立って見下ろす眼下に広がる景色は、美しく整備された庭園の緑の木々と、原色のハイビスカ
ス。
 僅かばかりの冷気を乗せて通り過ぎていく風が、一時の清々しさを残して去って行く。
 アメリカ合衆国オレゴン州、ポートランド。
 美しい観光の地として発展したその町を見下ろす高台の病院が、今一人の青年、スイレイが立ってい
る場所だった。
 瞳に映る景色は夏の活気に溢れていたが、その瞳にあるのは一抹の悲しみと拭えない寂しさの色だっ
た。
 スイレイは額にかかる少しばかり長くなった茶色の髪をかき上げると、窓辺から離れた。
 そしてベットサイドのパイプイスに腰を下ろし、目の前で微動だにせずに眠っている少女の顔を見つ
めた。
 ふっくらと膨らんでいたはずの頬は痩せこけ、血管の浮き上がった手足は白くあまりにも細かった。
「ペル」
 スイレイは少女の名を耳元でささやくと、その髪を撫でた。
 いつも肩で切りそろえていたブラウンの髪が、枕を覆うほどに長くなっていた。
「かわいい顔して強情だから、ぼくはいつも振り回される」
 規則正しく上下する胸が、彼女が確かに生きていることを示していた。
 だがその目が開いていたのは、もう6ヶ月も前のことであった。
 その時、不意に勢いよく開けられたドアから、男女の話し声と高いヒールの音が溢れた。
「あら? お邪魔だったかしら?」
 そう言いつつ、決して足を止めずに部屋に入ってきた背の高い女に、スイレイはイスから立ち上がる
と目をそらした。
「別に。でもノックくらいはしていただきたいですね」
「そうね。わたしもペルとあなたのキスシーンなんて見たくはないもの」
 人を気遣うなどという言葉は、およそ聞いたこともないという口調で言い捨てた女に、スイレイも思
わず顔を赤くする。
「マリー。いいかげんにその性格は改めないと」
 女の後から入ってきた白衣の医師は、スイレイを気の毒そうに見やると、ペルの傍らに立った。
 いつも通りのチェックを始める医師を見つめ、スイレイは視界の端に入る女、ローズマリーを観察し
ていた。
 長い黒髪を束ね、毒々しい緑のタイトスカートをはいた彼女が、ファイルを手にその中の書類に目を
通していた。
 きっと自分の中にローズマリーへの憎悪さえなければ、その美しさに惑わされたかもしれないと思っ
た。
 赤い唇が手にしていたペンをくわえ、苛立たしげな手付きでファイルの端を指で叩く。
「なに?」
 目を上げずにスイレイの視線に気付いて問うローズマリーに、スイレイが再び目をそらす。
「別になんでもありません」
 そんな返答を鼻で笑うローズマリーに、スイレイは居たたまれない思いでその場に立っていた。
「特に問題はないよ」
 聴診器を耳から外した医師が、スイレイとローズマリーに告げる。
「ありがとう」
 ローズマリーは手にしていた書類を医師の腕の中に返す。
「筋肉量が減ってるわね」
「そりゃ、寝たきりだ。しかも栄養は点滴と鼻から流し込まれる流動食だけだ」
「体操はさせてますが」
 口を挟んだスイレイに、医師が頷く。
「だが、それも自分の意思でしている運動ではない。人間は不思議なもので、意識をして動かした筋肉
ほどよく発達するが、外部から与えられた刺激ではあまり効果を見せない。食べるという行為も同じだ
。栄養は補給してやれる。だが、自らの意思で口にした食物と流し込まれた栄養素では、やはり体に及
ぼす影響力は歴然と異なる」
 スイレイはベットの上のペルを見ながら頷いた。
 この六ヶ月でペルは大きく面変わりしていた。
 明らかに衰弱し、痛々しいほどにやせ衰えていた。
「事情は分かっているが、もうそう長くこの状態を保つことはできないと思ってくれ」
 頷いたスイレイの肩に手を置き、医師が病室から出て行く。
 ペルの顔を見下ろしたまま立ち尽くしていたスイレイの横で、ローズマリーは大きな音を立ててパイ
プイスに座ると、手にしていたバックをまさぐり、次の瞬間、ここが病室であったことを思い返して舌
打ちした。
「タバコなら喫煙室で吸ってきてください」
 ローズマリーの顔は見ないままにスイレイは言うと、ペルの傍らに立った。
「ペルは、……あっちでの様子はどうなの?」
 腕を組んで手持ち無沙汰な指を押さえ込むと、ローズマリーが言った。
「元気ですよ」
「今は妊娠8ヶ月だったかしら?」
「ええ。〈エデン〉での時間であと2ヶ月。現実の時間に換算すればあと1ヶ月」
 そこまでペルの体が持てば、それでペルが帰ってくる。たとえ、現実の世界がペルには苦しいだけの
世界であったとしても。
「8ヶ月か。一番胎動を感じる時期かしらね」
 珍しく母親らしい思いを口にしたローズマリーに目をやる。しかし思い描いたような柔和な表情はそ
こにはなかった。
 無表情な、まるで実験動物を見守るだけの科学者の目がペルの上に注がれていた。
「自分がペルをおなかに宿していたときのことを思い出しませんか?」
 嫌味の一つも言いたくなってスイレイが聞く。
「そうねえ。思い出さなくもないけれど。あなたが期待しているような愛情物語はないわね。妊婦の物
理的な重みに耐える苦痛と、自分の中で動く別の生き物の存在感。それから、自分の腕の証明を早くこ
の世に出してみたいって感じかしら?」
 スイレイは予想以上に醜悪なその感想に、不快を露わに顔をそむけた。
 そんなスイレイを嘲笑の薄笑いで見たローズマリーだったが、そっとペルの額に手を伸ばすと、その
髪を撫でた。
「でも、良かったでしょ。スイレイ。ペルはわたしの子どもだけれども、わたしが育てたわけじゃない
から、こんなに素直でかわいらしい子になった。わたしの元にいたらどんな子に成長したか分かったも
のじゃないわね」
「……それには同感ですね」
「わたしは科学者としての自分しか愛せないの。悪いわね。でも、だからこそこんな馬鹿げた行為にも
協力を惜しまないわ」
 そうだと思ったからこそ、スイレイはこの計画にローズマリーの協力を求めた。
 バーチャルリアリティーの世界で実の兄の子どもを産む。
 これほど興味のわく実験はないだろう。
 話したスイレイに、ローズマリーは一も二もなく賛同し、こうして昏睡状態を続ける少女を何も言わ
ずに入院させてくれる病院まで見つけてきた。
 そしてある意味献身的ともとれるほど、毎日こうして病室を訪れては世話をしていってくれる。体を
拭き、髪を梳かし、健康状態をチェックしてくれる。
 端から見れば美しい母の娘への献身だ。
 だがスイレイには、事務的に仕事をこなす看護士以上に愛情を感じることはできなかった。
 ペルを見て微笑むことも、語りかけることもしない。
 この人からペルへの母性を感じることなど不可能だ。
 だからぼくたちは……。
 スイレイは言っても詮のない呪いに陥り、意識してその思いから気持ちを切り離した。
 ローズマリーがペルのこめかみに光るジャックを確かめている。
 ペルをバーチャルの世界で生かしている大事なへその緒のような存在。それが良好な接続を続けてい
ることを示してピンク色の光を点滅させていた。
 ベットサイドのテーブルの上では、そのジャックと通信を続けているパソコンがある。
 静な夜になどは唸りを発するそのパソコンに繋がったバーチャルの世界に、今もペルがいる。
「スイレイ」
 不意に声をかけてきたローズマリーを見れば、再びハンドバックをつかんで立っていた。
「ペルに会いに行けば?」
「え?」
 思いにもよらぬ好意的な言葉に、スイレイが聞き返す。
 だがそれには答えず、病室の外へと歩いていくローズマリーが振り向かずに手を振る。
「コーヒーでも買ってくるわ」
「……」
 そしてドアの外に踏み出したところで立ち止まる。
「コーヒー飲む間の20分くらいなら、ついててあげるから」
 ありがとうございます。そうスイレイが声を出す前に、ローズマリーはドアを閉めてしまった。
 ローズマリーの考えていることは分からない。
 でも、と思い直し、眠るペルの顔を見下ろした。
 ペルに会いにいけるのは、どんな理由であろうと嬉しいことだった。
「ペル。今から行くからな」
 そう声をかければ、ほんの少し、ペルの顔が微笑んだように見えた。






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