§ プロローグ


 わたしの両手はいつも空いていた。
 誰も握ってはくれないから。
 ブランコに座り、ひとり公園を見つめる。
 目の前を、やっと歩けるようになった幼い男の子がよちよちと歩いていく。
 その前を、笑顔をはじけさせた若い母親が後ろ向きで我が子に両手を開いて歩いていく。
 足をもつれさせて転びそうになる男の子。それを抱きとめる母親の一瞬の必死な顔と、腕に抱きとめ
た顔に浮かぶ眩いばかりの笑顔。
 男の子に頬擦りするその顔には、えくぼが浮かび、子どもの薔薇色の頬と溶け合いそうだった。
 その二人に近づく若い父親の手には、カメラ。
 母親にたくさん撮れたよと報告している姿が、ほほえましかった。
 地面に下ろされた男の子の両手は、母と父の手に握られていた。
 わたしは自分の手を見下ろす。
 まだ子どもの白く丸みを帯びた手が、何かをもとめて握ったり開いたりを繰り返す。
 わたしの手は、いつだって体の横で居たたまれない気持を握り締めているだけだ。
 公園でも、学校でも、家でも。
 その時、ブランコに座るわたしにドンとぶつかって来るものがあった。
 目を上げたわたしの目に映ったのは、先ほどまで両親と手をつないでいたはずの男の子。
 目のあったわたしに極上の笑顔を向け、やっと生えてきた歯ののぞく口を大きくあけて笑った。
 そして小さな手が、膝の上にあったわたしの手を握った。
 よだれでべっとりした手だったが、柔らかくて温かい手だった。
「ねーたん」
 ギュッと握られた手が、動かなかった。
「ああ、ごめんね。よだれだらけの手で」
 若い母親が駆けて来る。
 わたしはその顔を見上げることができずに、男の子の顔を抱きしめた。
「ねーたん?」
 耳元をくすぐる声が温かく、尚更心を揺さぶった。
 目頭が熱くなり、鼻の奥がつんと痛くなる。
 こんな小さな子にすがって泣くな。
 10歳の意地で涙を堪えたが、溢れた感情に肩が震えた。
 涙でにじむ視線の先で、男の子の両親の足が止まる。その足元が、思いにもよらない事態に困惑して
いた。
「ごめんなさい。ちょっと…」
 顔を上げて涙を拭ったが、震えて出た声がなおのこと自分を追い詰めた。
 下から自分を見上げた男の子の視線が、痛いほど自分に注がれていた。
「あの、何かあったの?」
 若い母親がブランコの足元に座り込み心配げに見つめてくる。
 サラサラのボブヘアーが、夕日に輝き美しかった。
 わたしのお母さんもこんな髪型で、いつもわたしに微笑みかけてくれていた。そのお母さんが……。
「母と父が……2週間前に…事故で…亡くなっ…」
 その後は言葉が続かなかった。
 ブランコの下の砂場に膝をついた若い母親は、涙にくれるわたしをそっと抱きしめてくれた。
「つらかったね」
 その言葉に、抑えていた涙が大きな嗚咽とともに溢れ出した。
「誰も…… もう、お母さんみたいに……わたしの手を握ってはくれないから ……はれものみたいに
遠巻きにしているだけで……」
 男の子もわたしの膝に手を回し、ぎゅっと抱きしめてくれる。
 わたしもその体を抱きしめかえす。
 それだけで空虚に毒だけを満たした体の中に、別のかなしい色をした愛情が染み渡った。
 意思では抑えきれない嗚咽に照れながら、わたしは体を起した。
「あ…ありがとう ……手がね、握ってもらえてうれしいって」
 涙を拭った手で男の子の手を握ると、そっと離した。
 何が起きたのかわからないながらに、涙目で自分をみつめてくれていた男の子が父親の腕に抱き上げ
られる。
「これから、あなたはどうするの?」
 他人でどうすることもできないけれど、心配でしょうがないの。そんな表情で若い母親は尋ねてきた
。
「母の妹の叔母と一緒に住むことになってます」
「そう。その叔母さんと新しい家庭を築いて、幸せになってね」
 わたしは泣き笑いで頷く。
「ありがとうございます」
 手を振って帰っていく家族を見送り、わたしは自分の両手を見下ろした。
 さっきよりも赤いのは、あの親子の愛情の力を受けたから?
 そう思っていた瞬間、声がかかった。
「ペル。こんなところにいたの?」
 叔母のローズマリー。
 母とは正反対の性格と外見の女。
 そう、彼女は叔母ではなく女だった。
 真っ赤な口紅をひき、短いタイトスカートとヒールの高い靴を履いた女。
 ローズマリーがわたしの前に立つ。
「さあ、行くわよ。もう葬式も済んで引越しも業者に頼んだから」
 泣いた痕のある顔に怪訝な顔をしつつ、ローズマリーは何一つ尋ねようとはしてこなかった。
 両手を胸の前に組んだローズマリーの前に立ちあがる。
 それを見届け、さっさと背中を向けて歩き出すローズマリー。
 そのあとを追って歩きながら、わたしは再び両手を見下ろした。
 すっかり熱を失って白くなった手が、やっぱりひとりぼっちに空いていた。
 手はとられることなく。
 両手が、力なく体の横に垂れ下がった。



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