§ エピローグ


 ひんやりとした朝の空気が大地を覆っていた。乳白色の霧が絹のベールのように空気の中を軽やかに
漂い、鳥のさえずりを柔らかく包み込む。
 その中を、苦痛に足元をふらつかせながら歩く男がいた。
 危ない足取りで折り曲げた体を両手で抱えながら歩く。
 その男が一軒の家の敷地に足を踏み入れた。そして木々の繁る茂みに倒れこむと、荒い息をついた。
 絶え間なく続くのは痛みとともに脳内を何かが掻き毟る嫌な音だった。
 幻覚、幻聴。
 ありもしないものに怯えているのだと自分を言い聞かせるが、同時に体を襲う倦怠感と痛みは本物だ
った。
 両手を湿った草の上について身を起こそうとして、体の下になっていた枯れ枝が音を立てて折れた。
 その音に木の枝で寝ていた鳥が、大気を切り裂く悲鳴のような鳴き声を上げて飛び立った。
 その声に体を強張らせた瞬間、男は苦なりの声を上げた。
 両手で顔を覆ったために、支えを失った体ごと地面に激突した。
 目が……目が……。
 男は心の中だけで悲痛な声を上げ続けた。だが実際の声はどこかへ逃げてしまったように出てきては
くれなかった。
 手の平の中で眼球が蠢く。
 腫れあがり、自分の意思があるかのように眼窩から飛び出そうと身じろぎする。
 幻の痛み? 全てが夢なのだろうか? ならば早く醒めてくれ!
 だが苦痛の中で、唯一の望みのように願った思いとは裏腹に、脳髄を貫くような痛みが走った。
 脳をクラッシュしてしまうような強烈な痛みの中で、男は体を痙攣させた。
 手の平に潰れた眼球を感じる。
 眼窩から垂れ下がった眼球が、そこにあった。視神経でのみ自分と繋がったそれが、手の中でブラブ
ラと揺れていた。
 左半分の視界がブラックアウト。
 男は途絶えそうな意識の中で、自分が足を踏み入れた家の窓が開くのを見た。
 白いレースのカーテンがふわりと舞い、その向こうから一人の少女が顔を覗かせた。
 少し不安そうに、窓の外の景色を見渡していた。
「どうした?」
 少女の背後から声が聞こえ、眠そうに目を擦った青年が姿を表す。
「うん。変な声がした気がして」
「……鳥の声だったんじゃない? 鳥もきれいな声のばかりとは限らないからな」
「……そう。そうかもね」
 どこか納得しない顔の少女を、青年が後ろから抱きしめた。
「そう神経質にならないで。お腹の子どものためにも、お母さんは安らかな心でいないと」
 頬に降り注いだ青年のキスに、少女がくすぐったそうに笑う。
 なんとも幸せな空気に包まれた光景だった。
 男は青年によって閉められた窓を見つめながら、身を起こした。
 目を向けた地面には、血痕がありありと浮んでいた。それを足で踏みつけると、すざまじい形相にな
った自分の顔に意識を集中させつつ目を閉じた。
 その姿が一瞬、ほんの瞬きの間消え失せ、ふたたび姿を現した。
 そこには苦痛の欠片も見えない、丹精な顔の男が立っていた。
「……」
 男は再び戻った視力で辺りを見回しながら、少女と青年の住む家を眺めた。
 そして踵を返すと出て行った。
〈エデン〉の中へと。






                         第一部 〈エデン〉  了


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